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第4話 一夜の夢
ママが好きだというビートルズの曲が流れている店内。
壁にはこの店に訪れたことがあるという、無名の歌手のサイン入り色紙が数枚飾られている以外は、殺風景とも言えるほどである。
でも、外から見るよりも広い店の結構なスペースを取って、天井に取り付けられた数個のライトが狙いを定める一段上がった半円状のスペースからは、見ているだけで興奮めいたものが伝わってくる。
隅に置かれたマイクと譜面台が小さく見えるほど、デュエットするには広すぎるその一角。
――それには訳があるのだ……。
なぜママが突然そんなことを男に言ったのか、当然恵子には分かっている。
だから一瞬止まってしまった会話の中で、ハンドバッグを開けて探し物をしているようなふりをしていたのであるが、男が水割りを口にしたのと同時にママの方に向き直って、
「ふふっ……」
「へぇー、そうだったのかい……」
「やだよ、ママったら。まだ何も言ってやしないんだよ。いつになったら治るんだい、そのバカみたいなギャグ? ふふっ……。それでさぁ、あの人と毎日毎日いろんな話をしたんだ。今のことはもちろんだけど、これから先のこと、幸せってなんだろうな、そんなことをね。
お互いにそうだったんだ。たまたま東京で出会った同郷の人、っていう共通点だけで暮らしていたにすぎなかったわけで、別に感情はなかった。すると私もそうだったけど、そんな日々が続くほどにあの人も田舎に帰りたいって言い出しちゃってさぁ」
「へぇー、そうだったのかい。東京に行ったって聞いてたから、てっきりいい生活をしてるって思ってたんだけど、あんたも大変だったんだね」
「そう思っちゃうよね。私たち田舎者からしたら東京ってそういうイメージしかないものね。なんか東京で暮らしてるっていうだけでスターになったみたいでさぁ。でも、住めば都っていう言葉もあるけど、そうでない場合だって結構あるんだ。
あの人ったら、私には内緒で突然会社を辞めちゃってさぁ。何があったか知らないけど、よっぽど嫌だったんだろうね。っていうか、私と一緒で思い込みが激しいんだよ。ただし、その相手は私じゃなくて……。結局一緒に帰ることにしたんだ、夜行列車に乗ってさ。ふふっ……」
「へぇー、その人、車は持ってなかったのかい?」
「以前は持っていたらしいけど、そんなにも乗らないから売り払ったって言ってたわ。駐車場代だって半端じゃないもの」
「それもそうだね。ここら辺と同じように考えちゃいけないんだ。へぇー……」
聞いている分にはとてもいい話には聞こえないのであるが、そんな話をする恵子の表情は、終わったことを嘆いているというよりも、むしろ精算してるかのようなサバサバとしたものに見える。きっと隣にいる男のおかげで全てを想い出にすることができたんだ、と汐里は思うのであるが……。
「夜行列車って、雰囲気があって凄く素敵なんだ。窓の向こうで蠢く人達はまだ一日が終わったわけじゃない。きっと帰ったらやらなければならないことがいろいろあるはずなんだ。好きなことも、そうでないことも……。なんかそういった人の人生を垣間見ているようでさぁ。
透明な箱の中の昆虫を見てるって言ったら悪いけど、窓の外と内では流れる時間が全然違うように思えちゃってさ、偉くなったような気にさえなっちゃうんだ。お酒こそ飲んでいないけど、まるで早送りしている画面の中をゆったりとくつろぎながら移動してるみたいな。座ってる位置だって結構高いしさぁ……」
「私は乗ったことがないけど、分かるような気がするわ。車の助手席に乗っていてもそんなことを感じることがあるからね。雨降りのときなんかに傘をさして歩いてる人を見たりしたら特にそうだわ。そう、リッチな気分になれるんだ」
「そうなんだよ。向こうからは何も聞こえてこないけど、ついいろんなことを思っちゃうんだ。その人達のことじゃないよ。小さかった頃のこととか、初恋のこととか……。そして、私は益川に向かってる。こんな私をみんながどういうふうに迎えてくれて、その先どうなっていくのかなんて。期待と不安が入り混じったような気持ちでさぁ……。
あの人が前に座っていなかったら、もしかしたら私は泣いていたかもしれないよ。といっても、あの人は電車が動き出したらすぐに寝ちゃったんだけどさぁ。その寝顔を見てたらそれまでのあの人の苦労が伝わってくるようで、何も言えなかったわ」
「あんた恵ちゃん、ずいぶんと大人になったんだねえ。ふふっ……」
