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第1章 男と女 第1話 始まりの藤田荘
「ちっくしょう!」
金もなければ時間もない。せっかくの夏なのに海にも行けない。
いい格好をして買ってしまった車のローンと高い駐車場代に追われ、ガソリン代も出せずにボロアパートの畳の上に横になって、ただ蝉の声を聞いているしかない柳翔太、十九歳のときであった。
――住んでいたアパートに一人の女が引っ越してきた。
細長いアパートの端と端。夜の仕事をしているらしく、翔太がアルバイト先の鉄工所から帰ってきたときに、それらしい格好をして入れ替わるように出て行くのであるが、いつも下を向いていたために顔を見たことは一度もなかった。
その女の部屋に、ある日男が転がり込んだ。
やがて週が変わり、木造アパートの薄壁を叩く騒がしかった雨音も収まった頃。
「二日したら出て行くってあんたが言うから泊めてあげたんじゃないの! いい加減に出ていってよ!」
夜中に聞こえてくるその女の怒鳴り声に、二人の事情がアパート中に知れ渡っていく。しかし、しばらくするとそんな女の声も聞こえなくなり、あっさりと、まるで何事もなかったかのようにいつもの夜が戻ってきた。
ある土曜日の夕方、翔太が近くの公園の前を通りかかったとき、その男がブランコに乗っているのが目に留まった。
何か寂しげなその姿。翔太は衝動に駆られて男に話しかけてみた。
「やっと女が仕事に行ったから一息付きに出てきた」
と、翔太を笑わすその男。
大柄でいかつい見た目とは違い、意外と気さくな男である。男は一つ年下の十八歳で、安藤智則と名乗った。
それから安藤は翔太の部屋によく顔を出すようになった。安藤は女の話になると、
「名前は多美子さん。二つ年上で、アルバイト先のダンス教室で出会った。不思議な人だ……」
と言うだけで、それ以上のことは語ろうとはしなかった。
そんなある日、翔太がいつものようにバイト先から帰ってきたときに、窓の閉まる音でアパートの二階を見上げると、白いレースのカーテンの奥にその女が消えていくのが見えた。
ハイヒールを履いていない女はとても小柄に思えた。
――深まっていく安藤との友情。
当時仕事をしていなかった安藤は、ある日「風邪を引いた」と嘘を言って翔太の健康保険証を借り、とある工務店の面接に出向いた。
仕事を持った安藤。二人は初めて外に飲みに出掛けた。そのとき同じアパートに住む一人暮らしの老人、杉本正一の話が出る。
おとなしい人であるのだが唯一の欠点は、夜中にトイレに行ったときのドアを閉める音の大きいことだ。それも年寄りであるから一晩に五回も六回も……。
翔太と安藤は明くる日苦情を言いに行ったのだが、何も変わらなかった。
杉本の部屋は安藤の部屋の向かいであった。
その日、いつものようにドアを閉める大きな音に目を覚ました安藤は、夜中であるにもかかわらず翔太に電話を入れた。二人はそのままほろ酔い加減の杉本を連れ出すと、翔太の車に乗せて京都中を連れ回した後、八瀬の山道の入口に車を停めた。
小便がしたい、と言う杉本。
安藤は杉本を連れ、雑草の生い茂った細い山道に入っていった。
――シートに寝転んでいつもの曲を聴きながら、明けていく空を見ている翔太。
こんなはずではなかったのに、と今更人生とやらを悔やんでみても始まらないのは分かっているのだが……。
どれぐらいの時間が経ったのか、ふと見れば帰ってきたのは安藤一人であった。訳を聞くと、地面からせり上がった大きな木の根に座り込み、翔太と同じ薄明るくなっていく空を眺めていた杉本は、
「もうすぐ夜が明けるから、久し振りに鳥のさえずりが聞きたい」
そう言って聞かなかったという。
当然驚きもしたが、そのとき、足元に投げられたガムテープでグルグル巻きにされた物を拾って安藤に手渡すと、
「大丈夫だ。今は車の通りもほとんどないけど、夜が明けてしまえば通勤の車でここら辺は渋滞するほどだ。それに道らしい道と言えばこの一本しかないから、仮に杉本さんが帰る方向を間違ったところで必ず誰かが見つけてくれる」
安藤は手提げ袋にそれをしまい、そう言って笑っていた。
それでも何か心配が残る翔太は、安藤をアパートまで送ると「コンビニに行く」、と嘘を言って引き返し、さっきの山道の入口に車を停め、鳥の声に導かれるように奥へと入っていった。
――しばらく歩いた所で枯葉のこんもりと積もった一帯を見つける。
嫌な予感はしたのだが、落ちていた枝で枯れ葉を少しずつどけてみると、紛れもない人の体の一部が目に飛び込んでくる。
翔太は驚きのあまり、その場から逃げ出してしまった。
大きな交差点に出たときだ。向こう側で信号待ちをしている黒い四ドアセダンの助手席に乗っている男。
もしかしたら……?
信号が青になり、互いの車が近づいていく。
間違いない、安藤だ!
視線を逸らす翔太だが、それでもその視界と記憶の奥に無理矢理入ってこようとする、安藤の大きく見開いた目。
――翔太は恐怖を感じ、そのままアパートには帰らなくなってしまった。
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