第3話 変わった女

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第3話 変わった女

 店を閉めると言い出してから、人が変わったようにすっかりおとなしくなってしまった汐里以外はいつもと何も変わらぬ朝であるというのに、その汐里がまた何やら良からぬ胸騒ぎを感じ始めた頃、地元浦吉にあるわらじ島に住み着いていた一人の娘は、 『おまえの傷ついた足を治してやる。その代わり、そのきれいな体をわしに授けろ』  あのとき心に届いた声を思い出していた。  いまだにその意味の分からない娘なのだが、毎日遠くから眺めているうちに、たった今、その誓いを受け入れることで新しい定めに従ってみる決心をすることができた。   だからすぐ行動に出たのだが……。 「あっ!」 「ちょっと君、よそを向いてしてるからだよ。まったく……」 「うっ!」  まさかそんな所から女が現れると思っていなかった信之介は、短パンのチャックを勢いよく閉めてしまったために何を挟んでそれどころではないのだが、もう一度海に潜って違う所から顔を出した女が、水中メガネを上げるとこう言った。 「君もしかして、この島で暮らすつもりなの?」  おかしなことを聞く女だと思った。だから、 「く、暮らすつもりって、もう暮らしているんだぞ」  と答えると、 「へぇー、そうだったんだ」  そんな答えが背中越しに聞こえてくる。  立ち泳ぎをしたままもう一度顔を手で拭った女が言う。 「――私が取ってあげようか?」  恥ずかしそうに背中を向けた信之介が振り向きもせずに答える。 「バカなことを言うな。そんなかっこの悪いことができるか!」 「君って照れ屋なんだね?」  まさかマーメイドなどとは思わないが、現れたタイミングといい場所といい、今の言葉といい、今まで出会ったことのないタイプの女であるということはハッキリ分かった。 「照れ屋って……。おまえちょっと黙っていろ!」  そのやや大きめな声に驚いたのか、島の外れにとまっていたカモメの群れが一斉に飛び立った。  なんとか危機を脱出した信之介が当たり前のことを聞く。 「おまえどこからやってきたんだ?」    えっ……?   何か懐かしい人に会ったかのようなじっと自分の顔を見つめる女の視線に、目のやり場に困っている信之介。 「どこからって聞かれても、君に言って分かるかなぁ……。そうだ。アクアラングの酸素がなくなったから、そこら辺で捨てて浮かび上がってきたというだけなんだよ。そこで君が……」  取りようによっては、この女の方がそんな信之介の様子を不思議がっているようにも思えてしまう。まるで初めての来客を迎える家の主だ。 「おまえよく言うな。上げてやるから手を出しなよ」  などと言ってはみたものの、恥ずかしさから一瞬手を出すのをためらうと、 「どうしたの?」  と聞く女。それでも、海面からさし出された女の手から目が離せないでいると、「何見てるの? まさかそんな所に貝とかがついてるなんて思ってるわけじゃないでしょう?」  すると、 「そんなものだったら喜ぶんだけどな……」  とか言いながらも、初めて握った女の手の感触を確かめている信之介だ。  ――やっと神前島に上陸することができた女だが、引っ張り上げた方の信之介は、小柄な体にフィットして、まるでそれ自体が発光体であるかのように、キラキラと光った白いビキニから目が離せないでいる。  そんな信之介をよそに、さっそく女は好奇心の赴くままにそれに近づいていった。 「へぇー。誰かが住み始めてテントを張ったっていうことには気付いていたんだけど、こうしてみると意外に大きいんだ。ねえ、私もここに住んでいい?」  真顔だ、しかし……。 「誰かが住み始めた?」 「ごめん、深い意味はないの。単なる言葉のあやよ……」 「しかしおまえ、今出会ったばかりだぞ。幾らなんでもそれはないだろう?」 「君、いやらしいことを考えてるんじゃないの? そんなつもりなんて私にはないの。きっとここならきれいな星が見れそうだから……」 「どういうことなんだ?」 「私はただ星を追っ掛けてたらここに来てしまったということなの」 「星を追い掛けて?」 「そう……、星を追っ掛けていたの。