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第2話 何かがいる
「なんだよ。駆除したって聞いていたけどまだいるじゃないか。気持ち悪くてとても触れやしないよ。――ほら、出ていきな! こんちくしょうめえ!」
やっと一匹の蛾を窓から追い出したカダは、遠くから鳴り響くサイレンの音に、網戸を閉めるのも忘れて思わず窓枠に体を預けると、「へぇー、珍しいこともあるもんだね。火事だわ……」
などと独り言を呟き、そのまま頬杖を突いて赤々と燃え上がる炎を見つめている。
テレビもつけていないのだから足音が次第に近づいてくるのは分かっていたのだが、聞き慣れたはずの玄関戸を開けた音に次いで、
「姐さん、起きてるんだろう? 稲垣さんとこの家が……」
その声からした興奮ぶりは十分に伝わってくるものの、こんな状況の中でもちょうどタイミングよくやってきたその声の主、ヨネを歓迎さえしている自分が少し変に思える。
「――ええっ、そうなのかい。稲垣さんの家なのかい? どおりでよく見えるはずだわ。そりゃ大変だ。でもあんた、ちょうどいいところに来たじゃないか……」
「――あそこら辺は住宅密集地だからね。消防団が出て懸命に消化してるっていうことだけど……」
「サイレンが聞こえるっていうことは消防車も来てるっていうことだ。なんとかなってくれたらいいんだけどね。それはそれとして、あんたが来たからかもしれないね?」
襖の向こうからそんなカダの声が聞こえているのだが、そのまま普段履かない靴に手をやっていたヨネが、
「なんの話なの?」
と、わずかな隙間に親指を突っ込んで、まるで固いミカンの皮をめくるように懸命になっていると、
「ほおら、おいでなすった? 早く、早く!」
そう言うカダの声に、
「ちょっと待っておくれよ。この靴孫のだから小さくてなかなか脱げないんだよ。よいしょっと! あっ、忘れてた。あらよっと……」
そう答えると、今来たばかりのヨネが座敷に上がったのに少し遅れて、玄関戸の閉まる痛みを伴うような音が家中に響き渡った。
「ね、姐さん。ホ、ホッチキスの針がいっぱい……」
「へっ! なんだよう? こんなもんなら気にしなくたっていいんだよ。どうせそのうちすぐに消えてしまうに決まってるんだからさぁ」
「でも、姐さん……」
「そのうち痒くなってくるっていう話だけど、あんただって人のことを言えたもんじゃないよ。首の周りにたくさんできてるじゃないか。前に刺されたのが育ったんじゃないのかい? 痒くないのかい?」
「ええっ、本当なのかい? 痒かったらもう分かってるよ……」
驚いたヨネがほんの少しだけ指先で首筋を撫でると、まるでザルでも撫でているかのような硬くてでこぼことした、とても自分の肌とは思えない感触が伝わってくる。「頼むよ、姐さん! これじゃ家に帰れないよ」
「大層に思うんじゃないよ。どうせどうってことないんだから。そんなことよりあんた、いいとこに来たよ。私がこの前言ってただろう……。見といてごらんよ。あのときあんたが笑っていたのが少しずつ浮かび上がってきてるんだよ。ほら、あれだよ、あれ……」
そしてチラッとヨネの表情を確認してから、「ちょうど神前島とわらじ島の間辺りだよ……。本当のことなんだから目を離すんじゃないよ」
店に行くといつも冗談ばっかり言っているカダであるが、今はちょっと、いやだいぶん違う。次いで、まるで狐にでもつままれたかのように網戸越しに窓の外を眺めているヨネに向かって、
「あたしの言った通りだろう? 嘘じゃなかっただろう?」
「姐さん、なんなの、あれ? ただ事じゃないねぇ。やばい感じがするじゃないか。警察か組合に連絡した方がいいんじゃないのかい?」
「分かってるよ。いざとなったらそうするつもりだけど、まあいいからしばらく観察してみようじゃないか」
ゆっくりと、じんわりと、まるで息継ぎでもするかのように次第に視界の中に浮上してきた黒い物体に、ヨネはたまらず網戸を開けて身を乗り出したのだが、カダはどんなもんだと言わんばかりに目を細め、そんなヨネの背中越しにじっと見詰めているだけだ。
そんな心の余裕がそうさせたのか、カダがリモコンを取ってテレビをつけると、ちょうど日付が変わることを告げる柱時計が鳴り出した。とっさにヨネが時計の方を振り返る。
「ヨネ、どうしたんだい?」
その怯えたような表情を見てカダが笑う。「言った通りだろう? あんた、いつまでも立ってないでここに座ったらどうなのさぁ」
