第5話 目の前の安らぎ

1/1
前へ
/41ページ
次へ

第5話 目の前の安らぎ

 その日、優香はわらじ島に戻る前に、穴の入り口近くから眠りについている信之介を見ていた。  何も知らない信之介。今のところその心までは分からないものの、『おまえの命もかかっているんだぞ……』、その言葉をつい都合の良いように解釈すると、途端に熱いものが湧き上がってくるのを感じてしまう。  自分がわがままに生まれているということは知っている。嫉妬深いということももちろんだ。でも、独りよがりだと分かっていても、抑えきれないほどの寄り添いたがる心が、まだ見えもしない答えを勝手に呼び寄せてしまう。  ――優香はじっと見つめていた。  月明かりしかないのだから昼間ほど見えないのは当然だが、思えばこれだけ長い間、信之介の顔や体を眺めたのは初めてのことだ。  まるで自分がかけた催眠術で眠っているかのようなその姿を見ていると、全てを自分のものにしたくてこらえきれないものが湧き上がってくる。  できることなら今すぐ抱き締めてみたいのだが、こんな体では……。  すると、そう思う心を無理やり引き戻すかのような、よもや現実とは思えないほどの皮膚の動きに大きな不安を覚える。  初めてのことではあるが、明らかに自分の意思とは違うものがしきりに首を動かしているのだ。今度は手だ。足だ。そして今に至って気付いたことがある。まばたきができないどころか、目の(ふち)に何かが見えるのだ。  少し怖くもあったが、思いきって触ってみようと思って手を持っていくと、その手のひらさえも月明かりを淡く反射している。かといって目を閉じることさえできない。  頭の上で何かが(うごめ)いている。いや、頭の上というよりも、首から上というべきか。そこから下とはまた違った動きだ。もしもと思って足の裏を見てみれば、そこにも皮膚が見えないほどに……。  これは夢であってほしい。嘘であってほしい。今になってそんなことを強く思う優香。  一度穴から出て、それが嘘であることを確かめるために自由な所に行く。 『逃げないで……』  願いを込めてたまらずそう言っていた。相手は小さなカニとフナムシだというのに……。  しかし、その願いとは逆に先程にも増して、体中からそれまで感じたことのないほどの好ましくない感覚が伝わってくる。決して大きな動きではないが、潮風が体を撫でていくのとは全く違う感覚だ。  恐る恐る右手を見てみれば、全く無秩序に、無数の個体がザワザワと蠢いているのが分かる。信じられない思いで少しだけ目を離してもう一度見てみると、もう疑うべくもない。  もちろん、それは自分の意思でしていることではないのであるが、その意思に反応していることは確かなことだと思えるのだ。つまり、自分の側を覆う別の命からの、寄り添うな、という反応だ。  信之介君が言っていたように、このものたちが成長してしまえば操られて巣に導かれ、体中の水分を吸われた上に、枯れ木のようになってしまうかもしれない? でも、卵どころかこんなに成長しているのに、なぜ私はそうならないの……? それに、人ではない私に、どうしてこんな蛾の蛹のようなものが隙間もないほどに張り付いているの?  それは優香自身、いまだに解けない謎とでも言えるものであるのだが、今更嘆いてみたところで何も始まらない。あのときあの誓いを受け入れることで、足の痛みを取ることと引き替えに、新しい定めに従うことを約束してしまったからだ……。  海から上がってきたいつもの数多くの小さな人影が、黙ったままわらじ島からこちらを見ている。早く帰らなくちゃ、とは思うのであるが……。  ――どうせ分からないのであるからもう一度穴に戻り、無理やり横になって、少しだけ向かい合うように添い寝をしてみた。  さらに夏らしさを増した昼が昼であるから、寝付いたが最後、優香が起こすまで信之介が起きたことはめったにないという安心感からだ。  