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第5話 汐里の残したもの
その頃、灯台の展望台から全てを見ていた自衛隊員の報告を受けた、役所にある対策本部では、
「おい、もういい。ひとまず通信手段を復旧させろ」
「いいんですか?」
「あいつらにはいったん帰ってもらう」
「でもそんなことをして、砲撃でもされたら……」
「まさかこんなことで国際紛争まで発展するとは考えられない。やつらはきっと引く。心配するな。我が国には自衛隊がいるんだぞ。それにそうなったときのために、すでに攻撃準備はできていると聞く。ものの十五分でケリが付くはずだ」
「はい、分かりました!」
隔離状態にあった浦吉であったが、どういったわけか、なんの予告もなしに様々な通信手段が正常さを取り戻した。それは、大きな不安を持ちながらも隠していた携帯を手にして、無理は承知でメールの配信ボタンを押し続けていた者によって分かったことである。
夜中であるにもかかわらず翔太の父親が狙撃されたということは、館林の言うことに従った仁美のメールによって、同級生全員に伝えられた。
そのメールはもちろん真理のもとにも届いていた。
母親を気遣って中庭に出た真理は、何かが吹っ切れたようにすぐさま仁美に電話を入れ、
「仁美ちゃん。本当のことを言うとね、岡部君は帰ってきていないの。たぶん、湯川産業のどこかに監禁されていると思うの!」
「どういうことなの?」
「あの人は運び屋をやらされていたの」
「誰に、なんのために?」
「あの人の命がかかっているから言えなかったけど、浦吉を占領して、事実上あの国の一部にしようとする輩が乗り込んだ、潜水艦の乗組員達の食料を運ばされていたの……」
「ええっ!」
仁美はすぐさま下請けである湯川産業に車で向かった。
――真理の言った通りだ。
事の重大さに証拠隠滅のためか、明かりが煌々とついた中で数人が蠢いているのが見える。
社長の秘書であり、ましてや湯川産業は下請けなのであるから、仁美は社長と共に何度か訪れたことがある。だから、仁美は体を忍ばせ社内へと入ると、事務所の中から鍵の束を取り、その足で地下室へと向かった。
二部屋ほどあるのが確認できる。ドアが開いているようには見えないものの、近づくほどに強烈な腐敗臭が鼻をつく。嫌な予感はするのだが、そんなことを考えている場合ではない。
仁美は鍵の束を手にすると、その向かいの部屋の鍵穴に一つずつ差し込んでみた。
するとすぐ、
「誰だ?」
ドアの向こうから聞こえてきたその声は、間違いなく岡部だ。
「岡部君なの? 私、仁美よ!」
「仁美さんか……」
やっとのことでドアを開けることができた仁美は、思わずやつれた岡部の手を取り、
「ごめんなさい。あの財布は誰かが取ることを期待して、私がわざとバッグの上に置いたの。あの集まりを潰してやりたくってね……。ごめんなさい! ごめんなさい、岡部君!」
涙声でそう言った。
もうあんなことなどどうでもいい。どうでもいいのだ。
二人は車に乗り込んで病院へと向かった。
――念のために事の重大さを報告しようと何度か館林にメールしたのだが、一向に返答のないことに肩を落とした明美は、一人暗い部屋にこもって涙していた。
これがこの女の持って生まれた定めというものか……。
「チッ!」
そんな、ざわめく浦吉の全てを傍受していた館長のひとことで、海底をゆっくり動き出した怪物。
眠れない信之介は、何やら海がざわついているのだけは分かっていたのだが、いきなり静けさを突き破るように、突然轟いた発射音とほとんど同時に聞こえた爆発音に、自然と死をすぐ近くに感じてしまう。
反射的に身を伏せ、飛んでくる物と爆風から我が身を守る。
気持ちは二発目にいっているのであるが、そのまま頭だけ上げて爆発音が聞こえた方を見てみると、粉砕したトンガリが目の前で音を立てて崩れ落ちていっている。
計ったかのようにきれいに上部まで塞がってしまった穴。まるで夢の中の出来事だ。とても信じられない思いで佇んでいる信之介。
次いで、それが発射されたと思われる逆方向を振り向いてみれば、某国の回し者達が乗った巨大な物体が、これ見よがしに全容を現して沖に向かって航行しているのが見える。
星が揺れているように見えるのは、もしかしたら国旗か?
