第2話 打ったはずのピリオド

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第2話 打ったはずのピリオド

 一か月後。  解約届けを持って、安藤のいない昼間にアパートを訪れた翔太。 「杉本さんは突然現れた民生委員の人が、『自分が預かる』と言って部屋を解約した。安藤さんは杉本さんのいた部屋で暮らしているけど、一緒に暮らしていた女の人は家賃を踏み倒して逃げてしまった。柳さん、あんたどこに行ったか知らないかい?」   ――あの後安藤は間違いなく山道に入っている。    もちろん、その状況からして俺が戻ってあの一帯を探し、杉本さんの遺体を目にしたことも分かったはずだ。さらにもういない杉本さんは民生委員が連れ帰ったという…… 。    余りにできすぎた話だと思った。  狭い京都の中。安藤の存在を気にして暮らす日々が続いたが、やがて一人の女と出会う。偶然にも同い年。この女には安らぎを感じた。  しかし、それからも忘れたい、記憶から完全に消し去ってしまいたい……。  そんな思いを逆撫でするかのように、杉本を布団で簀巻(すま)きにして押入れに押し込む夢に何度も目を覚ます夜を数え、時が経つほどに、次第に夢と現実とが重なり合っていった。  ――その後安藤は仕事を辞め、アパートを出た女の行方を追っていた。  まだ惚れてもいたが、もう一度女と会ってその心を確かめて、もしそうでないのなら消してしまうつもりでいた。そして当時女が働いていたキャバレーの同僚から、 「たぶん田舎に帰った」  という情報を得た安藤は、多美子が生まれ育ったという西の国に向かった。  目的の土地、益川(ますかわ)市。寂しい所ではあるが結構広い。  とりあえずは工務店に籍を置いてそれとなく女のことを聞いて回る日々が続いたが、空回りする時間のなか、あのときの自分がそうであったように、あの女が本名を名乗っていたのか? それに生まれ育ったのが本当にこの益川という所なのか?   信じ込んでいたそんなことが次第に不審に思えてくる。  そういえば、この土地のことについて聞くと、『好きになる人がいるの。出会いが待っているの』、などといったことを言うだけで、あまり子供時代のことを口にしたがらなかった多美子。考えればキリのないことであるが、もしかしたら自分は無駄足を踏んでいるのではないのか……?   日々の仕事に追われるなか、安藤は次第に諦めに近いものを抱くようになっていく。  しかし、ある日同僚と飲みに行った店で、代行タクシーという仕事の存在を知る。安藤はチラシに載っていた追っ掛けの募集を見て、休みの日に限ってやってみることにした。  代行タクシーならいろんな客も乗ってくるし、酒も入って下世話な情報も取れれば、案外多美子も乗ってくるかもしれない、そう思ったからだ。  ――次第に安藤の腕は社長に買われ、一人二人と部下を持つようになっていった。  もちろん始めて訪れた土地であるが、安藤にしたら騒がしい京都よりも自分に向いているような気がして、あの過去を隠したまま、やがて工務店と代行タクシーの追っ掛けを兼任するのが当たり前のようになると、双方から信頼されるようになった自分に自分らしからぬ意外なところを見つけ、時が経つのも忘れてのめり込んでいった。      久保田幸男(くぼたゆきお)という男がいる。  この男、益川の不動産王と言われる通り、五つの工務店を傘下に納め、宅地の買収や造成、建物の賃貸はもちろんのこと、益川の不動産の半分は久保田の息が掛かっている、と言われるほどの男である。  その久保田が、通称五番街にある自分の所有する雑居ビルの一階で、気に入った女にスナックを出させるという話を聞きつける。  当然、安藤の働いている工務店も久保田不動産の傘下にあったために、スナックがオープンするその日、安藤は社長と共にスナックに出向いた。  そのとき、安藤は我が目を疑わずにはいられなかった。  まさかこんなことが……。  カウンターの向こうにいるママ。汐里(しおり)と名乗ってはいるが、間違いなく捜していた女、多美子だ。  しかし、今声を上げてしまえば、決して知られたくない自分の過去がばれてしまうかもしれない。多美子はやはり益川にいたけど、今は黙って成り行きをうかがうしかない……。  このとき多美子は三十路(みそじ)すぎ。  片や二十代の終わりが近づいている安藤。  でも、当時は茶色に染めた髪を長く伸ばして顎髭(あごひげ)も生やしていたが、今は坊主頭で、髭もおとして色付きのメガネをかけている。それに、あれから既に十年近くは経っているから分かるはずはない、という自信はあった。  やっと女を見つけたものの近づけない日々。悶々とした時が流れていった。    ママと久保田の不仲説が耳に入ってきたのは、その翌年の夏のことであった。二人は別れ話でもめているという。加えて、地元の大手の会社に務める男がママに惚れ、テナントを買い取るという話を久保田に持ちかけているとも聞く。  土地にすっかり馴染んでしまい、半ばどうでもいいと思い始めていた頃であったが、山が動いた。あらためて自分の犯した罪を思い出した安藤は、食べ終えたラーメンの割り箸を折った。  その男は地元では大手の益川テックの課長をしているのだが、気が荒く、パワハラもどきのことを繰り返しているために降格の話が絶えず、実際会社のトップはその男よりも、その男の部下の係長を頼って現場を動かしている、との噂だ。  だから事実上はその係長が課長で、現課長はそのときを待っているだけの存在に過ぎない。しかも、その課長の妻は係長の高校時代の彼女であり、その係長は久保田の古くからの親友であって、その係長は、久保田に汐里とのテナント契約を解消するように強引に迫っていると聞く。もちろん、現課長の買い取りの話などもってのほかだ。 「世の中って面白いな。しのぎを削る二人が、同じスナックの買い取りと契約の解除で更にもめている。この先どうなっていくのか楽しみで仕方ないな」  相方はそう言う。どこの誰だか知らないが、代行タクシーの中でしゃべった客の話である。    久保田とママが喧嘩別れをしてくれれば、一歩も二歩も踏み込んだ話ができる。安藤は、京都を離れて西の国の田舎に来たことが間違いではなかったと確信し、求めている答えが次第に近づいてきていることに満足していた。    益川市を震撼させた浦吉の事件から一年。今では浦吉の住人に対する他地域への外出禁止令も緩和され、そのせいもあって、益川テックは忙しさのピークを迎えていた。  答えをぐずっている久保田にその旧友は力を見せつける。    当然久保田傘下の下請けで働いているということは知っていたが、何よりも、この男は自分好みであると思った。  片や男は、この男に近づけばもっと新鮮な多美子の情報も取れるし給料もいい。それに、やりようによっては社員の道も開けるという。  成川勇司(なりかわゆうじ)浮田大輔(うきただいすけ)に誘われるがままに工務店を辞め、まず期間工として益川テックに入社した。    ――ちょうどその頃からである。翔太のもとに、田舎にいる父親の(しげる)からたびたび電話が入るようになったのは……。
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