第6話 涙の添い寝

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第6話 涙の添い寝

 その日も朝早くから信之介を起こした優香。 「ねえ、信之介君。本がまた一冊増えてるんだけど、何も書いてないの」 「この前もそんなことを言ってたな、どれどれ……」  そして、優香が差し出した本を手にした信之介。「本当だ。増えているのも気味が悪いけど、何も書いてないというのはもっと気味が悪いな」 「どういうことなんだろう……」  などと言いながらも、同じ本を見ながら信之介に体をすり寄せる優香だ。  信之介という男は優香が思った以上に真面目だ。といってもこういうことについてであるが。いや、真面目というよりも、マメと言うべきかもしれない。  まずは朝食。といっても焼き魚だけであるが、調味料を初めとした全ての物はテントごとなくなってしまっている。幾らなんでも海水で煮ただけの魚を食べたいとは思わない。それは優香にしても同じだ。だからひたすら焼く。  しかし、やばいことが判明した。穴の奥にしまい込んでいたから暗くて見えなかったのだが、焚き火をするときの材料として備蓄していた(まき)の在庫が残り少ないということだ。  あの一件があるまでは、何回か磯までゴムボートで行って流れ着いた木を持ち帰っていたのであるが、さすがにあの巨大ザメの姿を思い浮かべると、海に出る気もしない。  もちろん、いざとなったらいつも水を運んでくれる漁師達に頼もうと思ってはいるものの、とてもわずかな量では効かないことは分かっているのだから、信之介から聞いた「お返し」とかのことを考えると、そのことについて自分から言い出そうとは思わない。  そして、朝食が終わると以前は魚突きであったのだが、今はもっぱら魚釣りだ。  ちなみに朝食といってもほとんど日が昇るのと時間は変わらない。さっさと済ませて釣りをしなければ、日が昇ってからでは魚の食いが悪くなるからだ。  きっと魚連中は、人間よりも朝食をとる時間が遅いんだろう、などと信之介は思っているのであるが……。  魚釣りが終わると魚をさばいて干物にするのは、いつの間にか優香の役となってしまっていた。その干物は、水を届けてくれる漁師に対するせめてものお返しだ。信之介がトンガリに穴を掘っている姿を思い浮かべると、遊んでいる自分が恥ずかしいと思えてきたからだ。 「おまえ、ヤスで魚を突くのは怖がっていたくせに、ナイフで頭を切り取ったり内臓を引っ張り出したりするのは平気なんだな?」 「平気じゃないけど、私も何かお手伝いをしないと……」  でも、それはそれ。信之介はすぐさま穴掘りにかかる。  そんなときは、 『いつもしんどい思いをするぐらいなら、いっそうのこと、(おか)に戻ることを真剣に考えたらどうなの? 信之介君のために言ってるのよ!』  以前の優香はしつこいほどにそんなしゃくに触ることを言っていたのであるが、いつの間にか言わなくなっていた。幾ら信之介でも、その心に気付いてしまうほどに……。 「信之介君、本がまた増えているわ!」  と、トンガリの上から優香が声を上げたときだった。  いきなり轟いた大きな音とともに、信之介は流れ込んできた大量の海水にもみくちゃにされながら、トンガリの中で吹き上げられてしまった。幸いにして、十メートル以上は上方向に掘っていたから怪我をすることは免れたのだが、流れ込んできた海水が、わずかに残っていた生活物資の全てを流してしまった。  唖然として佇む信之介に、 「信之介君、向こうの島との中間辺りで大きな水柱が上がったわよ! それと今の音。何かが海の中で爆発したようにしか聞こえなかったけど、何が起こったの?」 「おまえには関係ないことだ」 「前に掘った穴がやられたっていってたけど、このことなんでしょう?」 「おまえには関係ないことだから引っ込んでいろって言っているんだ!」 「あれがやったのね? ねえ、教えてよ! どうやったの?」 「何度言ったら分かるんだ! おまえには関係ないことだ! どっちにしても日曜日になったら分かる!」  そう言うと腕を腰に当て、海に流れていったものを見つめている信之介。 「信之介君、これは何かのサインよ。もう穴を掘るのは……」 「そうだ。俺もこれはサインだと思う。少しは体を休めろというな」 「でも、生活用品の全てが流されてしまったのよ! 信之介君、知ってるの? 水だって、あとペットボトル二つしかないのよ」 「生活用品といったって、箸と皿と醤油。それと、それを洗うスポンジぐらいじゃないか。リュックサックも流されてしまったけど、あれに入っていたのはわずかな着替え程度だ。着替えなんかしなくたって生きていける。醤油なんかなくっても、海の水につけて食べれば済むことだ」 「あっ!」  それを思い出した優香が珍しく穴の中に入っていくと、愛用の白いビキニを手にして出てきて、「助かった!」 「お、おまえ、今まで服の下はスッポンポンだったのか?」 「それがどうかして? 私の生まれたおとぎ……」 「うるさい! しかし、そんな物……。食べ物ならいくらでもいる。