多少の迷いはあったものの、体の中に隠れてしまうのなら誰がそうなのか分かったものではない。そう思うと決心することができた。信之介は急いでゴムボートを膨らますと、汐里の後を追うように陸を目指して櫂を漕いだ。
――やっと病院に着いた汐里は、集中治療室の外のソファーで横になっている翔太を見つけ、
「翔ちゃん!」
ここが病院であることも忘れて、そう叫びながら駆け寄った。そして、
「翔ちゃん、謝らなくちゃならないことがあるの」
「なんだよ?」
「あの本のことだけど、返せなくなっちゃったの……」
「今はそれどころじゃない。そんなことなんかどうだっていいんだ」
やがて大挙して訪れた三十五歳の高校生達。
人目もはばからず抱き合う真理と岡部。ハンカチで涙を拭いている者さえいる。
「みんな、こんな夜中にわざわざありがとう……」
などと言っていると集まってくれた者達の向こうに、人差し指を口に当てたまま、駆け足でやってくる信之介の姿が見える。
それに気付いた同級生達が次々と振り返る。
「信之介君!」
すると、
「しぃぃ――!」
笑っているのは汐里だけだ。
さらに通路の角から姿を現したのは、妙と澄夫だ。
「翔太、しっかりするんじゃぞ! 絶対に助かるから、決して諦めずに祈り続けるんじゃぞ!」
「翔太さん、あのときはごめんなさい。まさかこんなことが起こるなんて……」
その一言で、途端に印象が変わってしまう。
「信之介、いい加減に戻ってこい!」
「いや、俺は戻らない!」
さらに妙は、翔太のすぐ近くでこう続けた。
「信之介。まだあんたには言ってなかったけど、実はあんたが嫁さんをもらったときのことを考えて、どこかの空き家を買い取って民宿をするっていう話が進んでいるんだよ」
「妙……」
「あんたは勘違いしているみたいだけど、言い出したのはお父さんで、お父さんはあんたの将来を誰よりも心配してるんだよ。あんな店だけじゃ食えないどころか、嫁さんのきてもないだろうからね……」
「そ、そんな、おやじ……」
邪魔をしていた全てのものが取り除かれ、みんなが正直者になっている。
「翔太。大丈夫だ。あのおやじさんが死ぬなんて、絶対にあり得ないことだからな」
そう言うのは館林だ。「今日からは当分、汐里ちゃんと二人だけの生活をするんだな。おまえが羨ましいよ、翔太。ちっくしょう!」
そう言って、汐里の横で微笑みながら、両手を握る翔太と館林。
「ありがとう。館林さん……」
それから三日後。
なんとか一命を取り留めた茂の目が開く。
「おやじ、聞こえるか? 俺だよ、翔太!」
「お父さん、しっかりしてね!」
酸素マスクをしているせいで返事はできないものの、軽く頷いた茂の目からは、耐え難い辛さと悲しみがこぼれている。
――病室を出た二人。
「汐里ちゃん、わざわざありがとう。えっ?」
久しぶりだとはいえ、思わず目を擦ってしまった翔太。「汐里ちゃん……」
「なあに、私はここにいるわよ……」
「分かっているさ。だって温もりが伝わってくるんだから」
などと言いながらももう一度擦っていると、
「ねえ、翔ちゃん。これからは喧嘩なんかしちゃ駄目なんだよ。親子じゃない。仲良くやるんだよ」
「したくてしてるんじゃないんだ。ただおやじが……」
「二人ともいい大人じゃない。ちゃんとした場で納得いくまで話し合わなくちゃ。誰だって、楽しく生きていたいからね……」
「汐里ちゃん、なんか変だぞ。隠し事をしてるんじゃないのか? 俺とおやじのことばっかり言ってるけど、これからは三人で暮らすんだぞ」
「そんなことぐらい分かってるよ……」
「汐里ちゃん、お腹すいてないのかい?」
「翔ちゃんこそどうなの?」
「じゃあ、二人で一階のコンビニに行って弁当でも買おうか?」
「松葉杖をついてたんじゃ遅くなるだけよ。私が行ってくるから、翔ちゃんは病室で待っていてよ」
そう言い残して駆け出した汐里が角を曲がるまで、翔太はその後ろ姿を見つめていた。
――そのときからだ。遠くから何やら掛け声のようなものが聞こえてきたのは……。
病室に戻った翔太。いつまで待っても汐里の姿が見えない。その分、ハッキリと聞こえ出した聞き慣れない掛け声。
