第4話 目覚めた安藤

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第4話 目覚めた安藤

「柳翔太? マジですか?」  あの時はそのあまりに大きな声に、教えた館林の方がかえって驚いてしまったほどであった。    この前自宅で見たテレビのニュースに次いで、全く気付いていなかった現実に驚くあまりにいっぺんに過去に逃避してしまった成川。  遺体は発見されたものの、誰かが見ていたというわけではない。それはこの長きに渡った時間が何よりも証明しているところであるのだが、それを知っている者が二人いる。早急に手を打たなければ……。  成川は、汐里が店を閉めたということは浮田から聞いていたのだが、柳翔太という同僚の家に転がり込んだ、ということまでは聞かされていなかった。仕事が肌に合うというのか楽しい日々を送っているなかで、そんな成川にして、自分が過去に犯してしまった過ちをすっかり忘れてしまっていたのだ。  しかし考えてみれば、あのガムテープに着いていた指紋が「柳翔太」のものであると分かったとしても、翔太の口から必ず自分の名前が出るのは目に見えていることだ。しかも、あのとき多美子と名乗っていた汐里には、自分が何をしたか言ってしまっている。  すっかり原点に戻って決意を固めた成川は、その日会社を休んで、汐里がアルバイトをしているという中華料理店に向かった。  地元では有名なこの店。  客が途絶えるということとは無縁の存在だが、朝から何回か、知らない同じ番号で着信が入っていることに汐里は気付いていた。昼を過ぎてからもすでに五回入っている。念のために病院に電話をして、それは病院からの電話でないということは確認してある。  誰なの……?  やがて店は人で混雑する夕食の時間帯を迎える。  それどころではない。聞いた注文通りの品物をテーブルまで運ぶのが自分の仕事だ。一つでも間違ってしまったら、頭の中が混乱してしまって大変なことになってしまう。    ――そして迎えたそのとき。  汐里が思い切って携帯の電源を切ってしまうとすぐにそれが分かった成川は、こらえられないものに押されるかのように、大勢の客に交じって店の中へと入っていった。  空いている客席を目指しているときに目が合いはしたものの、思った通りだ、俺のことに気付いていない……。さらに注文を聞きに来た汐里に、 「あのう、僕、成川勇司という者です。あなたもしかして、柳翔太さんの所にいるという汐里さんじゃないですか?」  汐里にすれば多少おかしくもあった。幾ら益川だと言っても、あまりに噂が広がるのが早いと思ったからだ。 「そうですけど……」  そう答えた汐里に、 「僕があのときにフォークリフトを運転していた者なんです。ずっと悩んでいたんですが、あなたに謝りたい一心で、今日は会社を休んでこの店に来たのです」  何か声が似ているな、とは思うものの、まさかサングラスとマスクを外してくれと言えるはずもない。だから、 「故意でやったわけではないのに、もういいんです」  と言うのだが、 「この店の閉店時間は九時と聞いています。横の駐車場で待っていますから、ぜひ食事でもご一緒させてもらえたらと思うんですけど……。お願いします」  深々と頭を下げてそういう男に、 「はい分かりました」  そう答えるしかなかった汐里だ。  見慣れている景色が記憶にとどまろうとしない。  成川の運転する車は国道をそれ、山手の方へと入っていった。 「この道を行ったら三瓶山(さんべさん)じゃないですか。こんな時間に開いてるお店があるんですか?」 「僕の上司の知り合いが店をやっていまして、事情を説明した上で、今日だけ特別に僕達が行くまでやってもらっているんです」  車は右に左と曲がりながら、どんどん急な坂道を上っていく。やがて見えてきた三瓶山。ここは汐里お気に入りのドライブコースでもある。だからこの道を上りきれば、一気に月明かりに照らされた西の原が開けることぐらいは分かっている。  左手に雄大な三瓶山を望みながら、その前の長い直線を走る車。右手の広い駐車場に目をやってみれば、ただの一台も車が停まっていないことがすぐに分かる。  ――成川がラジオのチャンネルを変えた。偶然にも昔懐かしいフォークソングが流れてくる。 「どこなんですか、そのお店?」  と聞いたときに、成川がブレーキを踏んだ。ちょうど長い直線道路の真ん中辺りで停車した車。それが何を意味しているのかすぐに分かった汐里。「あんた、何をするつもりなんだい?」  すると表情を一変させた成川が、メガネとマスクを外して、 「正直に言ってみろ、おまえ多美子だろう?」  すぐにドアロックを外すと外に出て、アスファルトの上を走り始めた汐里。後ろからはつきまとうように静かなエンジン音が聞こえていたのだが、懸命に走る汐里の耳にその音が聞こえなくなった。  わずかな期待と大きな不安に包まれてしまう。  