第2話 泉与助という男

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第2話 泉与助という男

 浦吉から通う者のほとんどが休業を選択したために、人手が不足した益川テックの現場は、一人が二役も三役もこなさなければならないような混乱した状態になってしまっている。  実はこの男、面接を受けた日も初出社の日も成川と同じであったのだが、どうも機械仕事には向いていない、ということで掃除ばかりさせられていたものの、そんな理由からいきなり現場に回されてしまった。  その男、名前を泉与助(いずみよすけ)といった。身分証明書として出した免許証は、自分と顔のよく似た別人の物だ。その男はとうにこの世から姿を消してしまっている。  簡単なことばかりであるが、言われたことはきっちりとやるものの、他人と接することを嫌がっているかに見えるこの男の評判は、とても良いと言えたものではなかった。でも、プライドだけは高いこの男は、浮田に媚びを売って、今や現場の顔となったかのような同期の成川を憎んでいた。  最後の日がだんだん近づいていることは十分承知の上の成川であるが、何かしら汐里の正体に気付いてから、最悪の事態に憧れる気持ちが生まれてきたのも、また自らが認めるところである。だから、今日もいつもと変わらず仕事をしている成川だ。  この益川テックという会社は、品物の形を分割して双方に彫り込んだ、向かい合う二つの金型を自動で開閉する大型のマシーンに、溶けたアルミを流し込んで製品化するという近代的な仕事をしている会社である。  型が閉まったときに流し込んだアルミが外に飛び出さないように、その密閉性にはかなりの精度があり、またそのときにかかる圧力たるや、想像を絶するものがある。  とはいえ、いくら近代的な機械であってもトラブルは付いて回るものだ。  マシーン四台を任され仕事に振り回されていた成川は、いつものようにアラームが教えてくれるところに従って、トラブって止まってしまったマシーンに向かった。  止まった原因は一目瞭然であった。型が開いたときに、腕の役割をするロボットが製品を掴み出して次の工程へと運ぶのであるが、製品が型に張り付いたままなのだ。  なぜそうなったかは後で調べるとして、とりあえずはしかるべき処置をした上で、一刻も早く再稼働させなければ……。  残った製品を取り除かなければ、ということで、マニュアル通りに抜いたマシーンのキーを隠す格好で、『命札』という自分の名の書かれたカードをぶら下げてから、中に入って作業を始めた成川。  底からの高さは腰ほどで、さらに型と型の間は60センチと、とても自由に身動きが取れるような状態ではない。しかも、ついさっきまで稼働していたために中はとても暑い。ましてや季節は夏だ。  耳栓をぶち込んでヘルメットをかぶり、保護メガネとマスクをして作業を続ける成川。少しでも早く型にはまり込んだ製品を取り除いて外に出たい、思うのはそれだけだ。  中腰のまま、タガネを片手にハンマーで叩いて次第に金型から製品を外していく成川であるが、その熱心さのあまりにすぐ横を人影がよぎり、直後にマシーンのスイッチが入ったのにも気付けないでいた。  病院にいるのだから当たり前であるが、また聞こえてきた救急車のサイレンの音に耳を傾けている翔太。  ついさっき帰った汐里から『柳の家を出た』、という話は聞かされていた。やっぱりかという思いと同時に、とにかく生活の拠点について今一度話し合いを持たなければ、などと考えていたところに、帰ったはずの汐里がまたカーテンから顔を覗かせた。 「翔ちゃん。実は翔ちゃんが入院してから私の車にされる落書きが増えて、とんでもないことが書いてあるんだよ……」 「汐里ちゃん、大方のことは想像できるけど、もうちょっとだけ我慢してくれるか。この体じゃあ……」  などと話をしていると、急ぎ足で入ってきた二人の看護師が、翔太の隣のベッドに見たこともないような機械を設置したり、布団を変えたりし始めた。さっき救急車で運ばれてきた者がやってくるんだな、などと思っていると、たくさんの足音とともに引き戸が大きく開けられた。  