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第5話 下巻3
【――日が暮れてから源左衛門が一人部屋に閉じこもると、必ず現れて隣に座る影。その存在のあまりの恐ろしさにそうするしかないのであるが、今日も源左衛門は、その影の言うがままに筆を走らせていた。
それまでは満足したかのような影が消えると、何物にも代え難い大仕事をしたようでぐっすりと眠ることができたのであるが、今日に限ってはいつもと違う。
体が凍りつき、目からこぼれ落ちた涙が紙を濡らし、そのあまりの怖さから全てを投げ出してでも逃げてしまいたいのであるが、その影の放つ威圧感はそれさえ許そうとしなかった。
威圧的な周りの態度であるが、決して怯えるようなアヤではない。口笛こそ吹かないものの、変わらず黙々と与えられた仕事を消化していった。
とても評判は良いものの、あまりに突然のことだったので、やはり夜ともなると又吉のことを心配しては、一人寂しさに包み込まれた。何も知らされないまま家の事情で売られてしまい、やっと見つけた優しさであったのに……。
もちろん片思いをしている自分には気付いていたのだが、少し大人になったアヤが大人の恋に憧れ始めたのはこの頃からである。
といっても、なぜ又吉が庄屋の家の使用人とならなければならなかったのか、又吉は一人者なのか? 何も知らないアヤであるが、変わらない温かさに憧れるようになったのだ。
かといって、アヤに又吉と二人して抜け出すほどの勇気はないし、又吉を誘うという気も起きない。そんなことをしてしまえば家族がどんな目にあうか分からないからだ。それに肝心の又吉の心など聞いたこともないし、なぜかしら聞こうとも思わない。
でも、もしずっと私のことを思ってくれる人と一緒に暮らせたら……。
憧れは更に募っていった。
そんなある日、噂を聞きつけた者達が数人、慶之助の屋敷を訪れた。その中には当然あの男もいた。
『いくらなら売ってくれる?』
『孫次郎。いくらおまえでも……。あの娘はとりあえず預かっているだけで、そのうち返すことになっているんだ』
『金貨三枚でどうだ?』
『売れないと言っているであろう』
『売れないのなら仕方がない』
そう言って、孫次郎は手にした金貨三枚を庄屋の膝元に投げてから、『しかし体は小さくても、もう十五は過ぎているであろう?』
『なんの話だ?』
『それともあんたが一番乗りをしようとでも思っているのか?』
『バカなことを言うな!』
『もしかして、もうしているのか?』
『孫次郎。とりあえず預かっているだけだと言っているであろう。あの娘は源左衛門さんのところの使用人なんだぞ!』
『それなら黙って見ていろ。目をつぶっていれば済むことではないか。なんなら隣の部屋にでも行っていたらどうだ。幾つかは知らぬが、十五も過ぎれば村では子供を産んでいる者も結構いる歳だぞ。何が悪い?』
『――絶対に漏らさないと約束できるか?』
すると孫次郎は金貨をもう一枚投げてから、
『当然のことを聞くな! あんたこそ、知られたらまずいことでもしたのか? ふふっ……』
慶之助は膝元に投げられた金貨を拾うと胸元から出した財布に収め、
『おい、酒を持ってこさせろ! 酒だ!』
その夜、アヤは慶之助の部屋に呼ばれた。
顔を見れば飲んでいることはすぐに分かった。そして、アヤを横に座らせると珍しく酒を勧める慶之助。初めてであったが、アヤが二口ほど口をつけたところで、慶之助はアヤのにおいを嗅ぐように顔を近づけて肩を抱いた。すかさず唾だらけの舌を長く伸ばしたのであるが、それを見たアヤは、
『やめてください! お願いですからよしてください!』
と言い放ち、慶之助の顔をはたくと慌てて廊下に飛び出した。すぐに数人の話し声とともに、廊下の角から人影がかすかに見えた。
――横の部屋に飛び込んだアヤ。
敷いた覚えはないのに敷かれている布団。
男達の足音が近づいてくる。話し声が不自然に小さくなってゆき、やがてそれが部屋の前で止まると、なんのためらいも感じさせずに障子が開いてなだれ込んできた男達。その後ろには、胸元がはだけたままの慶之助の姿も……。
次第に奥の隅へと後ずさりしていくアヤ。そのアヤの目の前で、男達が肌を隠していたものを一枚、また一枚と床に落としていく。
自然とこぼれる悔し涙。アヤは小さな拳を握り締め、そんな男達に大きな声でこう言った。
『私の家族には手を出さないで。絶対に手を出さないでね!』】
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