感情の起伏の激しい優香だが、たとえこんな体になったからといって感情まで変わるわけではない。だから、そうしている今はわらじ島に帰ろうなどとは思わない。そして、次第に顔を近づけてみたのだが、そうであることに気付くと、途端にそれ以上顔を近づけようとは思わなくなった。  優香の皮膚には信之介の吐く穏やかな息が伝わってこないのだ。相変わらずまばたきはできないものの、その代わりと言えるほどの涙が頬を伝うのだが、離れようなどとは思わない。  たとえ信之介が目を覚まして自分の正体に気付いたとしても構わない。あとは信之介次第だ。殺されてもいい。信之介なら殺されてもいいと思えるのだ。  今度はそっと耳を近づけてみた。  確かに聞こえる。信之介の寝息が確かに聞こえる。途端に言いようのない憧れに包み込まれてしまうのだが、それに呼応するかのようにまた体中に張り付いたものが蠢いて、優香をその場から離そうとする……。  もう一度顔を近づけてみた。すると視界の隅の方から何かがかぶさってくるようなものが見える。ただかぶさってきているわけではない。ゴリゴリとした異物がそこで蠢いている感覚と、あちこちから差し込んでくるような痛みがハッキリと伝わってくるのだ。  このまま死んでもいいと思えた。思いきって信之介を起こし、あっさり殺してもらった方が楽になるかもしれないとも思った。  ――夜風も感じられない体。  そんな優香を優しく迎えてくれるのは、暗闇に浮かんだ月と、その光を受けてギラギラと輝く海ぐらいだ。  なぜ優香がその場所を離れたのか?    それは優香の思いとは逆に、もしも信之介が自分に立ち向かってきたら殺してしまうかもしれない、と心の深いところが教えてくれたからだ。決して自分の心ではないと思いたい。体を覆い尽している別の命たちの、闘争本能とでも言えるものであると思いたいのだが……。  ――いつもとは違い、神前島の岩の上に座ってわらじ島を眺めてみる。  どうしたものか、さっきまで見えていた幾つかの小さな影が見えなくなってしまっている。せめてもの償いと思い、毎晩体を(さら)してあの岩の上に座っていたのである。こらえられない気持ちがそうさせていたのだが、今改めてここから眺めてみれば、そんな自分が滑稽(こっけい)に思えたりもする。一層のこと、油でもかぶってひと思いに……。 『初音……』  そんな恐ろしげな声に振り返ってみれば、わらじ島から消えた幾つかの小さな影が、後ろから見つめている。 『許して……』  心はそう叫んでいるのだが、言葉にならない。  すぐに消えてしまったものの、立ち上がって何気なくお尻の辺りを触ってみると、だからといって逃げた様子もなく、相変わらず鎧のようなものは張り付いたままだ。  そして今一度座り直した優香。  もうすぐ夜が明ける。あと少し辛抱したらもとの私に戻れる。今度こそ信之介君に告白して、思いっ切り抱き締めてもらおう。もうすぐしたら夜が明けるわ。もうすぐしたら……。  ――何か音がした。  振り返ってみると、信之介が表に出てきたのが分かる。気付かれないようにゆっくりと海に身を沈める優香。  今のタイミングは気付いてないわ……。  用を足すためにいつもの場所に向かう信之介。そして、眠気眼(ねむけまなこ)で見たその先には、まるで海原(うなばら)を跳ねるトノサマバッタであるかのように、これ見よがしのバタフライをするものが見える。  絶対に気付かれちゃ駄目なの……。  用を足し終わった信之介はブルブルっと身震いをすると、 「あ~あ!」  大きなあくびを一つして、またテントに向かった。  ――その隙をついていきなり穴の中に現れたものが、重ねた本の上にもう一冊新たな本をのせてから、振り向いた先に信之介の姿を見つけ、 『あっ……』 と小さく呟くとすぐに姿を消してしまったのであるが、信之介は全く気付けないでいた。
/41ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加