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第3話 寂しくて
「あんた、できたわよ」
と言ってもなんの返事もない。だからもう一度大きな声で、「あんた、聞こえてるんだろう!」
とまくしたてるように言ってみたら、
「何時だ?」
聞いているのかお願いしてるのかどちらとも取れるような、そんな力ない声が布団の中から返ってきた。
アパートの向かいの小学校では、すでに登校してきた子供達の元気の良い話し声が聞こえてきているのであるが……。
――妻の岡部惠子とその夫は、つい最近まで近くのスーパーでレジ係と配送係として共働きをしていたのであるが、道を一つ隔てた所に大型のショッピングモールができると、まるで特発性の病気にかかって命を落としてしまったものの、いまだに搬送場所の見つからない遺体であるかのように建物だけを残し、店はあっけなく倒産してしまった。
でも、中にはちゃっかり次の仕事を見つけ、ある意味転機とばかりに喜んでいる者もいるのであるが、この二人の場合はそうではなかった。
「あんた、しっかりしてよ!」
テーブルの向こう側でお茶を入れながら、夫が来るのを待っている恵子が言う。
恵子がそう言うのも最もな話で、この夫、スーパーが倒産して以来一時は職探しをしていたものの、今ではすっかり朝から晩まで飲んだくれてしまっているからだ。といっても、夫には夫の言い分がある。国籍だ。それと……。この男にすれば世間に後ろ指をさされるようなことは何もしていないのに、日々逆風が強まる一方なのだ。
「早くこっちに来てよ。せっかく作った料理が冷めちゃうじゃない!」
仕方なしに立ち上がったまではいいが、向かった先はテーブルではなくて逆方向のトイレだ。「ちゃんと手を洗うのよ。まったく、しっかりしてよ、あんた! 私は少ししか寝てないのよ。ご飯を食べてから洗濯物を済ませたら、もう少し寝なくちゃ体がもたないの。お願いだから私の身にもなってよ!」
恵子が怒るのにはちゃんとした理由がある。そんな夫にしびれを切らし、昼のコンビニ勤めに加えて夜の世界にも入ったからだ。
勤め出したスナックは夜の六時から深夜二時までやっている。
まだ一か月も経っていないものの、ママと二人きりの店にあっても恵子はすっかり人気ホステスとなり、その分客足も伸びて売上も上がっている。当然ママの汐里は喜んでいるのだが……。
――そんなある夜のこと。
「あんた、そんなに恵ちゃんのことが心配なら、仕事を見つけて働いたらどうなんだい? そしたら恵ちゃんも楽ができるっていうもんじゃないか。何考えてんだい? この商売って楽そうに見えるかもしれないけど、結構しんどいんだよ。そりゃあ、恵ちゃんみたいな子ならずっといて欲しいけど……。なんとかするから私ならいいんだよ。恵ちゃんのことを真剣に考えてあげなよ。それに、自分の嫁さんの働いてる店に毎晩来て飲み潰れる男なんていやしないよ。かっこ悪いからさ、ちょっとぐらい遠慮したらどうなんだい?」
しかし、汐里のそんな忠告も聞かず、男は毎日のように現れた。そして汐里が予感していた通り、ある日ホールで恵子とチークする客相手に喧嘩をしてしまう。
それから一か月も経たないうちに二人は離婚。恵子は店で知り合った男と二人、男の地元である東京へ行ってしまった。
その恵子と元旦那が電話もなしに突然この店に現れたのは、つい半年前のことだ。
「どうなってんの?」
客もまばらな店内。二人が座ったボックス席に行くと汐里はそう聞いてみた。
「別れちゃった」
軽くおどけてそう答える恵子。
「別れたって……。ということは、この人とまたよりを戻したってことなのかい?」
わざと大きなモーションで男を指さしてそういう汐里。
「ママ、いくらなんでもそれはないよ。こいつは夜行に乗って今日の明け方に帰ってきたんだから」
などと笑いながら男が答える。
「あんたに聞いたんじゃないよ! 夜行?」
「あの人、フリーライターをしてたんだ。この店に来ていたときも近くの名所旧跡なんかを取材して、すぐそこのビジネスホテルに泊まっていたんだよ」
「そういえばそんな話をしてたような記憶はあるね」
「あの頃のこの人ったらひどかったしさ。だから私はこの人と別れて、あの人と一緒に東京に行ったんだ。激しかったんだよ。あの人の愛し方っていったら、ふふっ……」
どういうつもりなのかは分からないけど、それは幾らなんでも言い過ぎじゃないかと汐里は思うのであるが、隣の男はヘナヘナと笑うだけで別に怒っている様子でもない。
この男だけは……。
「分かってるよ、あんたの気持ちは……」
「でも、世田谷の3LDKのマンションにはおじいさんとおばあさんがいたんだよ。あいつ、私には一人暮らしをしてるって言ってたのに……。それに、分譲とかって言ってたけど、家賃の請求書が結構溜まってるのを見つけたんだ。そりゃあ腹も立ったよ。でもこれから世話になる身だから、わずかにあった貯金をおろして私が払ったんだけどさぁ。なんか冗談みたいで信じられなかったよ。そしてそのあくる日から、あの人はまた取材って言って出掛けたっきり……」
「なんだよ、それって?」
