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第3話 否定された存在
別に優香が嫌いになったわけでもなければ、飛鳥に恋心が芽生えたというわけでもない。今までと何も変わらない信之介であるが、やはり男である以上、女に興味がないと言えば嘘になる。といっても、飛鳥は『好きな人が入院しているから、明るいうちは病院に付き添いに行ってから仕事に行きます』と信之介と優香の前ではっきり言っていた。
一度だけその男の名前を聞いたことがあったのだが、聞き慣れない名前であったということだけは覚えているものの、はっきりとした名前は覚えていない。従業員を五百人から抱えている益川テックで働いているというのだから、分かるわけがないのだ。
別にそんなことなんか気にしていない。信之介の心の中にいるのはただ一人、紫優香だけなのであるし……。
しかし、その優香。依然として飛鳥と目を合わそうとしないどころか、口の一つも聞こうとはしない。その頑なな気持ちをほぐすかのように話し掛けたりするのであるが、今や信之介が近づくと離れていってしまうほどだ。
優香にすれば、飛鳥に近づいてほしくもない、というのが本音であろうと思うのだが、信之介の性分からしたらそんなことはとてもできないし、それはあんまりだと思うのだ。だから、今や二人とは別の所にポツンと一人でいるのが当たり前のようになってしまっている優香。
そんな優香に更なる異変が起こる。
それまでは夜明けとともに元の体に戻っていたのであるが、次第に夜が明けても、そして昼になっても、元の姿には戻らなくなってしまったのだ。
飛鳥は言っていた通り、まるで信之介の将来像を地で行くかのように、朝早く神前島を出ては翔太の入院している病院へと向かい、それから仕事に出向いた。もちろん、それは会いたさ見たさからであったのだが、毎日同じ時間に出て日が暮れてから帰ってくるその行動は、三人の存在を水中に潜む者達にあらためて知らしめた。
――日が傾き始めた頃、仕事を終えて戻ってきた飛鳥。
「ねえ、今更聞くのも変だけど、どうしてこんな島で暮らしているの? いつからのことなの?」
そう聞いたのは飛鳥だ。本当は「しかも二人で?」と繋げたかったのだが、誤解を招くといけないと思い、遠慮したのだ。
「――今年の春頃からだ。親戚のカダおばあちゃんがあいつらに殺られたのを俺は見たんだ。向こうに見える浦吉の友達の家から。ちょうど家でもごたごたしたことがあったしな……」
「それで証拠を掴んでやろうと思ってこの島に住み着いたのね?」
そこまで言ったときに珍しく割り込んできたのは、岩陰からひょっこりと顔を出した優香だ。
「――ねえ、飛鳥ちゃん。話は変わるけど、お店の方は忙しいの?」
驚きの表情を隠しきれないでいる飛鳥。
「相変わらずよ。だってここら辺で食事ができるところって言ったらあのお店ぐらいしかないんだから、仕方ないじゃない」
「あなたがこの島で暮らしているのをお店の人には言っているの?」
「そんなことなんか言っていないわよ。幸い浦吉から通っている人はいないから」
「あなたに聞きたいことがあるの。ねえ、陽向汐里っていう女の人を知らない?」
少しドキッとしたが、それを悟られないように、
「初めて聞いた名前だわ。私は知らないけど、どうかしたの?」
「じゃあ、柳翔太っていう人は?」
「それも初めて聞いた名前だわ。知らないよ」
「ついでにもう一つ聞きたいけど、あなた、洞窟の入口に置いてあった【たぶんおとぎ話】っていう本、取ったわね?」
「本を取った? 知らないよ。それがどうかしたの?」
「嘘おっしゃいよ。あなたが来て間もない頃のことなのよ。ほかに誰がいるって言うの?」
「だって知らないものは知らないわよ」
そんな話を聞いていた信之介にすればまんざら悪い気はしない。思った通り、信之介が思いを寄せる優香が、目の前で恋敵と取っているかのような飛鳥相手に怒っているからだ。だから、
「優香、もうよしなよ。証拠があるわけでもなければ、おまえの勘違いかもしれないし……。波や風だけじゃなくて、鳥だってくわえて持っていったりすることがあるんだぞ。そんなことより大事なのは、何が目的であんなものがそこに潜んでいるかということだ」
優香の鋭い目がまだ飛鳥を捉えているのだが、それを無視した飛鳥が口を挟む。
「信之介君。この前見たあのでっかいやつ、国道沿いの二十階建てのマンションと何か関係があるとは思わない? この前信之介君に言った通り、私は最近まで商売をしていたからお客さんからいろんなことを聞いていたんだけど、今、あのマンションに住んでいる人のほとんどは、外国語をしゃべっているということよ。ねえ、そうは思わない?」
「おまえもそう思うのか……」
そして反対側を振り向いた信之介は、「ここから見えるあの岬は【大森】って呼ばれている所なんだ。特定災害危険地域に指定されてから移転が始まったんだが、その全ての人があのマンションに引っ越したと聞いている。具体的には知らないけど、破格の条件でな。でも、それに反対して最後まで居座り続けたカダおばあちゃんは、あの家で殺られてしまった。その後、まるでその証拠を隠すかのように誰かによって放火されて、三つの焼死体が発見されているんだ」
「やっぱりそうだったんじゃない。どうして私には言わないでこの人には言うのよ? ふん……」
またよそを向いてしまった優香。思わず笑いそうになってしまう信之介だ。
「初めて聞いた話だわ。テレビのニュースでも見たことがないわ」
