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第4話 見つめ合う心
こんな体になってからである。あれだけ痛かった足の痛みも治り、まともに歩けるようになったのは。さらに、望んでいた力も手に入り、その気になればどんなやつでもひねり潰すことができる。そういう意味からしたら、あのときの誓いに感謝するのであるが……。
毎晩、辺りがすっかり闇に包み込まれると、隣のわらじ島で『しくしく……』と泣く優香の悲しみは、神前島にいる信之介の耳には届かない。だから、優香はこらえきれないものを感じたときには海の中に顔を沈め、あらん限りの力を込めて、
『うぉぉぉぉ――!』
と、悲しみの全てを吐き出していた。
それは海底に潜む怪物を揺れ動かすほどのものであったのだが、その後すぐに表情を変えるといつものように、まるで遺品であるかのように大切にしてきた虫かごの中の小さな命たちに、餌を与えてもいた優香だ。
そんな時を数えるなかでも、男の信之介と女の優香とでは事の深刻さの捉え方が違っていた。いや、人間の信之介とそうでない優香とでも言うべきか……。
とても今は……。
そう分かっていても、この気持ちだけは抑えようがない。ライバルとなる女はほかにいないのだが、自分だけのものにしたいと思う心。優香は深まっていく思いを止めることができずにいた。
あの頃は又吉が唯一心の支えであった。その又吉は、地下室から連れ出してくれたまでは良かったものの、結果的にはあんなことをした。とても偶然などとは思えない。
男なんてそんなものよ、恋なんてそんなものなんだわ、などと思っていたのだが……。
『おまえ、幾らなんでもそれは小さいから逃がしてやれよ』
『でもせっかく釣ったのに……』
『魚だって生きてるんだぞ。そんなものを食べたところで腹がふくれるわけでもないし、どうでもいい存在なら元の海に戻してやれよ。オスかメスかは知らないけど、やがてこいつがたくさんの子供を作るんだ。そうしたらもっと海が豊かになっていく。なんでもかんでも捕りゃあいいってもんじゃないんだぞ!』
『ここに住み続けるんだったら、おまえの命もかかっているんだぞ』
そんな信之介の言葉を思い出すと、それまで自分がしてきたことを後悔せずにはいられない。ただ、又吉を取られたくない一心でしてきたことを……。みんな子供だった。でも、ただ又吉と楽しそうに話しているのが気に入らないというだけで……。
――二人で暮らす日々が続くなかで、次第に信之介の口からこぼれる言葉が気に掛かり出すと、自然と言葉を選びながらしゃべっている自分がいる。ほんのわずかなことでも信之介が思ったような答えを返してこなかったら、一日中憂うつになったりする。
信之介が一人で考え事をしているような素振りを見せると、思わず誰のことを考えているのかなどと思い、それを探るために適当な話を見繕っては話し掛けに行く。少しでも穴を掘る音が途絶えると、何かあったのではないかと途端に心が怯え出す。まるで我が身に災難が降りかかったかのように……。
さらに募っていく思い。
信之介のことを思えば思うほど今までしてきたことが重くのしかかり、時には潰れてしまいそうになる。またそんなことを考えていると、あのときの誓いを要求したものは神であり、こんな体になったのは天罰としか思えない。
だからこそ、優香は夜遅くともなると、闇に紛れて星となった者達に祈りを捧げるしかなかったのだ。
その日、珍しく信之介はいつもの作業の手を止めていた。
「疲れが溜まっている」
そうこぼすのであるが、笑いながらでも優香は不安に包まれていた。
少し早めの夕食は終わったのであるが、空が雨模様ということもあってやたらと暗い上に、唯一の明かりである薪の火はもうすぐ消えようとしている。
――集魚灯も消さずに近づいてくる船が見えたときだった。
そうでないことが分かった信之介が、島の端に立って手を交差させてバツの合図を送っているのだが、その意味の分からない優香の、
「だめ、消させないで!」