と、言ったときに隣の男がタバコをくわえたのであるが、火もつけずに知らん顔を決め込んでいる汐里である。
「私が聞きたいぐらいだけど、来てしまったものは仕方がない。私は浦吉の女。逃げたりはしないよ。予想もしてなかった年寄り二人との三人暮らしだから、そりゃあ、いろいろあったわよ。ハッキリ言って赤の他人だしさ。特におばあちゃんの方は足腰が弱っていてほとんど寝たきり状態で、介護なしではトイレも風呂も行けないんだよ。そのくせに、たまにあの人が帰ったらゆっくり二人で話をしてるんだ。台所の椅子に座ってさ」
「ひどい話だね。あんた、騙されたのかい?」
「もしかしたらそうなのかもしれない。私の素性も話したし、田舎者だってバカにされてたのかもしれない……。でも、惚れてたしさぁ……。なんでもいいんだよ、ボロアパートでも。そのうち二人で暮らせたらそれで充分だって思っていたんだ。――かっこ良かったんだ、あの人ったら。それに、おじいちゃんとおばあちゃんが寝てしまうといつものようにさぁ、ふふっ……」
「あんたは惚れやすいからね。こればっかしはどうしようもないことなんだ。ちょっとあんた、もっと向こうに向けて煙を吐きなよ!」
何も答えるわけではなし、男は面倒くさそうに顔を背けてみせる。
「そう、どうしようもないんだよ。それこそ持って生まれたもんだからさぁ。あの人の両親のことならヘルパーを頼んだらなんとか仕事もできるかもしれないって思って、私、コンビニで働き出したんだ。結構大変だったけど、おばあちゃんの体の具合も怪しいもんだって思ったし、余りしゃべらないけど、それに比べておじいちゃんの方は元気なんだよ。でも、何もしないんだ。きっと私がいたもんだから甘えてたんだよ。それとも、お手伝いさんかなんかみたいに思われていたのかもしれない……。長年連れ添った自分のお嫁さんなんだから、まさか面倒くさかったとかはないと思うんだけど……。そんなことを考えてたら寂しくなってくるよね。
あの人の稼ぎについては聞かされていなかった。でも、どこに行ったって住民税とか健康保険料とかっていうのはついて回ってくるもんだから、自分の分ぐらいは自分で稼いで払わなくっちゃって頑張ってたんだけど、あいつ、いっつも一度出ていったら、三日経っても四日経っても一週間経っても帰ってこないんだよ。電話をしたら、『もうすぐ終わるからそうしたら帰る』って言うわりには……。そんなある日、私結構好きだから、久しぶりに入ったんだよ。東京で初めてのパチンコ屋に。そしたらあの人とバッタリさ」
「どういうことなんだい? まさか仕事もしないでパチンコをしてたっていうのかい?」
「さあ、どうだか……。私、知らん顔をしてあの人の横の席に座ったんだ。気付かないって方がおかしいよね。二時間ほど打ってたかな。一言もなしだよ。本当に冷たかった。呆れちゃったよ、情けなくてさ……」
「あんた、やっぱり騙されてたんだよ」
「それからっていうもの、あの人、本当にフリーライターをしてるのかなあ? そんなことまで考え出しちゃってさ。そうなったらもうおしまいだよ。だからすぐに別れて家具つきのマンションで一人暮らしを始めたんだ。そう寂しくはなかった。東京にはそう感じさせないパワーみたいなものがあるんだ。一晩中明るいし、車は走ってるし、出会いの数だって半端じゃないもの。ずっと街が動いているんだよ。
それまでがそれまでだったからそりゃあ楽しかったよ。いろんな所にも行ったし。昼は得意のレジを打って、夜はママのところで覚えたお水に行ってさ。でも運命っていうのね。ほかの人にしたら私は珍しかったみたいで、働き出したスナックで『漁師っ娘』って呼ばれてたんだ。ところがその店に昭月の人がやってきて、私を指名するもんだからテーブルに行ったら気が合っちゃって……」
「それであんた、またその男に惚れたっていうのかい?」
「今から思えばのことだけどさ。あの頃は私も結構疲れてたし……。銀座の証券会社に勤めてたの。その人、大学時代も入れたら東京生活はもう二十年にもなるって言ってたわ。疲れたって言うのよ。やっぱり俺は昭月の人間だ。のんびり暮らしたいって。しばらくその人のマンションに転がり込んでたわ。良いように言えば専業主婦っていうやつね。もちろん籍なんかには入ってないよ」
「結婚の話はしたことがなかったのかい?」
「一度だけそんな機会があったけど、途中で電話がかかってきて、あの人は私のことなんか忘れたみたいに長話をしていたもんだから、それっきりさ。本当のことを言うと、結婚なんてどうだっていいんだ。好きな人と一緒に暮らせたらそれだけで十分なんだよ。本当にとっても優しい人だった」
「ママ……」
男が二杯目の水割りをくれと言っている。
「あんた、大丈夫なんだろうね?」
「惠子がいるんだぞ」
「それってどういう意味なんだい?」
「ちょっとやめてよ。楽しいお酒を飲みに来たんだからさぁ」
そんな惠子の言葉に二杯目の水割りを出した汐里であったが、
「飲み過ぎるんじゃないよ。分かったね!」
男の顔を睨みつけながらそう念を押した。
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