第3話 最後の夜 

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第3話 最後の夜 

 聞いたところによると、次に入る店も決まっているという。その人というのも店の場所を移転するだけで、今まで水商売一筋で生きてきた人だと言っていた。何やら面倒くさい話も耳に入ってきたけど、俺には関係のないことだ。とにかく今日が最終日。せいぜい思い出深いものにしてあげなければ、などと考えていると、階段を駆け上がってくる音に次いで、開いたドアの向こうに立っているのは汐里だ。  ついに最終日を迎えたことで、てっきり興奮してるものと思っていたのだが……。 「店は昨日閉めちゃったんだ」  予想もしてなかったことを平気で口にする汐里。その表情からは、寂しさなど微塵(みじん)も感じられない。そして早速部屋に入り込んできて、翔太の寝ているベッドに腰掛けた汐里。 「なんだよ、俺抜きでお別れ会をやっちゃったのか?」 「仕方なかったんだ。どうだっていいじゃない、あんなお店。ふふっ……。みんなの声援もあって思いっきり踊っちゃった。あのお立ち台を作ってから一番興奮した時間だったかもしれないよ。まるでダンス教室に通っているときみたいにさぁ」  サバサバどころか、店を閉めたというのに全身で軽くリズムを刻んでいる汐里だ。 「見たかったな、汐里ちゃんの最後のダンス」 「最後って、いつでも踊ってあげるよ。なんなら道路の真ん中ででもさぁ。それはそれとして、今日から少しずつ荷物を運び出そうと思ってるんだ」 「荷物って? 次に入る人は何もしないでそのまま引き継いでくれたらいい、って言ってたんじゃなかったのかい?」 「そうじゃないの。私の家の荷物をこの家に運び込むって言っているの」 「そんなことを急に言われても、肝心なトラックを予約してるわけじゃないし」 「大丈夫。浮田さんが会社の車を使ってもいいって言ってくれているから」 「浮田さん? どうして汐里ちゃんが浮田さんを知ってるんだい?」 「オープン当日に来てくれたの。今では考えられないことだけど、久保田さんと一緒にね。でも、それからも不思議と路地で何回か顔を合わせたことがあったんだ。もちろん話もしたし」 「へぇー。じゃあ、浮田さんもお別れ会に顔を出してたのかい?」 「浮田さんは予想通り来なかった。あの人は隣の店の常連だから、その手前もあって私のところには入りにくいのよ。仕方ないよ。だって隣のママは浮田さんの町内会の人なんだから。それにあのママ、私のことを『雇女(やとな)』とかって言いふらしてるって聞いてもいたし。ということは、私の店には行くなって、お客さん相手に遠回しに言っていたということなんだよ。結局、久保田さんがチラッと顔を見せただけで、係長さんも来なかったんだ……」 「雇女? どういう意味なんだい?」 「私もよく知らないの。でも、決して良い意味には聞こえない……」  当然、汐里は翔太がゴチャゴチャとした人間関係を嫌うということは知っている。  だから翔太としてもそこまで聞けば、汐里がお別れ会に自分を呼ばなかった理由もよく分かる。そしてつくづくこう思うのだ。本当にこの世間は狭いんだな、と……。  それから汐里に言われるがままに、挨拶がてら浮田に電話を入れると、 「えっ、柳君か? 誰から俺の電話番号を聞いたんだ?」 「誰って、陽向汐里さんです」 「汐里さん? そういうことだったのか。トラックのことなんだろう?」 「はい。汐里さんが言うには、会社のトラックを貸していただけるということなので、確認のために電話をした次第です」 「トラックのキーなら事務所のポストに入れてあるから勝手に使ってもいいよ。でも、当てないでくれよ。あとが厄介なことになるしな。もしかして、店の物を引っ張り出すつもりなのかい?」 「いや違うんです。汐里さんの家の家財道具を俺の家に運び込むんです」 「そうか、そういうことだったのか……」  汐里はどんな理由をつけてトラックを借りたのか?  何かしら汐里の思いやりとは別に、よくは知らないパワーバランスとでも言うべき苦手としている世界に、無理やり引きずり込まれようとしているものを感じてしまう翔太だ。  それに加え家に荷物の運び始めると、 「おい、翔太。何をしてるんじゃ?」  やや怒りのこもったその声。翔太からすれば何も言わなかったことについては悪いと思いもするが、言うまでもないか、とも思っていたのだ。その茂はそれ以上聞こうとしないどころか、スタスタと歩いては小物を運ぶのを手伝っている。足が悪いと言っていたあの茂がだ。  どうせそんなところだ……。  