エピローグ 遠ざかる讃美歌 第1話 運び屋オチコ

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エピローグ 遠ざかる讃美歌 第1話 運び屋オチコ

 真理からの誘いであるなら断るわけにもいかない。  倒産の憂き目に遭って職探しに奔走(ほんそう)していたあのとき、この産廃屋の仕事を世話してくれたのがほかの誰あろう真理であり、ましてや真理は、あのとき岡部があんな行動に出るに至った原因について、間接的ながらも仁美の聞かれたくないことを聞いてくるからだ。  そんなこともあって、電話をかけ合ったり一緒に食事に行ったりと、なんとか以前のような関係が取り戻せたような気がしていたのであるが、真理は社長秘書である仁美には、岡部が働き出した会社のことについては触れずにいた。  外見はなんとか見繕うことができても、心の傷はなかなか癒えないものである。実際、(はた)から仁美の心の色などうかがいようもないし、何が弾みでどう変わるか分かったものでもない。現に、その色がすでにあのときとは違うものになってしまっていることだけは、確かに分かるのだ……。  ――結局その後岡部が働き出したのは、仁美と真理が務めている産廃屋の下請けの会社であった。  といっても、ゴミ収集車に乗って回収して回るわけではない。なぜかしらもっぱら社内の掃除ばっかりさせられているわりには、時々社長の湯川に食事に誘われたりしている。  この湯川という男は、かつては岡部の父親と仕事上の取引があった男で、だからなのかな、と良いように解釈していた岡部であるが、 「もう少ししたら頑張ってもらうときがくるから……」  そんなことを何度も言われていた。  もちろん岡部に分かろうはずはないのだが、具体的な仕事の内容を聞いても、 「簡単な仕事だよ。あんたのお父さんには世話になったからな」  などと言ってごまかされてしまっていた。  そんなときは、いつも自分の存在の小ささを思い知らされるのであったが……。  ――数日後、社長室に呼ばれた岡部は顔色を変えた湯川にこう告げられた。 「明日からやってもらえないだろうか?」  このための今までであったのだから断るわけにもいかない。「何度も言うようだけど、人目にだけはつかないようにやってほしいんだ」  今のところその背景までは分からないが、とりあえずは軽トラに積んだものを浦吉の白浜の端まで持って行き、そこで膨らませたゴムボートにそのもの全てを載せればいい、とだけは聞いていたのだが……。  ――迎えた当日。  やたらと頑丈に梱包されたものを軽トラに積み上げていく。その量は半端ではない。しかし、その全てが同じ大きさをしていることからしたら、少なくとも産業廃棄物ではないと思えた。  一時は、処分に困った核廃棄物でも運ばされるものかと思っていたのだが、どうやらそれは違うみたいだ。というのも、今積み上げている横には社長の湯川がいるからだ。  そして、荷物を積み終えて軽トラの運転席に乗り込むと、 「岡部君。例のこと、頼むよ」  念を押されるように言われた岡部は軽く会釈をし、ゆっくりと車を走らせた。  飛鳥が神前島に上がると、真っ先に産み付けられた卵がないかどうか優香が全身を調べたのであるが、その痕跡さえ残っていなかった。  村は大騒ぎになっていると聞いているのに、なぜ?    という疑問は残るものの、ついこの前まで益川にいて、浦吉に来てからまだ二週間ほどしか経っていない、ということで納得するほかはなかった。 仕方ない作業だったとはいえ、それが終わると悔しそうな顔を隠すように、またよそを向いてしまった優香。  でも、それだけで済むことではなかった。一晩中星を観察している、とだけ飛鳥には告げているのだが、困ったことに気付いてしまったのだ。  というのも、信之介の場合は一度寝てしまえばたいがい朝まで寝ていて、めったなことで表に出てきたりはしないのであるが、飛鳥は寝るのも遅ければ、時には星空を眺めに表に出てきたりもする。    そんなときには自然と優香の居場所を探すものだ。  夜になるとわらじ島で寝ているということなど、信之介にはひとことも言ったことがない。それと、やはり二人の仲が気になって仕方がない。つまり、優香はわらじ島には戻れなくなってしまったのである。  とにかくこの体を見られてしまえば何もかもが終わってしまう……。  だから、せいぜい島の端っこの傾斜した部分に体を隠すように座っているしかないのであるが、そんな優香と違って、距離は置いているもののトンガリの洞窟の中で寝ている二人。  飛鳥は、優香にとっては疫病神以外の何者でもない。だから今できることといえば、せいぜい近寄りがたい存在になることぐらいであるのだが、それを気にする飛鳥がなおさら寄ってくるようになってしまった。  決断を迫られていることを悟った優香は、 「昼はまだいいけど、暗くなったら絶対私の近くに来ないで。私は一人で星を見ていたいの。あなた、それができる?」  まるで黙ったままの飛鳥が悪いようにそう告げると、「分かったわ!」  