そして、しばらくしてから聞こえてきた大きなスリップ音に振り返ってみると、ヘッドライトを上向きにした成川の車が猛スピードで近づいてくる。  道路をそれて山手に入れば広い平原だ。しかも、道路とそこを仕切るように作られた結構幅の広い溝には、車が入れないようにグレーチングもされていない。  底が抜けるほどアクセルを踏み込んだままの成川であるが、そのまま汐里を跳ね飛ばすつもりはない。仮にそんなことをしてしまえば足が付いてしまうし、無理やり嫌がる汐里を引きずり回して平原の向こうの林に連れ込むより、そのうち溝を飛び越えて、自から進んで平原を走るであろうと思われるときを待った方が手っ取り早い、と考えている成川。  しかし、その成川の期待を裏切って、汐里はちょうどセンターラインの上辺りに場所を変えるといきなり立ち止まった。  成川が急ブレーキを踏むと、静かな三瓶山にまたスリップオンが響き渡る。  ――ほぼ道路の中央辺りに停車した車。目の前には汐里が立ったままだ。  車を降りた成川が汐里に近づいていく。 「どういうつもりなんだ?」 「あんたに私は殺せないよ」 「どういう意味だ?」 「――安藤だね?」 「そうだ。やっと分かったのか?」 「あんた、TVで杉本さんの遺体が発見されたってニュースでやってたのを見て、口封じのために私を()ろうっていうんだろう? 私にしたら、そんなことなんてどうだっていいことなんだ」 「その通りだ。おまえこそどういうつもりなんだ? どうしてそんな所に立っているんだ? 西の原に入ったら逃げられるかもしれないんだぞ」 「ふふっ……。今から私を()ろうっていうあんたに、逃げ道まで教えてもらうとは思わなかったよ。もう一度言っとくけど、あんたに私は殺せないんだ!」  そのとき成川はふとこう思った。  初めて気付いたような顔をしているけど、もしかしたら決められた時間までに自分が帰らなかったら、警察に電話するように誰かに言っているのかもしれない? もちろん、杉本殺害の犯人が俺であることを告げた上で……。 「あんたもう一つ言っておくけど、翔ちゃんに手を出したら私が承知しないよ!」  手を出せない成川。離れようともしない汐里。  ――やがて、車から聴こえていた音楽がフォークソングからカントリーへと変わると、汐里の小さな体がリズムを取りながら踊り出した。  黙ってみている成川。  そして曲がアップテンポなものに変わると、今度はタップを踏み出した汐里。  左手は広い平原である通称西の原。右手はやはり溝を挟んで、長い駐車場やらテニスコート、さらにその先には、月明かりを反射した白いヘリポートが見えている。  誰もいない。もし誰かいるのなら、何かのアクションをしてくるはずだ。まさか、こんな人里離れた山の上まで歩いてくるやつなどいるはずがない……。 「久しぶりにどう、智則君?」  手招きをしながら笑顔でそう言う汐里。やらずして勝負はついているかのようだ。  すると、そこまで考えていなかった成川の頭の中で、また悪魔がしきりにこう囁き始めた。『心中という手が残っているぞ』と。  汐里はその場を動こうとはせず、タップを踏みながらまだ手を差し出したままだ。  その距離十メートルほど。  一瞬の微笑みを浮かべ、刃物を胸にしたまま汐里に突進していく成川であるが、我が目を疑わずにはいられなかった。  汐里がそのままの姿勢で遠ざかっていくのだ。  それでも足を止めようとしない成川であるが、遥か向こうを車のライトが横切ったとき、それを悟ったかのように立ち止まってしまった。  ――硬い音を立ててナイフが地面に転がる。  それを蹴飛ばして溝に落とした成川は、ゆっくりと近づいて、手招きをする汐里の手を取った。  何も聞かない。もう疑わない。  車からは相変わらずアップテンポな曲が流れていたのだが、やがてスローな曲へと変わっていく。  月明かりの下、長い直線道路の真ん中で腕を組んで踊る二人。あんなことがあったなど、もう頭の中からは消え去ってしまっている。汐里も、そして成川も。 「多美子さん……」 「ふふっ、智ちゃん。翔ちゃんには悪いけど、こうして踊ってたらあの頃に戻りたくなっちゃうよ」  小柄な汐里が安藤の胸に頬を沈める。 「多美子さん。幸せなんだ……」  ――その後、汐里が家に着いたのは十一時過ぎのことであった。  明かりがともったままの柳家。 「まだ明かりが点いているのよ、館林君……」 「汐里ちゃんも隅に置けないな。おい、明美。汐里ちゃんとおやじさんとの二人暮らしが始まってるんだぞ。絶好のチャンスだ。頼んだぞ」 「分かってるわよ。私だっていい思いはしていないわよ。館林君だって知ってるんでしょう? どうして有利奈ちゃんが独身でいるのか……」 「――だからこそおまえに頼んでいるんだ」  などと答えて電話を切った館林であるが……。
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