第2話 見えない話

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第2話 見えない話

 その明くる日のこと。  今日も早くから目が覚めてしまって、寝不足を感じている翔太。週末にやった仕事のことも気になるが、また不安の種を一つ増やしてしまったような気がする。  今更後悔しても始まらないし、念を押すようにまたそんなことを頼んでしまえばかえって疑われてしまう。事務員といっても、その事務所の中には会社のトップもいるのだから。それにあんな大きい会社だから、入るときには身分を証明する物がなくてはならないはずだ……。  聞いたところによると、成川勇司と名乗る男は三年ほど前からあの会社にいるらしい。その前は久保田工務店というところで働いていた、と親しい事務員は電話で教えてくれた。どうやら、当時は係長で今は課長になっている浮田という男が引き抜いたということらしい。その事務員に対しては一応の口止めはしたものの、やはり気になりはする。  安藤智則というのは偽名だったのか? なぜそんなことをする必要があったのか? いずれにしてもその安藤にして、今成川勇司という本名を名乗っているということは、この土地にそれだけの価値を見出したということなのだろう……。  あのボロアパートで一緒に住んでいた女は家賃を踏み倒して逃げたというし、その後で聞いたところでは、安藤もその直後にアパートを引き払っている。そもそもその時期というのが、杉本さんを殺害したと思われるあの一件の直後だ。  そうだ。もし、あのとき一緒に住んでいた女が安藤からそのことを聞いていたとしたら……。そうなのかもしれない? 安藤は女の後を追ったのかもしれない? ということは、その女がこの土地で暮らしているということになって、その目的というのは……。かといって、まさか安藤に張りつくわけにもいかないし、いっそうのこと、警察に出向いて……。  でも、そんなことをして万が一にでも間違っていたら、会社にいられなくなってしまう。この田舎ではそう簡単に仕事は見つからない。一体どうすれば……。  会社で何かがあったときのために、マナーモードを切るのがすっかり癖になってしまっている。その何かというのは自らの不祥事のことであるが……。 「――はい、翔太です」  せっかく寝ついたところだというのに……。 「私、妙ですけど」 「はいっ?」 「親戚の津本妙です」 「――ああどうも、お久し振りです」  と返事をしてみたものの、長い間地元を離れていた翔太にすれば、分かりはすれども気まずさだけが先走ってしまう。息子の信之介とは親交を温めあってきた仲であっても、互いの親とは縁遠い関係なのだ。  そもそも、親同士の関係について小さい頃から疑問を抱いている二人なのだが、翔太はこの妙という気の強い女を小さい頃から苦手としていたために、近寄らないようにしていたのだ。それが突然今……。 「遅ればせながらお帰りなさいって言いたいところだけど、あんた、益川テックで働いているっていうのは本当の話なのかい?」 「そうですよ。それが何か?」 「翔太さん、あんた家のことは聞いてるのかい?」 「――はあ、なんの話しですか?」 「その家は、近々私のところが買い取ることになってるんだよ。茂さんに聞いても駄目だし、直接あんたに聞こうと思って電話してみたんだよ」 「――せっかくですけど、なんのことかさっぱり分かりません……」 「はっきり聞くけど、あんたずっとその家で暮らすつもりなのかい?」 「もちろんそのつもりですよ。そのうち嫁さんももらおうと思っていますし」 「そんな……。家のことはどうなるんだい?」 「俺に聞かれても良く分かりませんが……」 「だいたいあんたは何をしに帰ってきたんだい?」 「――あのう、詳しい事情は分かりませんけど、そういうのって失礼じゃないですか?」 「何が失礼だよ。話を持ってきたのは茂さんの方なんだよ。あんたに帰られちゃこっちが困るんだ。茂さんだって怒ってるじゃないか。もう一度考えなよ。あんた、本当にそれでいいのかい? その家はあんたのお兄さんの一郎の建てた家なんだろう? 歳を取って一郎が帰ってきたら、一緒に暮らすつもりなのかい? もしもし!」 「そこまではまだ考えていません……」 「あんたの場合は声がちっちゃいんだよ。よく聞こえないからもっと大きい声でしゃべっておくれよ!」 「ですから、働き出した益川テックの仕事を覚えるのが大変なので、今はそれだけで精一杯なんです!」 「ああ、そうなのかい。もう一度よく考えてみなよ。あんた、溶接の仕事が得意って聞くじゃないか。そんな仕事だったら広島に行けば幾らだってあるんだよ。そっちの方がいいんじゃないのかい? どうせ続くわけないんだからさぁ……。親戚の付き合いっていうものをよく考えるんだよ!」  その女はそんなことを言うと電話を切ってしまった。  ――何かしらボーっとしてしまっている。  確かに今の女の人が言ったことには一理ある。これまでに何度か言ったことはあるのだけど、あの兄貴に限っては、サラリーマンに転職することなどあり得ない。年金といっても納めているものかどうか分かったものではない。このまま歳を取ってしまえば……。しかし、現実はそんなことを考えるゆとりもない。先のことよりも、明日をどうするかだ。  そんな電話があったということを、翔太は茂には言わなかった。それにしても間柄は親子といえども、ほとんど知らない者同士が同じ屋根の下で暮らすというのは、本当に大変なことだ。  茂は逝ってしまった母親から聞いていた通り、まるでこの家に自分一人で住んでいるかのように全てを仕切り、決めたがる。 『どうしてテレビをつけないんじゃ? わしが心配するから言うてるんじゃぞ!』  誰だってそんなときがあることも忘れてしまったのか? 息子と言ってももう三十五なんだぞ。  だから相手は親だと分かっていても、時にはそれを口に出してしまうこともある。そんなとき、茂は判を押したように近所親戚にこんなことがあったと触れて回る。 茂がそんなことを言って回っている、というようなことを翔太に言ってくる者は誰一人としていないのだが、そんなときの勝ち誇ったような茂の態度から、なんとなくそんなものが感じ取れるのだ。  不満は新たな不満しか呼び起こさない。  といっても、相手は七十六歳。年金暮らしの父親だ。まさか掴み合いの喧嘩をするわけにもいかないから、まず仕事に打ち込もうと、会社で書き込んだメモ帳を繰り返し読んでいる日々なのであるけど……。
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