そうひとこと告げ、以前のようにさっさとねぐらをわらじ島へと変えてしまった。  見えるものは仕方がない。当然誰はばかるでもなし、ゴムボートに乗って堂々と移動していく優香の姿は知っていたものの、これ以上険悪な関係になってはいけないと思う飛鳥は、余計なことは聞かないこととした。  それは信之介も気付いていたのだが、「そこまでやるか?」そんな思いで、半ば嬉しくもあった。  だからこそ飛鳥は優香の心を気遣って、以前にもまして、信之介が完全に寝てからトンガリの穴の中に入るようにしていたのであるが、幸か不幸か、洞窟の奥で証拠とでも言えるあの本を見つけてしまっていた。  ――そんなある日の深夜。  頑張って起きていた甲斐があったというものだ。話に聞いていた通り、待ちに待った瞬間がやってきたのだ。しかも、自分より長くいる優香は、その存在を間近に見たことはないと聞く。何かしら優越感を感じる飛鳥だ。  最初にそれを見つけたのは飛鳥なのだが、 「やっぱり出てきやがったな、この化け物め!」  そう声を上げたのは信之介であった。  身を低くして、ただ浮上してくるそれを見つめているだけの二人。  ちょうど日付が変わった頃だから、その向こうに見える浦吉の村からは明かり一つ見えない。 「あれっ、そういえばわらじ島には……」  そのとき、飛鳥はある噓に気付いてしまった。  ――神前島からは見えないのであるが、薄暗くした翔太の部屋から同じ光景をこの男が双眼鏡で覗いていた。  いくら茂でも、さすがに夜中だから誰かに電話をしようとは思わないが、何度あらためて覗き直しても、嘘のようなその光景は変わろうとしない。  何かが海に投げられたかな、と思ったら次の瞬間には膨らんでいる。すぐには分からなかったが、濡れたそれが月明かりを反射したときに小さなゴムボートであると確信できた。伏せてはいるものの、その中に二人乗っているのも見える。漕ぎ手がいないことからしたら、電気モーターかなんかでスクリューが回っているものと思える。  ――真っすぐこちらに向かってやってくるゴムボートを、岡部も見ていた。  やがてたどり着いた小さなゴムボートは、岡部が荷物を入れた大きなゴムボートにフックを引っかけると、まるで漂流物であるかのごとくに再び神前島を目指す。  大きな疑問が残った。たったそれだけのことであるのに、なぜ秘密にしなければならないのか?    浜の奥にある松林からそんな様子をうかがっていた岡部の目には、遠く離れたわらじ島と神前島の間に、巨大な物体が浮上しているのが見えていない。ましてや、今は暗さを極める深夜だ。  ――しかし、同じ光景をわらじ島から見ている優香からすれば、それどころではない。  というのも、『お母さん、お母さん……』、そんな、明らかにそれと分かる声が体中から聞こえ出したからだ。それは、大量発生する時期が近くに迫っていることを優香に悟らせた。  信之介がこの島に来たときにはめったにその姿を拝むようなことはなかったのであるが、その後、日曜の深夜にだけ姿を現しているということを知り、更に、今では水曜と日曜の深夜には、なりふり構わずその全容を現すのが当たり前のようになってきている、ということを聞かされていた優香。 『たぶん中に乗っている連中の食料だ。備蓄していた分が無くなったんだろう……』  それが信之介の意見であったのだが……。    当然それ程までに繰り返される光景を、この男が黙っているわけがない。  茂の口から噂は広まり、やがて国道の向こうに建った新しいマンションの最上階からもそれが確認できる、との証言が出るようになると、噂が噂を呼んで、至っては湯川の耳に入ってしまう。 「おい、あいつも地下室に監禁しろ!」  見つかったのは自分ではなく連中だ。納得のいかない岡部ではあるが、今は言われるままにするしかない。  幸いにして、腐敗臭の漏れているドアの少し開いた部屋ではなく、荷物の積み上げられた狭い部屋に監禁されてしまった岡部であるが、唯一癒されたことといえば、通路とは対照的にいい香りがしているということだ。  そのとき、初めて自分が運んでいるのが食料であったことに気付いた岡部。  ということは、かなりの数の人間が、あのゴムボートの向かった先でそれを待っていたということだ……。  などと考えていると人助けをしているような思いに駆られ、こんな所に監禁されていることがなおさら納得できなくなるのだが、監禁されているという事実からすれば、その食料を待っている連中というのは、おそらく『不法入国者達』であろうと思える。と考えると、あの湯川との繋がりも見えてくる。  そして今新たに思うことがある。俺を監禁したところでこの先どうやって食料を調達するつもりでいるのか?   ――岡部がそんなことを考え始めたときあのマンションでは、あとから下の階に入居してきた者達との間で小迫(こぜ)り合いが起き、ついには水曜と日曜の晩は外に出られないように、最上階にある全ての部屋に新たな鍵が取り付けられてしまった。
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