確かついさっきまでいたはずなのに、汐里はいつの間にか姿を消してしまっている。  何か不思議な思いはしたが聞いていたことからして、汐里にも並々ならぬことが起こっているということなのだろうと、自らを納得させた。  そして隣のベッドに寝かされた男。どこがどうなったのか、看護師に聞く気にもなれない。なぜなら、まだ麻酔から覚めていないはずであるのに、十分な痛さを伝えるだけの声を上げているからだ。  松葉杖をついて面会所に行って、とりあえず椅子に腰掛けた翔太。  予定の退院日までにはまだ二週間ほどある。時折通りかかった看護師が挨拶がてら物を言うのであるが、眠気が襲ってくるとそんな声も聞こえなくなってしまった。  ――とても静かな世界に満足していたのであるが、 「翔ちゃん」  その声に起こされた翔太。 「なんだ。帰ったんじゃなかったのか?」 「帰りかけたんだけど、何か嫌な胸騒ぎがするから気になって引き返してきたんだよ。それにこの病院広いから、道に迷っちゃってさぁ……。ねえ、屋上にでも行かない?」  二人はうめき声を背中で聞きながら、エレベーターへと向かった。  悩み事を抱えた二人とは違い、広がる青空の下で、患者と思われる者の投げた餌に群がっていた鳩たちが一斉に飛び立つ。  二人は日陰の手すりに腰掛けて話し始めた。  その内容は、やはり退院してからの生活の拠点をどこに置くべきか、この一点につきるはずであったのだが、汐里は客商売をしていたために結構情報を持っているということもあって、そのなかで、つい翔太と茂の評判、至っては柳家の評判というものを口にしてしまった。 「えっ、おやじがそんなことを言ったのか? どうして黙っていたんだ?」 「だって、今から翔ちゃんの家に入ってお世話になろうとしているのに、悪い評判なんか言えないでしょう?」 「そりゃあそうだけど、今の話、本当なのかい? 実は、以前そんなことで電話をかけてきた人がいたから、もしかして……、とは俺も思っていたんだ。何回も汐里ちゃんには言っているけど、俺達親子には特別な事情があって、見知らぬ者同士がいきなり同じ屋根の下で暮らし始めたのとさして変わらないんだ。それでも親子なんだから……。もう一度聞くけど、今汐里ちゃんが言ったことは本当なのかい?」 「そういう噂が立っているというだけで、私が直接お父さんに問いただしたわけではないのよ。ただの噂話をしただけなの……」 「でも、噂話にしても、俺にすれば聞き流せない話だぞ。よしっ、退院したら気合いを入れて、どこまでが本当なのか話を聞いてやる。もしおやじが否定するのであれば、そういう噂を流しているやつの所にも行ってやる!」  すっかり興奮してしまっている翔太だ。 「そんなに怒らないでよ、翔ちゃん」 「怒りついでに汐里ちゃんに言っておきたいことがあるんだ」 「なに、良いこと? それとも悪いこと?」 「さぁ、それはどうだか分からないけど、どうせ一緒に暮らすのなら、結婚しようか……」 「――何よ、その『どうせ』って。翔ちゃんにとっての私なんかおまけみたいなものなのね」 「なっ?」 「翔ちゃん……」 「悪い、俺が悪かった。一緒になってくれないか? 一緒になってほしいんだ」 「翔ちゃん……。はい、分かりました。私はこれからずっと翔ちゃんと一緒にいます」  七階建ての病院の屋上にいる二人。眺めはかなりのものがあるのだが、広い駐車場に停まっている車の数は半端なものではない。もちろん、入院施設があるのはここだけではないのだが、この狭い益川にあって、これだけ病院のお世話になっている者がいるのか、とあらためて知って驚く思いだ。  そんな光景を見ながら、 「二人で幸せを掴もうね」  今度は汐里の方がそう言うと、 「もちろんだとも……。でも、掴むのは同じ一つの幸せだよ」 「まあ、翔ちゃんったら」 などと冗談を言いながら、もう少し力を入れて汐里の肩を抱き寄せた翔太であった。    やがて病室に戻った翔太。意外にも静かだ。 「じゃあね」  そう言って汐里が遠ざかっていく。  角を曲がるまで見送った翔太は、病室の前に張られた新しいネームプレートに驚かずにはいられなかった。