そうしないと生きてられないんだよ。ところで君、名前は?」 「俺は津本信之介(つもとしんのすけ)っていうんだ」 「なんか時代劇の役者さんみたいね。ふふっ……。私は紫優香(むらさきゆうか)、よろしく!」  すると優香は物珍しそうにテントの周りを一周した後、ズケズケと中に入り込んでいった。 「おいおい……」    ――てっきり照れくささから言っていると思っていたのだが、言っていた通り、優香は辺りが暗くなり始めるとテントから出て島の端まで行き、大岩の向こうで満天の星空を眺めている。  いつものように差し入れを積んだ船がやってきても、優香は知らん顔だ。  とりあえず、その日はその後、優香がどうなったかも知らずに寝袋に入った信之介であったが、優香は体に異変が起きていることを感じていた。  その翌朝。 「昨日は怖かったわ。松ぼっくりをでかくしたような化け物が夢の中に出てきてさあ、私を追い掛け回すんだよ。何度寝直しても同じことなんだ。嫌な夜だったよ」  と、出勤前の翔太に電話をした汐里はぼやきっ放しだ。 「そんなことってあるよな。最近あった嫌なことを寝ている間に思い出したら、夢になって出てくるんだ」 「そうなんだよ。実際私もそうだと思うんだけど、嫌なことって何もないからこそ不思議なんだよ。嫌なことどころか、ここんところ良いことが続いてるんだ。翔ちゃんともよりを戻せたことだしさあ」 「朝っぱらから照れることを言ってくれるじゃないか。じゃあ、ずっと前の嫌なことがよみがえってきたんだよ。小さかった頃のこととか、もしかしたら生まれる前のこととか……」 「――生まれる前のこと? あんたいいことを言うね。生まれる前のことか……。そうなのかもしれない……」  などと、時計を見るのも忘れて夢談義に夢中になっている二人なのであるが、そんな二人とは違い、焼けつくような日差しの元、離れ小島で向かい合うこの二人の場合は……。 「君、信之介君。どうしたの、その体の傷?」    初めて会った昨日はすでに暮れかけていたから分からなかったのだが、あらためて陽の当たる所で見た、信之介の体についている傷に驚いている優香だ。 「ああ、これは前の穴を掘っていたときにやられた傷跡だ」 「前の穴? やられた? ということは、今は別の穴を掘っているということは分かるんだけど、やられたって誰に?」 「やられたっていうのは俺の勝手な言い分だけどな……。どっちにしても、おまえには関係ないことだ。とりあえずおまえは俺なんかに関わり合っていないで、少しでも早く(おか)に上がれ」 「ねえ、その掘りかけの穴っていうのを見せてよ?」 「そんなことよりも、陸に上がることを考えろって言ってるんだ!」 「見せてくれるまで、私ここを動かない!」 「強情な女だな。よし、それなら嫌というほど見せてやるから俺の後についてこい」  そしてスタスタと歩き出した信之介の後を、やや小走りで追い掛ける優香であるのだが、 「信之介君、前に掘っていた穴っていうのはあの水溜りのことを言っているの?」 「そうだけど、どうしておまえにそんなことが分かるんだ?」 「なんとなく深そうに見えるから……」 「そうかなぁ……?」  何か怪しいものを感じてしまうのだが、目にした「いざというときの避難場所」、信之介がそう言う、トンガリ岩にぽっかりと開いた穴の入口は結構広い。  ――とりあえずはヘルメットをかぶってヘッドライトを点け、新作の穴の中に体をねじ込んだ二人。 「ねえ、まだなの?」 「何を言ってるんだ。これからが本番だぞ」  その陸の方に向かって掘られた穴は、人一人が横になってやっと動けるような広さではあるが、それにしても一人でそれも手作業で、よくここまで掘ったものだと感心してしまう。とても人間技とは思えない。 「信之介君、これってもしかして?」 「何が悪い? 冬に備えて準備をしとかないとな。食料をストックしとくにも限界ってものがあるから。このことは誰にも言うんじゃないぞ」 「心配しなくても、私には言う相手なんか誰もいないわよ……」  などと、精一杯の笑顔を見繕っている優香であった。
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