第2話 翔太の知らないこと

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第2話 翔太の知らないこと

 そもそも翔太が陽向(ひなた)汐里と出会ったのは、帰省した直後に館林の誘いで飲みに行ったときに、二軒目に入ったスナックのママをしていたのがこの(ひと)であったということで、付き合い始めたのは、その三日後、昼休みに会社にかかってきた電話で告白されてからのことだ。  「たった一度顔を合わせただけなのに」、とは思うものの、そのときの汐里には断ることを許されないようなものを感じた。またそれとは別にこう言っちゃ悪いが、ポツンと離れた山手の一軒家で一人暮らしをしている汐里は、翔太にとっては絶好の隠れ家的存在、つまり、渡りに舟に思えたのだ。  それにしても、出会った頃は当然のように今までのことを語り合うのが普通だと思うのだが、汐里の場合は、 『これを読んでちょうだい』  そう言ってから、不機嫌そうな顔で小さな本を4冊手渡しただけで、それ以上何も語ろうとしない。気のせいか、そこに触れようとすると話題を変えるようにも思えるから、いつしか二人の間では、今までのことについては触れない、というのがルールのようになってしまっていた。  別にどうでもいいのだ、そんなことなんて……。  それに、いつものことではあるが、汐里の家に行くと、 『あっ!』  壁をすり抜けて現れたかのような汐里に驚かずにはいられないのだが、 『何を驚いているのよ? 私の顔に何かついているの?』  そう言われると、昨日の飲み過ぎがたたっていると思わずにはいられない。そんなことなんてあるはずないのだから……。  それと、 『汐里ちゃん、体を見てくれないか?』  すぐに半分だけTシャツをめくった翔太の背中に向かって、 『だから言ってるでしょう。私がついているから大丈夫だって』  そんな相変わらずの答えが返ってくる。だから、 『いつもそうやって言うけど、それってどういう意味なんだい?』 『私が守ってあげてるって言っているの!』 『それもだ。どういう意味なんだい?』 『ったくぅぅ。大丈夫だから大丈夫なの! そんなことはどうでもいいから、おしゃべりはこれぐらいにしてベッドに入ろうよ!』 『汐里ちゃん、ちょっと声が大きいんだよ。幾ら離れてるっていっても、それだけ大きかったら隣に聞こえてしまうじゃないか』 『どうしてそれが悪いの? いいじゃない、そんなことなんかどうだって。生きるってそういうことなんだよ。生きているからこそ実感できるんだ。さあ、早く入ろうってば!』  などと言いながら強引に手を引く汐里なのであるが、そうかと思えば満足そうな表情を浮かべたまま、 『私は与えられたこの人生を笑顔で締めくくりたいの……』  それが口癖の、何かしら不思議なものを漂わせる女。翔太は汐里に対してそんなイメージを持っていた。    ――もう掃除機をかけるのはやめにした。    翔太が家を出て、一人残された茂はコーヒーカップを片手に二階に上がると、誰もいない部屋の北向きの窓から、翔太が見ていたのと同じ日本海を眺めながら、 「昔は(にぎ)やかだったんじゃがのう……」  ポツリとそうこぼした。  そして、翔太の部屋の子機に手を伸ばそうとしたときに、ちょうど電話が着信を告げた。 「もしもし、柳ですが……」  発信主が表示されているのにいまだに見ようともしない茂。 「茂さんか、実は伝えたいことがあって電話をしたんじゃ」  電話をかけてきたのは逝ってしまった妻、節子の兄である津本澄夫(つもとすみお)だ。 「澄夫さんじゃな? 翔太のバカがさっき帰ってきたんじゃが、部屋の片付けをしてやったっちゅうのに、礼の一つも言わんと出て行ったんじゃ! あのバカが!」 「明美ちゃんから聞いたんじゃがのう……」 「澄夫さん、わしの話を聞いとらんのか? なに、明美ちゃん?」 「翔太の同級生の海原さんところの長女じゃ」 「ああ……、それがどうしたんじゃ?」 「この前益川で飲み会があったらしいんじゃ。そのとき、翔太が茂さんのことをかなり言うとったらしいぞ」 「わしのこと?」 「そうじゃ。翔太は嫌がっとるんじゃが、毎日おんなじ晩飯を作って待っとるとか、人が寝てるのにちょっとしたことで起こされるとか……」 「あいつ、益川まで行ってそんなことを言うとったんか? いらんとこばっかしわしに似とるんじゃのう。前にも言うたように、わしの家には特別な事情があるからなあ」 「それもよう分かるんじゃが……。ところで、この前言っていた女はまだ出入りしているのか?」 「何があったんかは知らんけど、一か月ほど前に翔太が二階で怒鳴ってから、一度も顔を見せんようになっとったんじゃが、ついこの前また来たみたいなんじゃ。わしになんの挨拶もなしにな。どうもわしはあの女とは馬が合わんのじゃ」 「そうか……。それで肝心な家の話じゃが、いつ頃になりそうなんじゃ?」 「心配かけてすまんのう。わしは呼んだ覚えはないのに、翔太のやつが勝手に帰ってきたんじゃからな。あいつ、たったさっきあの女の所に行ったみたいなんじゃ。水商売をやっとるいうことじゃから飲みに行ったと思うんじゃけど、惚れた女の所に行ったというべきか、この家から逃げたというべきか、どっちか分かったもんじゃないがのう。でも今の調子なら、翔太は浦吉では生活できんと思う。だから、もう少し待ってもらえんかのう? 翔太がこの家から出ていったら、約束通りこの家は澄夫さんに買ってもらうから……」 「そうか……。どうじゃ。(たえ)のやつも仕事に行っておらんことじゃから、一杯やらんかのう? おおっと、その前に聞いておきたいことがあるんじゃ。茂さん、体は大丈夫なんじゃろうな?」」 「蛾の話だな。あんなもんが怖くて生きていられるか! なるようにしかならんのじゃ、世の中っていうのはなあ」 「そうじゃのう。卵を産み付けられた者がみんな死んでいるわけじゃないしのう。さっき若い漁師が真鯛の大きなのを持ってきてくれたんじゃ。刺身と吸い物をしとくからな」 「よっしゃ、分かった。すぐ行くぞ」  電話を切った茂は、何かまずいことになってきたのう……? とは思うものの、思うのはそのときだけで、このじいさんの場合、あとは人任せだ。  ――昔は賑やかさでは浦吉でも1、2を誇っていた柳家であるが、子供二人が京都に行ってしまってからというもの、体をいたわりながら二人で暮らしていた老夫婦も運命には逆らえず、四年ほど前に妻の節子(せつこ)が逝ってしまい、一人残された茂は世間に見放されたくないという思いから、ついつい寝言を言ってしまったのだ。  茂は昔からそんな男であった。  着替えを済ませた茂は洗面所の前に立って、今朝したばかりだというのにまた電気カミソリで(ひげ)を剃り、ついでに眉毛をハサミでカットするとしつこいほど確認して、これまたいつも通り鍵もかけずに、 「日が暮れるまでにはもうちょっとあるのう」  などと、ひとこと呟いてから家を出ていった。
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