第8話 望んだ暮らし

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第8話 望んだ暮らし

「なんだ、そういうことだったのかい……。それなら病院に行ったら良かったじゃないか……?」  力ない声で母親の絹代(きぬよ)が言った。  元地主の家系ということもあって、ゆったりとした敷地に池のある中庭を挟んで、向かい合うように建った母屋(おもや)と離れ。話には聞いていた岡部であるが、目の当たりにしてみると、まるで時代劇のセットの中にいるようだ。  その母屋の玄関に近い八畳の間。中央では真理の母親が、布団の中でもう静かな寝息を立てている。 「行ってみる?」  母親を見捨てるようで言いにくかったから、岡部のことはひとことも言わなかった真理である。 「ここまで回復したんだからもういいよ。それに、出所の分からない金を使うのはちょっとな……」 「出所の分かるお金だったら使ってもいいの? 誰のだって?」 「真理。そのことは忘れるっていう約束だったじゃないか?」 「冗談よ。絶対にそのお金には手をつけないの。仁美ちゃんとのことは、そのうち頃合いを見計らって食事でもしながらよりを戻そうよ。でも今は無理よ。仁美ちゃんは私と同じ会社で働いてるんだから、岡部君と一緒に暮らしていることを言うわけにはいかないもの。そう心配しなくてもなんとかなるって、人生なんてさぁ」 「――おまえにも迷惑をかけたな」 「何言ってんのよ。私は飲み会にも同窓会にも顔を出しているし、出していない仁美ちゃんとは仲もいいから、あの人の気持ちも分かるの。だって、あの人は高校のときは副生徒会長をしていた人よ。なのに、【(えにし)の会】を立ち上げるっていうときには一言も声が掛からなかったの。もしかしたら今度のことだって、それを根に持った仁美ちゃんが……。それと前からだけど、来ているのは女の人がほとんどなのよ。女の人は弱いからね。あんなことなんて、時間が経てばきっと笑いごとになるわ。これから頑張ってそういうふうに持っていかなくちゃ。ねっ、そうでしょう?」  新生活がスタートした。  体調はまだ十分に戻っていない岡部だが、真理が仕事に行っている間は努めて母親の世話をした。当然動けば体のあちこちに痛みが走るのであるが、それが年老いた母親の役に立ってると思えばさして気にもならない。  ましてや、その母親が自分を見つめる目は神聖なもののように温かみに溢れ、まるで世話をすればするほど、迷惑をかけた者達に対して償いをしているかのような思いになる。真理の母親が岡部を見つめる目は、岡部の中の誓いを更に確かなものに変えていった。  やがて夕暮れどきに待ちわびた真理が仕事から帰ってくると、 「(たくわ)えがあるからな!」  いつしかそれが二人の合言葉のようになり、ハイタッチをしては今の有様を笑い合った。  犯してしまったことは今更取り消すことはできないが、だからこそ、今から真理と二人で力を合わせてゼロからやり直し、新しい幸せを掴むんだ……。  そう思えばあんなことをしでかしてしまったことが、まんざら悪いことではなかったように思えたりもする。  座椅子に座った母親と三人でとる夕食。  それまで感じたことのない心豊かな幸せな時間に、二人は酔いしれていた。    ――しかし、そんな三人に釘を刺すかのようにかかってきた電話に真理が表情を曇らせた。  だから岡部が箸を置いたのであるが、その事情を聞く間もなく、すぐに前庭から車のドアを閉める音が聞こえたと思ったら、何かがぶつかったような大きな音の直後に入り込んできた風が、障子を揺らした。  思わず岡部が少しだけ障子を開けてそちらを見てみると、開け放たれた玄関から入って来たその男は、靴も脱がずにバットを手にしたまま、岡部の顔から視線を逸らすことなく上がり込んできて、仁王立ちになって座卓を挟んで座る二人を見下ろした。   そして振り返ると、 「おまえか、岡部っちゅうのは? おまえ、誰の断りをもろてこの家に上がり込んどんじゃ?」  その大男は真理の兄、辰三(たつぞう)だ。  