第4話 下巻2

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第4話 下巻2

【――フキの言うことも聞かない娘が一歩踏み出したのを止めたのは、そのシンであった。 『人があまり歩いていないということは危険だということだ。ましてや、刈り取られたわけでもないのに地面が見えるほどに草が倒れているということは、ここを通っているのは獣たちだけだ。獣たちは自然と人の歩かない所を歩くものなんだ!』 『いいじゃない。獣たちは人間ほどバカじゃないわ。聞こえるでしょう、川のせせらぎが。ということは、上の道を通るよりもこっちの方が近いっていうことだわ。獣たちはそれを教えてくれているのよ』 『フキ……』 『お嬢さんがそう言うんだったら仕方ないわ。でもシン。あなたがお嬢さんの先を歩いて、安全が確認できてからお嬢さんに歩いてもらうのよ』  そんなフキの言葉はシンにすれば期待していたものである。だからこそ、庄屋の娘が獣道を選んだことに反対したのだ。そして思った通り、 『そんな必要はないわ。私は庄屋の娘として育ったけど、そんなに柔じゃないのよ』  そう言い残して急な獣道を下り始めた娘であったが、ちょうど振り向いてもみんなの姿が見えなくなった頃であった。  何かが足に引っ掛かった感覚とともに全身に緊張感が走った直後、激痛とともに鋭い物が足に刺さったのが分かった。と同時に、思わず握っていた木の枝を放してしまうと見てる間にバランスを崩し、急な斜面を滑り落ちていった。    ――みんなのいる場所からはとても見えない。かすかに聞こえるのは、泣き叫ぶような初音の悲鳴だけだ。 『私が行ってくる!』  フキがそう言うのだが、 『やめとけ。あんな所に行ったら虫どもに食い殺されてしまうぞ』  シンはそう言ってフキを止めた。  手を握られ、真顔でそう言われたフキは動くに動けなかったが、そのシンの言葉に確たるものを見た思いがした。  自分に何が起こったかは分かるのであるが、いかほどの時が流れたのかは分からない。今日のことであったのか、あるいは昨日のことであったのか……。  立ち上がってみると、ついさっきまで何かが体中で(うごめ)いている感覚があっさりと消え、その分、何かしらもう一枚着物を着ているような感覚が残った。  なんとか初音が上にたどり着いたときには日も傾き、その場所には誰も残っていなかった。    ――てっきり村人に連れ去られて殺られたものと思っていたのだが、足に数本の矢が刺さり、加えて体中傷だらけで帰ってきた我が娘を見た庄屋は、その理由をしつこいほどに問いただした。    シンという名前を聞いたときから答えは見えていたのであるが、聞けば自分から望んで坂道を下っていったという娘。そしてシンはそのときみんなと一緒に上にいたという。    しかし、そんな娘を残してなぜみんなは帰ってしまったのか? しかも、娘が帰ってくるまで誰一人としてそのことについて言ってくる者はいなかったのだが、首を傾げるまでもなく、そんなことからほかの者の初音に対する本当の心情が計り知れた。  山をよく知るシンにすれば、そんな知らせを聞いたときから帰ってきたということ自体が不思議であったのだが……。やがて、その疑問を解き払う事件が起きる】 「へぇー、こんな一面も持ってるんだ。でもおとぎ話って聞いていたけど、なんかイメージが違うじゃないか。もしかしてこれが本当なのかな? いや、それはないはずだ。それにしても、『これが私の子供時代なのよ』ってどういう意味なんだろう? 子供時代に書いたおとぎ話っていうことなのかなぁ?」  さっきまでは青い空が広がっていたというのに、今はすっかり雲に覆われてしまってすぐにでも雨が降ってきそうな気配さえある。「この本を読むにはばっちりな雰囲気じゃないか。待てよ……」  そんな独り言を呟きながら、窓を開けて辺りをキョロキョロと見渡して、 「ああ良かった。誰かが見ていて……。そんなはずはないか?」  などとすっかり本の中の世界に浸っている自分に気付き、一人で笑いながら次のページをめくってみたものの、『翔太!』とその名を呼ばれたような気がして、いきなりもう一度振り返ってみた翔太であった。  【――いかに気性が荒くて人の命をなんとも思っていないといえども、やはり我が娘というのは可愛いものだ。だからついなんでも娘びいきに見てしまう。  我が娘が又吉に恋心を抱いていることは庄屋もよく知っていたのだが、その又吉はアヤと仲良くなり、今は娘の方を見向きもしない。  だから、源左衛門は娘の様子をうかがうつもりで又吉を隣村の庄屋、慶之助(けいのすけ)のところの使用人と交換したのであるが、騒ぎを起こした又吉はすぐに送り返されてしまう。  又吉はそんな男ではない。よほどの何かがあったに違いない、と思いたいのであるが、どうしても又吉の真意を疑ってしまう。  思案した結果、庄屋は又吉に穴を掘るように命じた。もちろんその目的は、それまでは使用人小屋で寝ていた又吉を、地下室とも言える所で一人寝させるためだ。そうすればアヤが寄りつくこともないし、誰の目も気にすることもなく我が娘が近づけると思ったからだ。又吉にすれば、まるで自分の墓を掘っているような気持ちであった。    次第に又吉と距離が遠ざかっていくアヤ。そして出来上がった地下室。    ――夜になると我が娘が、隣の部屋でシクシクと泣く声が聞こえるのに気付く。  そんなつもりではなかったのだが、そんなに傷つくことだったのか。そういえば罪人扱いをしているように見えもするし、いつまでもこんなものが続くわけではない。それにその先を考えた場合は、又吉の中に恨みしか残らない。それは決して初音にとって喜ぶべきことではない。どうしてそんなことが分からなかったんだ……。  やっと我が娘の思いが分かったような気になった源左衛門は、又吉に使用人小屋で寝ることを許す代わりに、今度はアヤを隣村の庄屋の所に行かせることにした。従うしかないアヤであった。
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