「そうだろう。だから俺はこの島に住むことに決めたんだ。やったやつの存在の証拠を掴んでやろうと思ってな」
「海の底に沈んでいるものからしたら、あの地震が事の始まりのきっかけになったのかもしれないね?」
「俺もそう思う。たぶんあの中にいる連中は、浦吉を占領しようと考えているんだろう? あの高層マンションなんかその始まりに過ぎなくて、不動産業者を買収して、あっちこっちの土地を買っているという話も聞いている」
すると、振り向きざまに、
「そこに大量の蛾が発生したのよ。だから、海の底の連中は陸に上がることができずにいるの。それで食料が尽きたのよ。分かる? だから今は蛾に感謝しなくちゃいけないの!」
両手の拳を握り締めて優香が言った。
「おまえぐらいだぞ。そんなことを言うのは」
「だって本当のことじゃない。蛾が大量発生しなかったら、海の底にいる者逹が上陸して、もっともっと大変なことになっていたかもしれないよ」
今の優香からは、信之介に対する恋心など感じ取れない。まるでもっと身近なものの肩を持っているかのようだ。
「それはその時になってみないと分からないことだが、蛾が大量に発生したということだけでも大変な事態に陥っているんだぞ」
「信之介君……」
「二人ともやめてよ。ここで言い合いをしたって結論が出るっていう話でもないし……」
――その日の夜。
相変わらず優香がわらじ島の決まった岩の上に座ると、海から這い上がってきた数多くの小さな人影が、グルリと優香を囲んで冷たい視線を投げ掛けているなか……。
つい昨日まで、体中に寄生した無数の個体は夜ともなるとモゴモゴ蠢いて、個体同士がこすれる音も聞こえていたのだが、今はすっかり静まり返り、聞こえてくるのは岩に当たる波音だけだ。
目にかぶさるものも動きを止め、わずかな視界で無理やり体を曲げて眺めてみれば、その目に映る全てのものからは冷たさと硬さしか伝わってこない。もうあの声も聞こえなくなってしまった。優香はそのときが近いことを悟っていた。
涙が止まらない優香。涙だけは出るということに更に涙する優香。
なぜなら、導かれるようにこの場所に座ったのはまだ陽の残る夕方であったのにもかかわらず、まるで誰かからの合図を聞いたかのように、ゴワゴワと体が変化していったからだ。間違いなく、無数の個体が先を争うように体から分離、飛び出していくときが近づいているのだ。
そして願いも虚しく、それに合わすかのように、優香の体が変化している時間は日増しに長くなっていった。
「信之介君……」
今日はこれで二度目だ。浮上したばかりの巨大な物体を見ている信之介の肩を叩いたのは飛鳥だ。
「どうしたんだ?」
「ほら、あそこ……」
飛鳥が指さす方向には、島に上がってこようとしている二つの人影が見える。
「きっと連中の遣いだ……」
と、身の危険を感じている二人を優香もわらじ島から見ていた。これから何が起ころうとしているかは容易に想像できる。その原因も。
銃を持っているようには思えない。ここで銃を撃ってしまえば、浦吉の村に明かりがともるのは明白なことだ。
とりあえず、信之介は飛鳥の手を取って反対側に向かって走ったのであるが、少し行った所でその先に人影があるのを見つけ、すぐに立ち止まってしまった。意味までは分からないが、どこかで聞いたような外国語が頭上を飛び交う。
挟み撃ちだ!
そのとき、波を叩く重量感を伴った音につられて全員が振り向いたその先では、派手に左右に波を掻き分けるものが、猛スピードで近づいてくるのが見て取れる。
その速さたるや、尋常ではない。
先に島に上陸していた二人は、少なくともそれは自分達の味方ではないことを悟った。そして、それが人間でないことも……。
――優香の中にはためらいも何もなかったのだが、神前島の傾斜のきついところに上半身だけ上げたとき、とても体が思いことに気付く。
それも当然だ。隙間なく体にへばりついた個体たちの間に海水が入り込んでいるからだ。やがて顔を上げたときに、
「あっ!」
と驚く飛鳥の声も無視して、その全てを二人の前にあらわにした巨体。
この化け物は……、そういうことだったの……。
と飛鳥が思うように、夢の中に出てきた化け物と見事に一致するその容姿は、月明かりを反射して美しくもあるが、おどろおどろしたものさえ感じさせる。いずれにしても、とてもこの世のものとは思えない。
じっと見つめていた信之介と飛鳥。気が付けば上陸していた者達は島のどこにも姿がない。思わず巨体と反対方向に駆け出した二人であったが、また聞こえてきた大きな音に立ち止まって振り返ってみれば、その姿はどこにもなく、代わりに白波を立てながら浦吉の浜に向かう存在が見える。
「信之介君……」
――もちろん、そんな光景は翔太の部屋からこの男も見ていたのだが、その一件が治まったかとも思える直後であった。
珍しく一晩に二回も姿を現したその巨大な物体。何かが始まる予感に胸が躍っている。今まで見たこともない何かが……。
すぐに、わずかな静寂のときを挟み、覗き見る双眼鏡の向こうで一瞬の閃光がきらめくと、次の瞬間、茂は手にした双眼鏡とともに床の上に倒れ込んでいた。
窓ガラスの割れる音に気付いた者が家に上がり込む。
血の海に横たわる茂。
窓の向こうには、噂に聞いていた物が月明かりにくっきりと浮かび上がって見えている。
「誰か来て! 茂さんが大変なことになってるの! 誰か!」
闇夜を切り裂く幾多の大声。騒然さを極める浦吉。
やがて救急搬送された病院は、我が息子、翔太の入院している病院であった。
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