水にしても今日は少し波があるから無理だけど、きっと(なぎ)になったら誰かが持ってきてくれるに決まっている。それに、あんな大きいペットボトルだったら一週間は十分に持つじゃないか。心配しなくてもいい。今日はとりあえず穴掘りはやめだ。とてもそんな気分にはなれない。それに考えなければならないこともあるし……」 「そんなに帰らないことに意地にならなくてもいいじゃない!」 「俺が意地になっているように見えているのか? おまえはどうかしらないけど、この際ハッキリ言っておく。おまえと二人の生活、俺は結構気に入ってるんだぞ!」 「信之介君……」  だから迷うことなく、優香は信之介の胸に飛び込むことができた。  そんな二人を祝福するかのように、カモメたちが鳴きながら上空を旋回している。  それから、二人はますます密な存在になっていった。  ――一時はせっかく掘った穴が水に浸かってしまってもう向こうには行けないものと思っていたのだが、何度か穴の中に入っているうちに、日増しに水が引いていることに気付く。  そのことを優香に言うと、嬉しそうにしているようにも見えるのだが、見ようによっては少し陰ったように取れるその笑顔はどう解釈すればいいものなのか?  俺がこの穴を通って(おか)に上り、ほかの女と会うとでも思っているのか?   などと思うと優香の心の震えが伝わってくる。そして、そう思う信之介こそ、もっと近づきたいと思うのである。  ――この二人の場合は、似た者同士というべきなのかもしれない。  いつものように、二つの島の間に現れた船が浮上してきた怪物に近づき、山盛りに積んだ物資を次から次へと手渡してはすぐに立ち去ったのであるが、そんなことにも気付かずに、信之介が寝ると、痛さをこらえてでも優香が添い寝をするようになったのは、その夜からであった。  待ち望んでいた日曜日であったのに……。  と、神前島で優香がつらい定めに立ち向かおうとしているとき、益川の汐里の家にいる、やはり似た者同士の片割れの翔太は、勝ちを確信していた。  思った通りだ……。  ベッドの隣で横になっている汐里を見て、更に自信とやらを深める翔太。 金土日の三夜連続でベッドを共にしたことが、汐里の不安を拭い去り、その向こうにいた望みを叶えたようだ。それが証拠に汐里が言っていたような現象は起きず、ぐっすりと眠ったままだ。  これが女というものなのか……。  と思い知らされる反面、依然として興奮したままの翔太はとても眠れそうにない。だから気付かれないようにベッドから出てカーテンを開けてみると、闇夜を照らす満月が、今日に限ってはより近くに感じられる。そして、少しだけ窓を開けると網戸から入ってくる涼しげな風に、信之介のやつ、今頃どうしているのかな……、などと物思いにふけりながら、椅子に腰掛けてたばこをふかしてみる。  耳に届く穏やかな寝息を聞いていると、先々のことを考えずにはいられない。実のところ、翔太は女とここまで深い付き合いをしたのはこれが初めてのことなのだ。  今思い出されるのは、約束されたかのような汐里のしなやかな動きと温もりと声だ。  それまでの翔太にとればその全てが映画の世界のことであって、いつかは、とは思いながらも、まさかいきなり、しかもこんな田舎で訪れるとは夢にも思っていなかったことである。ただ違うことといえば、途端に場面が変わる映画とは異なり、いまだに余韻を色濃く引きずっているということだ。しかも、体を合わす数が増えるほどに……。  そんな翔太にとれば喜びとともに、とんでもなく大変なことを汐里にしてしまっているというような、罪悪感のようなものも感じてしまう。小さくて弱い存在相手にこれほどまでのことをしてしまったのだから、責任は取らなければ、と思うのだ。  その答えは一つしかない。しかし、できることなら円満な家庭に迎え入れてあげたいと思いはするものの、現実は逆方向に向かって更に加速しているかに思える。  今翔太が悩んでいることはまさにそれだ。そして、そのためには何をどうするべきか? 自分が変わらなければと思う反面、そんなことをしたら茂に負けたような気にさえなってしまう。  確かに分かることといえば、願いが叶うまでには相当な時間がかかるということで、分からないことといえば、問題が解決したときにも汐里が自分の近くにいるかどうかということである。 「あ~あ」  握ったこぶしを口に当てて一つあくびをしてから、とりあえずたばこを消してベッドに戻ると、穏やかに眠っている汐里に小さなくちづけをして、またベッドに横たわって暗い天井を見上げた翔太。 「あ~あ」  今度は布団で口を押さえてあくびを押し殺す。それもこれも愛する人のためだ。    今汐里ちゃんはどんな夢を見ているのだろう、同じ夢が見れますように……。  などと、目をつむっていつか見た映画のワンシーンを思い出していると、やっと心が落ち着き、溶けるように夢の世界へと流れ込んでいく信之介であった。 「あ~あ」  もちろん、そんな汐里の小さなあくびなど耳に届いているはずがない。
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