すると、ヨネは腰を曲げて窓枠に片手を付いてから、
「よっこらしょっと! ついでにどっこいしょ、か!」
そしてあらためて二人が見つめたその先では、まるでそんな二人の動作に合わすように何かがクルッと回ったかと思うと一瞬の閃光が走り、その眩さに思わず手で顔を隠してしまった。
「姐さん……」
と声を震わせてそう言うわりには再び腰を上げて覗き込むヨネ。
双眼鏡というものを持たないカダ。それでもその真相を突き止めたいあまりに立ち上がってヨネの横に体を寄せると、
「どうしたんだよ、ヨネ?」
「いや、ちょっとね……」
そう言いながら、ヨネは一瞬触れた体を避けるように窓枠の方に体を寄せると、「それにしてもでかいねぇ。こりゃあ洒落にならないよ……」
ポツリとそうこぼした。
――ここは丸い鉤寺山の麓、ちょうど鉤寺の長い階段の下で終わりを告げる住宅街の最終地点と言ってもいい、下まで五十メートルはあろうかという、北方向に飛び出した岬のような所だ。
ぐるりと日本海が見渡せる通称【大森】地区に、カダはまるでその全てが自分の庭であるかのような愛着をいまだに捨てきれずにいる。
「ヨネ。あんたどう思う?」
「じっとしてるけど、巨大なウミヘビにしか見えないね」
「そうだろう。だからこの前あんたに言ったんだ。あんなものがいたら、海水浴をしている子供達がいつ襲われるか心配で仕方ないよ。そうだろう?」
「そりゃそうだわ。あれが見えるっていったら浦吉でもここか茂さんとこ、それと、今燃えている稲垣さんとこぐらいだからね。とても下からじゃ見えないわ」
「姐さん。それにしてもなんだよ、あの大きさったら……」
間違っても崖に落ちないように膝を窓の下側の壁に当て、踏ん張りながらヨネの前に身を乗り出してそんな光景を見つめるカダであるが、その薄いTシャツからはみ出した皮膚をヨネが間近で見た時、
「ひゃぁぁぁぁぁぁ――! 姐さん!」
驚いたヨネと共に、突然上方向から目の前に現れた、二つの人影を同時に見たのが最期となってしまった。
――さらにその後。
心配の余りに隣町から実家に帰っていたカダの姉コマが、いつまで経っても電気が消えないことに嫌な胸騒ぎを覚えて出向いてみたのだが、テレビの音が聞こえて履物が一つ多いのになんの返事もないのを不審に思い、家に上がり込んで海側の部屋の襖を開けてみたとき、いきなり目に飛び込んできたその惨状に慌てて家から出ようとすると、
「開けておくれよ! 誰なんだい? どうしてこんなことをするんだ! 開けておくれよ!」
と大きな声で怒鳴っても、浦吉の静寂を破るには余りにも小さな抵抗でしかなかった。
――そそり立つ岩山を中心部に持つ神前島と、これと対照的にほぼ平らなわらじ島が月光に照らされ妖しく輝く、浦吉のある夜の出来事であった。
そんな一件があって以来、村人の全てからパソコンや携帯電話を初めとした外部と連絡が取れるものの全ては没収、遮断されたうえに、浦吉から出ることを禁止する命令の下、村は完全に外部から隔離されてしまった。
さらに、その後の村人の反応を見ていたかのように、結局カダの家が誰かによって放火されたのは、放置されてから三日ほど経ってのことであった。もちろん、三人の遺体もそのままに……。
カダの住んでいた大森地区という所は、二年前に起きた大地震以来災害危険地域に指定されたのをきっかけに立ち退きが進んでいたものの、それを拒否したカダだけが残っていたのだ。
過疎化の進む浦吉にはかなりの数の空き家もあるのだが、大森の住民達は行政の勧めにより、国道沿いに建ったばかりの二十階建てのマンションに、格段の好条件で次々と引っ越していった。しかも、全員が割り当てられたのは最上階となる二十階だ。
幸いエレベーターはついているものの、眺めが良い、と大森に住んでいた頃を思い出して喜ぶ者もいれば、何かがあったときに下に降りるまでが大変、まるで刑務所にいるみたい、などと、二十階であるが故の恐怖を口にする者もいる。階下の全ての部屋は誰も入居していないのだから、それも十分理解できる話だ。
今のところ誰の耳にも入ってはいないが、何者かが入居を予定しているに決まっている。
何者なのか?
大きな疑問と不安は残るものの、声を上げる者も、またそれについて尋ねる者も、誰一人としていなかった。
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