予想は悪い方に当たってしまい、あらためて茂という父親の人間性を疑わずにはいられない。腹も立ちはするが、あのときとは違って今は汐里という希望がいる。だから翔太は茂に、 「ありがとう」  と言うことができた。  幾らなんでも一日で片づくはずがない。今日は休みだからいいものの、明日からはまた益川テックで働かなければならない。だから、今日のところは軽自動車に載らないような大物だけを運ぶこととした。  ――とりあえずその日から汐里はあまり家には帰らず、食事やら洗濯やら掃除やらと、いわゆる主婦業に徹することとしたのである。 「少しずつでもこの浦吉っていう所に慣れなくちゃ。一日でも早く、私が翔ちゃんの家に引っ越してきたということを認めてもらわなくちゃ」  汐里は自らに檄を飛ばすように、いつもそんなことを口ずさんでいた。  親子で夕食を共にしていたのは帰ってから一か月ほどで、それからというものはお互いの居場所を確認しながら家の中を移動する、というような状態が続いていたのに、汐里が来てからというもの、わざわざ翔太が仕事から帰るのを待って、同じテーブルを囲むようになった茂。  当然にして始めの頃は戸惑いもしたが、そんな時間に慣れるほどに、翔太は家に帰るのが楽しみとなっていた。もちろん、望んだ以上の世界が待っているからだが、その団欒(だんらん)を破るかのように、ニュース速報としてこんな映像が流れ出したのである。 『鑑定の結果、壁の中から発見された遺体は少なくとも死後十五年以上は経っているということです。それにしても、布団を片付けるときに使う真空袋に遺体を入れ、情報によると腐敗臭が漏れないようにするためであると思われるのですが、五枚も重ねた上に、その接合部分には大量の接着剤が塗ってあったということです』 『それは犯人像を知る上での大きなポイントですね』 『私もそうだと思います。しかも遺体を折り曲げるでもなし、真っすぐにした状態で横にして、その上にコンクリートを塗り込んで二重壁にしていたのですから、その筋の経験がある者というのも大きな手掛かりかと思われます』 『十五年間も分からなかったということは、プロ顔負けの仕事をしていたということですね?』 『その通りです。同じアパートに住んでいる人が言うには、この前の地震で壁にヒビが入らなかったら、絶対に分かっていなかったというほどきれいに塗られていたということです』 『ほかに犯人の手がかりとなるようなものは見つかっていないのですか?』 『関係者の話によると、遺体の入っていた袋の中に、ガムテープでグルグル巻きにされた刃物が見つかったということです』 『――ということは、指紋ですね?』 『そうなんですが、壁に塗り込まれていたということからしたら他殺と考えるのが普通でしょうけど、他殺として考えても犯行を犯した者が、わざわざ自らの指紋のついたテープを遺体のそばに残すものでしょうか? 逆に言えば、自らの犯行を隠すために知った者にそれを握らせた、という線が浮上してきているということです』 『当時その部屋に誰が住んでいたのか? そして、被害者となられた方を取り巻く人間関係。これらが大きなポイントになってきそうですね?』 『このアパートは築四十年が過ぎていて、家賃も安いということからかなりの数の入居者の出入りがあったと聞いています。今、不動産屋から帳簿を借りて懸命な捜査が行われているところです。以上現場からでした』  慌てて席を立った翔太の後に汐里が続くのであるが、 「翔太、どうしたんじゃ?」  そんな言葉も耳に入らない二人は、二階の部屋に閉じこもったまま、遅くまで窓の向こうの神前島を眺めていた。汐里にすればそのとき初めて聞いたことであった。自分が翔太に貸した本を持ち帰った女が、あの離れ小島で暮らしているということを……。  ――さらに汐里の引っ越しは、こんな事態をも招いていた。 「館林君。段取り通りに事は進んでるけど、まさかの汐里さんが柳君の家にやってきたの」 「本当か? 店を閉めるとか自宅を引き払うとかって聞いていたから、てっきり別れるものと思っていたんだが……。明美、おやじさんを使うんだ。あのおやじさんなら俺の期待に応えてくれると思う」 「分かったわ……」    翔太の家に来て初めて聞いた家電の呼び出し音。玄関の掃除をしていた汐里は、階段の上り口まで上がってにこやかにそれを取ったのであるが、 「えっ、本当ですか?」  その汐里の声は、自分の部屋でテレビを見ていた茂の耳にも届いていた。「はい、分かりました。今から駆けつけます」 「どうしたんじゃ、汐里ちゃん?」 「翔ちゃんが怪我をしたらしいんです。