第3話 下巻1

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第3話 下巻1

【――それからアヤは庄屋さんの所で使用人として働くことになったのであるが、働いたところでお金がもらえるわけではなく、もらえるものといえば粗末な三度の食事ぐらいなものであった。   十数人いる使用人仲間の中にあっても一目で分かるぐらい幼いアヤは、ただ言われるがままにこき使われるしかなかった。それは家族のためではない。生きていくためだ。そんなアヤにできるただ一つの抵抗といえば、誰とも物を言わないことぐらいであった。  この土地の庄屋をしている源左衛門(げんざえもん)の屋敷を訪れる者の数はかなりのものがあるのだが、その中でも最近になってよく顔を出すようになったのが、源左衛門に次ぐ大地主である孫次郎(まごじろう)という男である。  この男、小柄であるが故に大柄な男を数名連れて歩くのが当たり前のようになっており、それがために、人の集団が来ると孫次郎が来たと分かるのであるが、当の孫次郎の全身を目にしたものは、使用人の中でもほんの数人であった。  その孫次郎は、トミという使用人にこんな話を聞いていた。『庄屋さんには影が取りついている。あの人は影のおかげで庄屋さんでいることができている』と……。  その話の真相をこの女に聞いたのであるが、 『あの人の言うことは信じないでください。そういう人なんです』  とそっけなく言われてしまった。使用人頭のフキである。    でも、孫次郎はなぜトミではなくてフキを使用人頭にしたのか、その理由を源左衛門から聞いたときにその背景まで知ってしまったために、フキの言葉は信用できないでいた。  庄屋の家に行った日からそうであったが、使用人小屋で寝る前には、決まった数曲の歌の中から思いついた歌を誰かが口づさむと、自然とほかの者も涙声で歌い出すのが当たり前のようになっていた。そうすれば、みんな安らかな眠りにつけるからだ。  ところで、この源左衛門には初音(はつね)というとてもわがままな娘がいて、今までに気に入らないとして何人もの使用人を(あや)めてきている。屋敷の中に井戸が二つあるのはそのせいだ。だから、一方の井戸の蓋にはとても大きな重しが載せてあった。それは中を覗かれるのを嫌ったからというわけではなく、万が一にでもその中に葬った者が上がってこれないようにするための物であった。  しかし、実際やっているのはこの娘ではない。かといって、使用人小屋で寝ている使用人でもない。分かっていたが、それを口にするものは誰一人としていなかった。たちまち()られてしまうからだ。  この初音、なぜ子供達が屋敷に連れてこられるのか、その理由も知らなければ興味もなかった。初音が気にしていたのは、恋する又吉とひっつきはしないか、ただそれだけであったのだ。  そんな、まるで全員が秘密警察にでもなったかのような使用人達の間柄であった。  我が娘が殺めた使用人は全て女だ。ということから、父親の源左衛門には何が娘をそうさせているのか分かっていたが、かといって、娘の我がままを聞いてやる気はなかった。身分が違いすぎるからだ。だからこう思っていたのだ。   娘はその男と一緒になりたい余りに、自分が死ぬのを待っていると……。    ――誰に聞いたのか、時としてそれを悟った家族達が塀の向こう側で泣きわめいているのであるが、かえってそれが娘を刺激した。  娘にとれば使用人など人形とさして変わらない存在であって、加えてこの娘の場合は感情の起伏がとても激しく、激昂(げっこう)し出すと父親の庄屋にも止めることができないほどであった。  もちろん庄屋の耳にもその声は届いていたのだが、いつもフキが帰った後に行われていたために、フキが知ることはなかった。庄屋はいつもフキには『あの者は隣村の庄屋の所に手伝いに行かせた』、と決まりゼリフのように言っていた。  多人数で生活している以上、当然いろんなことがありはする。ましてや、使用人小屋で寝ている使用人の中で唯一の男である。ただ、この男にはこの男なりの思いがあってやっていることであって、決して下心からやっているわけではない。フキにはそんな優しい男の心が分かっていた。   そんなことからして、勘違いされては困るからめったなことでほかの使用人とともに働かすことは避けていたのであるが、今回の新入りだけは初音に負けず劣らずどうしようもない。だからこそ、使用人の中でも一番信頼を置いているとも言えるこの者に、今回のことを任せたのだ。  昔のことであるから生年月日など分かろうはずもないが、この男、アヤが来た時にはすでに冬を二回数えているということと、何かしら持ち合わせている雰囲気からして、年上であるということは間違いないと思っていた。又吉(またきち)といった。    この男、何をするにつけてもとても器用なことで通っていた。  時間はかかっていたが、又吉は新たに任された仕事をアヤに教えるだけでなく、アヤの警戒心を解くかのように努めて近づいて、やがて世間話をするほどになっていった。  そんな事情がアヤにとって追い風となったのか、今度ばかりは今までとは違い、話題は次第に楽しいものへと変わり、二人の笑い声はその他の使用人の注目を浴びるだけにとどまらず、そんな又吉に恋心を抱いていた、庄屋の娘の耳へと入ってしまうこととなる。  アヤは又吉のことを『お兄ちゃん』と呼んでいた。  使用人の中にあってもフキは一番の古株だ。  アヤとは違って通い奉公の身であるためにさほどの拘束も受けることなく、特に庄屋の娘、初音とは、ほかの者達と一線を画した関係であった。  