という叫び声に、その訳を考えずにはいられない。
「どうしてだ?」
「お願いだから消させないで!」
その漁船は集魚灯をつけたまま、ゆっくりと神前島を一周して去っていった。浦吉で生まれ育った信之介にしても、初めて見る船であった。
何かが起っている。何かが……。
その後も必死の形相で訴えていた優香の一言が、いまだに頭から離れようとしない。その答えを求めるあまりに、信之介の心は決して望まない一点に向かって歩き出そうとしているのだが、連日に渡る作業の疲れがそれ以上考えることを許してはくれない。
だから、強烈な日差しが降り注ぐ中でも平気で寝ている優香を見ても、それだけ疲れているということなのだろう、その程度にしか思っていなかった。
さらに、そんな信之介であるからめったにないことではあるが、たまに用を足すために起きて表に出ると、何かギラギラとしたものが、隣のわらじ島の決まった所にあることには気付いてはいたものの、漂流物か何かが月明かりを反射してるのであろう、などと勝手に決めつけて、気にも留めていなかった。
――当然にして、夜ともなればわらじ島に居場所を変える優香は気付いていた。
こちら向きに用を足している信之介のことも、明かりがあれば普通の娘であるが、暗くなると途端に、まるで鎧を着て兜をかぶった、二本足の巨大な昆虫のような姿に変わってしまっている自分にも……。
とはいっても、信之介の姿が見えても隠れようとは思わなかったし、実際隠れようもなかった。なぜかというと、優香が岩に座ると海から上がってくる数多くの小さな影が周りを取り囲んで、その突き刺さるような冷たい視線が体を動けなくしていたからだ。
好き好んで殺められた者など一人もいない。殺めてしまった全ての者は、決して望まない所に無理やり落とされてしまったのだ。そのほとんどの者は、井戸がなんのために二つあるのか知っていたはずだ。
殺めていたのは使用人達が寝静まった夜中であったのだが、幾ら蓋に大きな重しを載せても、助けを求める叫び声だけはわずかに漏れていたのだから……。
そして、間違いなくそうしろと言ったのは、ほかの誰あろう優香自身だ。
そんな醜い体に変わってしまった優香にすれば、決して星たちが探すことのないように、同じ岩の上に座ってそれを晒すことこそが、殺めてしまった者達に対するせめてもの償いだと思うのだ。
――寄り添いたがる心。優香はそれを正直に認めていた。
いつしか、その日一日の出来事を思い出すのが楽しみとなってはいたものの、明かりが落ちてしまうと途端にこんな体になってしまう。仮に焚き火をたいてみたところで、燃え尽きてしまえばたちまち闇に包まれてしまう。
だから、明かりが消える前にわらじ島に戻り、夜空に輝く星となってしまった者達に懺悔するしかない。そう思えば信之介に寄り添えないのも、犯してしまったことに対する当然の報いなのかもしれない、などと、悲しみの海の中に答えを見つけては、妙に納得できたりもする。
それに横になるよりも、座って輝く星々を見ながら同じ姿勢でいると、まるで頑丈な箱の中にいるようで、不思議とそのまま寝ることができたのだ。もちろん淡い期待も抱きながらであるが……。
決して忘れてしまったわけではない。いや、忘れようと思っても忘れられるものではない。優香は殺めてしまった者、一人一人の顔と声を思い出していた。
あの人達もいつかは家族のもとに帰れると信じ、それだけが楽しみで生きていたのに違いない。そしてその家族達も、いつかは我が子が帰ってくると信じて生きていたはず……。
醜い姿に変わってしまったからこそ、弱い者達の心を知ることができた優香。暗さを増していく神前島の穴の中から、次第に数を増しながら小さな虫たちが夜空に消えていくのだが、今の優香の心は動かない。
優香は信之介のことを思えば思うほど、自分のしてきたことの余りの醜さに耐え切れず、でこぼことうねる自分の体を撫でながら、涙することしかできずにいた。
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