【『――えっさぁほいさぁ! えっさぁほいさぁ! えっさぁほいさぁ、さっさ! っさぁほいさぁ、っさぁほいさ、っさぁほいさ、さっさ! えっさぁほいさぁ……』
不審に思った男が表に出てみると、ちょうど着物を着た娘が駕籠に乗るところであった。
『どこに行くんだ?』
たまらずそう男が叫ぶと、中から顔を出した娘が軽く会釈をする。
『ようござんすか?』
『ちょっと待っておくれ!』
『――へい!』
そして、もう一度駕籠から顔を出した娘が涙声でこう言った。
『――約束を守れなくてごめんね……。本当はずっと一緒にいたいんだけど、帰らなくちゃ……。みんなのために、どうしてもひとこと言ってやりたい奴がいるんだ。もう私は子供じゃないんだから。――必ずまた戻ってくるけど、この姿とは限らないよ。それに、またあなたと出会えるとも限らないし……。一生かけてもいいからさぁ、本当の幸せっていうやつを掴むんだよ。できたらそのとき、私が一番近くにいたいんだけど……。庄屋さんのところに行っとくれ!』
『庄屋さん?』
『あっ!』
居合わせた全員が、窓の向こうの闇夜に走った一筋の流れ星に目をやった。『あれはきっと、星になった初音の涙だよ。――さあ行っとくれ。庄屋さんのところだよ!』
そう言った娘が駕籠の中に姿を消すと、
『――へい、分かりやした!』
肩に担がれふわっと浮いた駕籠につられてよく見れば、駕籠かきの足も地面から浮いてしまっている。そして、何かが切り替わったような気がしたと思ったら、
『えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ、さっさ! っさぁほいさぁ、っさぁほいさ、えっさぁほいさぁ、さっさ! えっさぁほいさぁ……』
響き渡る掛け声と、動くでもなし、そのままの姿勢で遠ざかっていくものたち。
『嘘だろう……』
『――えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ、さっさ! っさぁほいさぁ、っさぁほいさ、えっさぁほいさぁ、さっさ! っさっさ、っさっさ、っさっさ、さっさ! えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ……』
吸い込まれるように入っていった正面の壁の中。とても暗いが桜吹雪が舞っているのが分かる。遠ざかっていく。どんどん遠ざかっていく……。
――夜にもかかわらず、だんだん大きく聞こえてくる駕籠カキの声に、村の者が一人二人と表に出て、
『何かあったのか?』
『誰が乗っているんだ?』
真っすぐ庄屋の屋敷へと向かっていくその駕籠をただ見つめているしかない村人達であったが、違う場所でその声に耳を傾けていた王子様が微笑むと、うさぎさんとネズミさん、そしてリスさんまでもが嬉しくなりました。願っていた通り、娘がこちらに向かってやってくるからです。王子様は、思った通りだ、などと、幸せな将来を予感せずにはいられませんでした。だから、自分の後ろに再び影を作ることにしたのです。すると……】
――涙さえ出なくなってしまっている。
ワゴンに隠れて分からなかったが、大きめの白いレジ袋を開けてみると、パンが二つと缶コーヒーが二つ。それと、チョコレートが二つとお手拭きが二つ。
遠ざかっていく駕籠を見つめていた翔太であるが、完全に姿が見えなくなると、その壁の前に本らしきものが落ちているのに気付く。
松葉杖をつきながらでも急いで駆け寄った翔太が、それを手にしてシオリの挟んであるところを開けてみると、こんなことが書いてあった。
「さようなら、私の翔ちゃん……」そして最後のページには、【たぶんおとぎ話はこれにて完】と。
――その後、時の経過とともに浦吉にはいつもの穏やかな日々が戻ってきたということだ。
えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ、さっさ! っさぁほいさぁ、っさぁほいさ、えっさぁほいさぁ、さっさ! っさっさ、っさっさ、っさっさ、さっさ! えっさぁほいさぁ、えっさぁほいさぁ……
―――――― おしまい ――――――
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