今ならまだ病室を変わることもできると思うのであるが、かといって、バレてしまえばそれはそれで厄介なことになってしまう。  だから、ネームプレートは見なかったと自分に言い聞かせてから、挨拶がてらにゆっくりカーテンを開けると、 「やっぱりそうだったのか……。よく似てるなとは思ってたんだよ」  同じ会社で働いている成川勇司とよく似てる、そういうつもりで言ったのであるが、 「まさか柳さんが同じ会社で働いているとは夢にも思わなかったよ。あの事故が起こるまで……」  そのひとことは、あのときは偽名を使っていたと自らが認めたのと同じことだ。  聞けば成川は、金型の中に入り込んで作業していたところ、誰かによって意図的に型を閉められ、間一髪のところで抜け出せたものの、残った左足の先を挟まれてしまったということだ。  医師からの説明はまだ受けていない。  それにしても、安全靴を履いていたおかげでペチャンコになるほどまでには至っていないらしいが、どこまで回復するものやら、不安げな成川の表情がその全てを物語っている。  その当日に、わずかに会社の者が見舞いに来ただけで、ほかに誰も来ない成川。  翔太にすれば凶暴な男であるとは分かっていても、今だけは大丈夫と確信できるものがある。  一方の成川としても、その後の翔太が気になっていたのではあるが、『翔ちゃんに手を出したら私が承知しないよ』、そう言ったあのときの汐里を思い出すと、穏やかな心から抜け出せないでいた。  暇な二人は親交を深めるかのように、ネタを選ばず話をした。そして、カーテン越しにほとんど同時に「あっ!」と声を上げたとき、テレビではあの事件の続報が流れ始めた。  成川にすれば袋の中を真空状態にしたのが災いしたのか、十五年は経っているであろう、と思われるガムテープから指紋が採取され、しかも特定まで至ったということだ。ということは……。  などと思っていたときに数人の男が入ってきた。その鋭い目つきからして、刑事であることがすぐに分かった翔太。 「君だね、柳翔太さんは?」 「はい……」 「君に聞きたいことがあるんだ。医師の了解も取ってある。面会所までお付き合い願いたい」  もちろんそのときの答えを用意している翔太だ。いくら仲直りしたからといって、成川の犯した罪をかぶろうとは思わない。だから、険しい顔でベッドの横に立ち上がった翔太であったが、 「ちょっと待ってくれ! やったのは俺だ。柳さんは林の向こうにいただけで、犯行には関わっていない」  そんな声を上げているのはカーテンの向こうの成川だ。  刑事の態度が途端に変わった。 「あなた、ナースステーションで聞いた分には成川勇司さんとうかがっていたんですが、もしかして、安藤智則さんですか?」 「はい。私はかつて職場では柳翔太。以外のところでは安藤智則と名乗っていた者です。十七年前は、京都の藤田荘というところに住んでいました」  遠くから近づいてくる足音は聞こえていたのであるが、 「どうしたんだ、成川?」  刑事たちの背後から聞こえてきたその声に、全員が振り向いたその先に立っていたのは浮田だ。「お見舞いの方か?」 「浮田さん。実は俺、浮田さんに大変な噓をついていたんです……」 「噓?」 「どちらさんですか?」  一人の刑事が浮田に聞いた。 「成川の上司に当たるものです」 「私たちは警察の者です」 「警察?」  途端に表情が険しくなった浮田。 「じゃあちょうど良かった。続きは面会室で話そう」  車椅子に乗り、浮田に押されながら刑事とともに部屋を出ていった成川。  ――それから幾らもたたないうちに一度病室に戻った成川に、 「浮田さんは?」 「話の途中で帰ってしまった。俺なんかの話をあそこまで聞いてくれただけでも立派な人だと思うよ……。汐里さんのこと、頼みますよ!」  軽く片手を上げて、そう言ってから会釈をする成川は、看護師と刑事に囲まれて再び病室を後にした。  とてもそんなことをした男には思えなかったけど、幸か不幸か、成川とはそれが最後となってしまった。
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