第9話 愛しい夜

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第9話 愛しい夜

「終わったことじゃない。今更言ってなんになるの! もうやめてよ、お兄ちゃん!」  身を乗り出して、神に祈りを捧げるように真理が懸命に訴える。しかし、今のこの男にはそんな妹のつらさなど伝わらない。まるで聞こえていないかのようだ。 「花岡さんはしんどそうにしとった。何人もの仕事仲間がそのことをおやじに言いに行ったんじゃが、あいつは取り合わんかった。誰かがおやじの車の鍵をあの崖の下に放り投げたんじゃ。そうでないと、どうしてあんなに下の方まで鍵が転がるんじゃ、あんな石だらけ、草だらけのデコボコした崖を? おやじの車の鍵はこれ見よがしに光っとった。線路の近くでな。そして、『花岡、わしは帰るから、おまえに預けとったスペアキーを出せ』そう言うたんじゃ。『スペアキーは事務所に帰らんとない』、花岡さんはそう言うたんじゃが、おやじは軽く顎をしゃくった。花岡さんはそのときエンジンのかかったユンボに乗っとったんじゃ。でも、そんなおやじの指図に慌ててユンボから飛び降りて、ゆっくりと崖を下り始めた。サイドも引かんとな。あれだけ慎重な花岡さんが……」 「あんた、誰かが鍵を放り投げるのを見ていたのか? 全部あんたの勝手な想像じゃないか!」  そう叫ぶ岡部に更に辰三が近づき、鼻先が当たらんばかりに顔を近づけてこう続けた。 「黙れ! おまえこそあの場にいたわけではないのに見たようなことを言うな! 花岡さんという人は仕事熱心な人で、サイドも引かずに降りる若いやつを見ると、いつも叱っとったぐらいじゃ。ちょうど昼の休憩をとるときじゃった。みんな崖を下りていく花岡さんを見とったあまりに、いきなり重機が動き出したのに気付いたときにはもう遅かったんじゃ……」  辰三の声はすでに涙声に変わっているのだが、時々嗚咽を交えながらも更に続ける。「花岡さんはなんでも相談に乗ってくれる、わしらの頭みたいな人だったんじゃ。金のこともそうじゃ。おやじと付き合いの長いおっさんは、頑張る者にはそれなりの日当を出すように言うてくれとったんじゃ。だからみんなおっさんを慕って……。それがおまえのおやじにしたら気に入らんかったんじゃ!」 「それはあんたが勝手にそう思っているだけで、俺のおやじの言い分を直接聞いたわけではないだろう? 第一、それだけ分かっていたんだったら、どうしてその問題を解決するための場を設けなかったんだ。そんなあんたこそ悪いんじゃないのか?」  そんな岡部の言葉にバットを振り上げる辰三。 「やめてお兄ちゃん!」  真理が二人の間に無理やり体をこじ入れると、じっと真理の目を見ながら振り上げたバットをゆっくりと下ろした辰三。  三人の荒い息遣いに、布団の中の絹代は覚悟を決めていた。 「わしが聞いたところによると、あのホステスに熱を上げてかなり(みつ)いどった、そういう噂じゃ。益川っちゅう所は狭いから、悪さをしたらすぐに分かるんじゃ! あのとき、重機の一番近くにいたのはおやじじゃ。しかも、わざわざそのために仕事中のおっさんに駆け寄っていって……。崖の下に自分の車の鍵を投げたのもおまえのおやじに決まっとる。ほかに誰がおるんじゃ? おまえのおやじが殺したんじゃ! おまえのおやじが花岡のおっさんを殺したんじゃ!」  ――葬儀の日の朝、父親が大酒を飲んで母親と言い争いをしていたのを岡部は思い出していた。それを境に従業員は去り、会社は倒産へと向かっていく。  中学に入ったばかりの岡部は為す(すべ)もなく、ただ流されるしかなかった。  「そんな話を聞いたのは初めてだ!」  ゆっくりと立ち上がった岡部が言う。「会社は倒産したし、おやじは死んだ。今更息子の俺にどうしろって言うんだ? それにあんたがそう思うのなら、どうしてそのとき警察を呼ばなかったんだ?」 「それには訳が……」  そう言ったのは真理だ。  こいつは母親のことでおやじに金を借りていた……。岡部はとっさにそう思った。  するとその辰三が逆に、 「どうせ金だろうが。おまえは真理をだしにしてこの家と土地を取ろうと思っとる。坊ちゃん育ちのおまえには、金を儲ける苦労っちゅうもんが分らんだろうが? どうせそんなところじゃ。あのがめついおやじの息子じゃからのう!」 「もうやめて。お願いだからお兄ちゃん!」  岡部は真理の手を振り払って前に出た。「岡部君もやめて! 二人とも落ち着いてよ!」  その時、辰三が手にしていたバットが手からスルリと離れた。母の絹代が奪ったのだ。  辰三は絹代からバットを奪い返すと、その痩せた体を足で蹴飛ばした。  もう辰三は、得体の知れない者に完全に支配されてしまっている。  激昂した辰三は母親の前で仁王立ちになると、ゆっくりとバットを大きく振り上げた。もはやその表情は、人間のそれとは思えない。 「やめて!」 「やめるんだ!」  静かな夜に二つの願いが轟く。一瞬、時が凍りついてしまったかのようだ。  正座したままの絹代は静かに辰三を見上げると、その目を見つめたまま頷いてから、力なくその細い首を前に出してみせた。  辰三の眉が小刻みに動いているのが分かる。たまりかねた岡部が一歩踏み出したときだった。 「おおぉぉぉぉぉ――!」  気勢を上げながら思いっきりの力でバットを柱に叩きつけると、辰三は折れたバットを畳に突き立て、表に向かって走り出した。  痛々しい音とともに閉まった障子が弾みで開き、その隙間から辰三の遠ざかって行く後ろ姿が見える。  うなだれた絹代が、 「辰三……」  涙声でそう呟く。  しばらく辰三の車の奏でる爆音が、辺り一帯に響いていた。  真理は畳に刺さったバットを取ると中庭に投げ捨てた。  二人で母の絹代を着替えさせ、髪をほんの少し切って薬を塗ってやる。そして、枕を少し高くして布団の中に寝かせると、絹代は何度も何度も目で頷き、乾いたその唇は、「ありがとう」と動いていた。  その夜、真理と岡部は母親を挟むようにして布団を敷き、どうせ寝られないのだったらと、遠い昔のことを小さな声で話し出した。  耳の悪い母親には聞こえないはずなのだが、それでも微笑む母、絹代。  ――いつの間にか寝てしまった、母親の小さな寝息が虫の声と絡み合う。  真理はそっと岡部の布団に潜り込むと、その耳元に小さな声でこう繰り返した。 「大好き、愛しています……」  と、まるで隠れん坊をしている子供のように……。
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