この辰三は、寝たきりの母にタバコ代をせびりに来た所を近所の人にとがめられ、激昂(げっこう)したあげくにその人に暴力をふるって怪我をさせたのだが、地元有力者の力もあってなんとか警察沙汰にはならずに済んだものの、この土地には住んでいられなくなってからもう三年以上姿を消していたのだが……。 「やめてお兄ちゃん!」  真理は辰三の足に抱きついた。 「なんだよ、いきなり! やめてくれ! 俺は怪我をしてるんだぞ!」  あまりにいきなりのことで、魂が抜け出したような顔で二人が言う。 「離せや!」  辰三が大きく足を振って更に蹴飛ばすと、弾みで柱に頭をぶつけた真理。 「やめてくれ、頼むから!」  岡部は痛みをこらえながら真理の方へ行くと、怯える全てを抱き締めた。頭を撫でると少しではあるが手に血が付いている。 「おまえ、岡部組の息子だろうが? おまえのくそおやじはどこに行ったんじゃ?」  寝たきりの母親は布団に潜り込んでしまったのだが、その布団の中からこもったようなすすり泣く声が漏れている。そんな母親に近づくと、布団の上からではあるが、辰三はこんもりと膨れ上がった辺りを目掛けてバットを振り下ろした。 「ひゃぁぁぁぁ――!」  初めて聞いた母親の悲鳴。 「やめてお兄ちゃん。叩くのなら私を叩いて!」  その真理の悲痛な叫びに、さすがの辰三も寂しそうな表情を浮かべる。岡部はタオルで真理の(ひたい)の傷口を押さえながら部屋を出ようとした。 「おい、待てや! どこに行くつもりじゃ!」  落雷のような辰三の叫び声が二人の足を止める。「わしはな、若い頃おまえんところで働いとったんじゃ。おまえ、花岡いうおっさんの話、聞いたことがあろうが?」  岡部は振り向き、わずかに口を開けて辰三の目を見た。 「ああ、知ってるぞ。仕事中に倒れてそのまま亡くなった人のことじゃないのか?」  辰三は二人に歩み寄った。 「あのおっさんはな、殺されたんじゃ。おまえのおやじにな!」  兄がいるとは聞いていたが、今まで真理がそのことについて何も言わなかった理由が分かったような気がした。「重機の下敷きになって死んでいった者の気持ちがおまえに分かるか? 腰から下が完全に潰れて、それでも助けを求めてもがき苦しみながら死んでいった者の気持ちが、おまえに分かるのか?」  「やめてお兄ちゃん、そんな昔の話! この人は何も知らないのよ! この人を責めるのは筋違いよ!」 「おまえは口を挟むな! あの晩花岡のおっさんは、わしとおまえのおやじと三人で飲みに出たんじゃ。二軒三軒とはしごして……」 「お兄ちゃん!」 「うるさい、おまえは黙ってろ! もう十二時を回ろうとしている頃じゃった。明くる日は仕事だったから、わしは花岡さんを連れて帰ろうと思って、おまえのおやじに断りをしに行ったんじゃ。その店は馴染(なじ)みの店で、おまえのおやじは気に入ったホステスと話をするのに夢中になっとった。おやじは面倒くさそうに『花岡には話があるからお前一人で帰れ』、そう言って、俺の前に十万の金を出したんじゃが、俺は受け取らんかった。それは、今日のことは人には言うな、そういうおやじの気持ちに間違いない、わしはそう思ったからじゃ」  興奮の余り、顔を近づけてしゃべる辰三の酒臭い息が鼻をつく。「花岡さんは、おまえのおやじに付き合わされて明け方まで飲まされたんじゃ。そしてその朝早く、『しんどいから仕事を休ませてくれ』って、わざわざ会社に来てまでおやじに言うとったんじゃが、おまえのおやじは一切取り合おうとしなかったどころか、『辞めてもらってもいいんだぞ』、そんなことを俺の横で言うたんじゃ。だから仕方なく花岡さんは仕事に出たんじゃ。あの暑い日に国道の改良工事じゃ。おまえもよく知っている小学校の横の崖っぷちのな……。みんなが一番心配しとった場所じゃ!」  感極まった辰三はバットを持った腕を振り上げると、そのまま勢いよく真っすぐ振り下ろして廊下を叩いた。  真理は、行きたがる岡部の腕を固く握り締めていた。
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