「本当にいいんだよ、夜行列車ってさぁ。だって電車が停まるたびに、今自分がどの辺りにいるか嫌でも分かるじゃない。車に乗ってナビなんか見てたら自分のいる所は当然分かるし、停まろうと思えばいつだって簡単に停まれるじゃない。でも、電車は違うんだ。たくさんの人を乗せたまま、いつも決まった所にしか停まらない。そこがいいんだよ。まるで導かれている運命みたいじゃない。
それに、時々停まるとホームの明かりに照らされた素敵な風景が見えて、荷物を抱えた人達が窓の向こうに遠ざかっていくんだ。ふふっ……。そんな人達を見ていたら、ついみんなが幸せそうに見えちゃって。
だから、私はこれから本当の愛っていうのをこの列車に乗って掴みにいくんだ。彼と二人だけの特別な世界にこの列車は連れていってくれるんだ。あの人達と同じ、いやそれ以上の幸せな世界に、なあんて思っちゃうんだ」
「へぇー。あんたは相変わらず夢見る女だね。それで、その人と暮らしてんのかい?」
男を横にした、嫌みったらしい願いを込めた質問であったが、
「いや、それが……。あの人は大きなバックを二つ抱えて昭月で降りて、プラットホームで待っていた女の人と二人で改札口を出て行ったんだ。その女の人ったら改札口を出るときに、私の方を振り返って一礼していたわ。その意味を考えたらおかしくってさぁ……」
「へぇー。なんだよ、それって?」
「私も降りるつもりで荷物を持って立っていたんだけど、電車が停車する直前に手を振っている女の人が見えたもんだから……。それはどう見たって、あの人に対してそうしてるとしか思えなかったの。あの人の足取りがとても早く感じられたわ。
そのとき、初めてあの人がずっと眠り続けていた理由が分かったの。それに、それまでに時々していた長電話で薄々感じてもいたから、私は立ったまま、あの人の背中に『さようなら』って呟いたの……」
「へぇー。あんたって本当に男運が悪いんだね。良いように言ったら、あんたほど演歌が似合う女もいないっていうことだ。なんだったら演歌に変えてあげようか?」
「やだよう、ママったら相変わらずだね。ふふっ……」
「人間そんなに変わるもんじゃないんだ。人間じゃなくてもそうなんだから……」
「へぇー、そんなことを言ったら、ママが人間じゃないみたいに聞こえるじゃない。確かにそんなところはあるけどさぁ、ふふっ……。いいんだよ。どっちにしてもいつかは別れる運命にあるんだしさぁ。こんな私に一晩だけでも良い夢を見させてくれたんだから、別に恨む気持ちもないし……。
そしてすぐにかかってきた電話で、『急に両親の面倒を見なきゃならなくなった』、って言うんだ。本当かどうかは知らないけど、それまでの私のことはもちろん話してたから、同じネタを使われるってことは、私のことをなめてたんだ。きっと、一緒に行った女の人と私のことを笑っているのに違いない、なんて思ったりしちゃってさ。もう外は明るくなってたけど、暗かったときの余韻を引きずっているみたいで物悲しいっていうのか、あまりのことで、周りの物音が耳に入ってこなくなったんだ。そしたら、
≪ 次は益川…… ≫
っていうアナウンスが流れてさ、雰囲気だけはあったわ。終わっていくみたいな……。それから決まった時間に電車はまた動き出したんだけど、それでも私は見えなくなるまでその二人を眺めていたんだ。バカだよ……。しばらくは駅前の喫茶店に入ってボーっとしてたんだけど、あれこれ考えてたらなんか急にこの人に会いたくなって、電話をしたんだ……」
「恵ちゃん。あんたもつらい運命を背負って生まれてきたんだね……」
「そうなんだ。きっとそうなんだよ。ふふっ、ふふっ、ふふふふっっっっっ……」
「あんた、それはよしとくれよ。顔が笑ってない分結構怖いんだ……」
何が目的で、前の夫を連れて古巣のこの店に出向いてきたのかは分かっていた。しかし、浮き沈みの激しいこの商売。恵子がいたときが浮きなら、今は沈みだ。また浮いて欲しいとは当然願うのだが、そんな保証などどこにもない。
恵子はすっかり変わってしまっていた。化粧も髪型も着ている服も、しゃべり方までも……。東京ナイズと言えばかっこ良く聞こえるが、ケバいベテランホステスとしか見えない。あの頃の恵ちゃんとは別人だ。
二人は一時間位いただろうか。汐里の答えを察した恵子は男を連れ、何も聞かずして店を出て行った。でも、この男の場合は何事もなかったかのように、それからも時々店に現れた。
――金も持たずに、いつも誰かを連れて……。
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