なんでも近くを通ったフォークリフトに積んであった荷物が落ちてきて、それが当たったとかで。私、病院に行ってきます!」  取るものも取らずに家を後にした汐里であったが、茂はすぐに津本澄夫に電話をした。 「そうか。そんなことがあったのか。せっかく待ち望んだ楽しい日々が始まったというのに、翔太もかわいそうな男じゃのう?」 「どの程度の怪我かは知らんが、もしかしたら大きな転機になるかもしれんぞ」 「茂さん。幾らなんでも今の段階でそんなことを言うのは余りにも酷じゃぞ」 「そういう意味ではないんじゃ」 「茂さん!」 「ふふっ……。汐里ちゃんは益川で住んどった借家の契約は切ったと言うとった。ここ以外にほかに行くところはないはずなんじゃ」 「茂さん。バカなことを考えるんじゃないぞ」 「わしにひとこともなしに、勝手にこの家に入り込んできたんじゃぞ」 「それはその女の人が悪いんじゃのうて、ただ翔太が茂さんに言わなかったというだけじゃないのか?」 「ふふっ、わしも人生終盤に差し掛かっとる。せいぜい楽しくやって締めくくりたいからのう。『飛んで火に入る夏の虫』、とはうまいこと言うたもんじゃ……」 「茂さん!」  ――翔太は左足の膝辺りを骨折していた。  フォークリフトの最上段に積んであった製品が落下して当たったということだ。当然その責任は、運んでいた鉄製の(かご)よりも上に品物を積んだ者にあるのだが、とりあえずは一か月の入院を宣告されてしまっていた。  汐里と共に見舞いに訪れた茂。 「おまえは真面目すぎる。いい機会だから、何も心配しないでゆっくりと体を休めろ」  それでも黙って背中を向けている翔太に代わって、 「ありがとうございます。あとで翔ちゃんにもよく言っておきますから」  汐里はそうやって場を見繕った。  そしてその日から始まった汐里と茂の二人暮らし。待ち望んだ暮らしに笑みを絶やさない茂とは対照的に、すっかり元気をなくしてしまった汐里だ。 「汐里ちゃん、心配するな。一か月したら翔太は帰っていることだし、その間は労災も降りれば保険金も入る。災難と言えば災難じゃが、働くよりもずっと金になることは確かなんじゃぞ」 「それって、私に対する励ましなんですか?」 「当たり前じゃ。それ以外に何がある? とりあえず、皿を洗うのが終わったら洗濯をしといてくれるか。洗濯機が止まったら呼んでくれ。干す場所を教えてやるから」 「洗濯物を干す場所って、裏庭にある物干し竿じゃないんですか?」 「あの物干し竿は三段になっておるんじゃ。何をどこに干すかを教えてやると言っているんじゃ」 「はい……」 「それが終わったら、わしを車に乗せて益川まで行ってくれるか?」 「見舞いなら三時からっていうことになっているんですけど……。それに病室に入れるのは一人なんです」 「そうじゃない。晩に備えて買い物をするんじゃ。どうじゃ、今日は鍋でやるか?」 「なんの話ですか?」 「スナックのママをやっとったぐらいじゃからかなり飲める口じゃろう? こんなことができるのも翔太が入院してる間だけじゃぞ」 「それってどういう意味ですか?」  今更思い出したくもないことではあるけど、この茂の悪口を言ったことで翔太に怒鳴られて、柳家に来れなくなっていた時期がある。あとで知らされたことであるが、実は翔太も同じような思いは持っていたものの、悩んでいた時期に自分が口を挟んでしまったものだからカチンときたということだったらしい。  だからよりを戻してからというものは、汐里が「翔ちゃんそれはちょっと」と言うほど、翔太の口から茂の悪口が飛び出すほどだ。  もちろん付き合い出した頃は、ポツンと離れた所にある自分の家が、翔太にとって隠れ家的存在であるということは十分承知していたから、ここに引っ越すについては、翔太との間でそれなりの話し合いを持ったのであるが、まさかこんなことが起こるとは……。  日が経つにつれ、 「汐里ちゃん! 汐里ちゃん!」  昼はまるで女中か何かのようにこき使われ、夜になると晩酌(ばんしゃく)の付き合いをさせられる日々に次第に嫌気がさしてくる。しかも、今ではテーブルを囲む椅子に座った汐里の隣に、茂が座るのが当たり前のようになってしまっている。かといって、ほかに行く所はないし……。  ――と、翔太の家では思ってもないことが起こっているのだが、浦吉から通っている翔太が怪我をしたことをいいことに、会社は浦吉から通勤している者に対して、益川で寮生活をするか、休業するかの選択を迫った。
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