自分のしたことから周りに対しての警戒心もあって、もとからめったに表に出ない初音であったが、外の楽しげな声にたまらず表に出てしまったあの日、たちまち囲まれて田んぼの向こうに連れていかれてひどいいじめにあって以来、屋敷の中から外に出るのは、塀の外に落ちた栗の実を拾いに行くときぐらいとなってしまっていた。  それも当然の報いといえばそうであるが、それとは別に、誘われれば頬被(ほっかむ)りをしてまでもフキの家には時々訪れていた。  別に大きな屋敷に住んでいるわけではなく普通の一軒家であるが、フキを取り囲む周りの者も、フキの持つおおらかさに包み込まれているかのように穏やかで、庄屋の娘といえども分け隔てなく迎えてくれた。  きっとこの者達は自分のしてきたことを知らない、そう思うとなおさらフキを信頼するようになり、このひとときにのめり込んでいくのであった。だからこそ、源左衛門は娘の意見に推し切られる形で、フキを通い奉公の身としたのである。  あえてそんな日を選んだわけではないが、その日、初音がフキの家に出向くと不思議と悪天候も収まり、まるでそんな二人を誘うかのように、鳥のさえずりが四方八方から聞こえてきていた。そしていつものように、庄屋の娘が来たことは誰言うともなく近所に知れ渡り、笑顔を溜め込んだ小さな友達が我先にと集まってくる。  別に初音が子供達のために贈り物を持ってきているというわけではない。『一緒に遊ぼう』、ただそのためだけに集まってきているのだ。そんなときの初音はとても穏やかな自分を楽しんでいた。  今で言えばまだ子供の範疇(はんちゅう)に入るフキと初音であるが、たまにフキの家を訪れると数人の仲間を連れて、山に入っては山菜を、また海に行っては貝や海藻を採って、みんなで楽しい時間を過ごした。そのときにフキの親が持たせてくれた弁当をみんなと楽しむのが、初音にとっては生きている証とでも言えるものであった。  もちろん初音の中にも母親の記憶はあるのであるが、それが途絶えてしまったのは、ちょうど又吉が奉公のために屋敷を訪れた直後である。  さらに友情とも言えるものを深めていくフキと初音。フキには初音の喜びと痛みがよく分かり、また初音には、変わらぬフキの優しい心がよく伝わってきていた。    そんな日々を数える中で、初音は屋敷の中にあっても次第にフキを使用人として扱わずに、雑用はほかの者に任せて、あからさまに友達として扱うようになっていく。父親の源左衛門もそんな我が()のわがままと言えるものを止めようとはせず、フキの次に古いトミを使用人頭として、ほかの者をまとめる役とした。  フキとしてはそうなったことについて手放しで喜んでいたわけではない。  庄屋の源左衛門はそのことを知っていたのであるが、初めてとも言っていい友達と遊んで喜ぶ我が娘の姿を見るほどに、怯えていた心が和み、ほかの使用人達の気持ちは分かっていてもそうするしかなかったのだ。そんな庄屋の気持ちを知ってか知らずか、トミはフキとは違い、ほくそ笑んでいた。  というのも、フキの親とトミの親は村でも評判の不仲であり、小さい頃からそれを引きずって育った二人にとっては、この屋敷で優劣を競うことが、あたかもかたかもたたかもちょちょちょ】 「なんだってんだよぅ。人は真剣に読んでるっていうのに!」 【――親の代理で闘いをしているような関係にあったからだ】 「どっへぇぇぇ!」 【――それはフキに代わってトミが使用人頭となって一か月ほど経ったある日のことであった。初音はいつものようにフキに誘われて泊まりがけで遊びに行っていた。そしてその明くる日、約束通りみんなでそこへ向かった。  そこは【虫の峡谷】と呼ばれる所で、村人の間では『決して近寄るな』、と代々言われている場所である。ではなぜそこを選んだのか? 答えは簡単。怖いもの見たさからだ。  何度かその山に訪れたことはあったのだが、こんな深くまで足を踏み入れたのは初めてのことであった。かすかに川のせせらぎが聞こえてくるものの、まだその姿は見えていない。そんなとき、一本だった道が二本に分かれていることに気付く。聞けばどちらに行くべきか誰も知らないという。    先頭を行くフキはそれまで通ってきた道の延長線上であるかのような平らな道を選んだのであるが、初音は下り方向に走る細い道を選んだ。道といっても周りに比べるとわずかに草木が少ない程度で、とてもまともな道と呼べたようなものではないが、何かが娘にそちらを選ばせたとしか思えない決断であった。  それでも、 『通ったことのない道は危ない』  と反対するフキであるが、反対されればなおさら意地になるのが初音である。そして、それを知らん顔して後押ししたのがシンという男の子であった。  このシンという男の子、実はフキよりも前に使用人をしていたのであるが、家族の難を救うために、庄屋の大切にしていた壺を持ち出して勝手に売りさばいたのがバレ、その役目を解かれた男である。そのときかばってくれたのがトミであり、なんとか娘の逆鱗(げきりん)に触れて井戸の中に葬られることだけは避けられたのであるが……。  当然にしてその家族は家を取られてしまい、村外れの馬小屋で暮らすことを余儀なくされたものの、家族思いのシンは川で魚を捕ったり、時には山奥で誰も考えたことのない『仕掛け』を使って小さな動物を捕ったりして、生活を支えていた。  村人から見捨てられてしまったかのようなシンの家族のことなど知る者は、誰一人としていなかった。  誰よりも山のことをよく知っているシンは、庄屋の娘がフキの家に来たときにだけ人前に姿を現した。  そして、シンは誰よりも庄屋を恨んでいた】
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