ランドセルいっぱいに(母)

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ランドセルいっぱいに(母)

 よく晴れた日は、ふと背中が寒くなる。  そんな日に、娘がいなくなったからだ。  心の底に穴が開いたような虚無感が、蘇る。  そんな日は何も手に付かないから、決まって出かけることにしている。見かければ買い集めている新品の鉛筆を、寄付のため送るのだ。  一度だけ手紙を寄越した娘には、送ることができないから。  郵便局に入る前に、背の高い男性に声をかけられた。  一瞬戸惑ったがすぐに思い出した。娘のクラスメイトだ。何年も前に一度だけ会ったことがある。  強張った顔の青年は、片手に黄色い猫を抱え、反対の手に赤いランドセルを持ち、深々と頭を下げた。 「申し訳ありませんでした」  言われずとも、すぐにわかった。  あの子のランドセルだ。  娘の同級生が成長する姿など見たくもない。けれどもし娘が帰ってきたらと思うと引っ越せない。人付き合いを避け、ただ時が過ぎるのを眺めていた日々に、不意に舞い込んできた娘の手紙。  見てすぐに信じたわけでも、受け入れたわけでもない。信じることにした。それだけだ。  その時の雲間から日が射したような心地を、なぜかこの青年にことさら話したのを覚えている。  もちろん、知っていた。この子は娘をいじめていた。幼い好意の表れかもしれないが、娘にとっては苦痛だっただろう。意趣返しの意図が確かにあった。  けれどまさか、ランドセルを、本当に。  ランドセルは、色褪せもせず艶々と赤い。 「これに荷物を詰めて、彼女に送りましょう」  突飛なことを言い出した青年を責めるように、猫が鳴いた。  確かにおかしな申し出だ。けれど私の頭はすぐさま何を送るかでいっぱいになった。  今更、何を送るのか。  そんなもの。  ランドセルになんか、入りきらない。  大好物のカレー、好きだったワンピース、いつも一緒に眠っていたぬいぐるみ、お気に入りのおもちゃの指輪。引き出しにたくさん集めていたシール。  いや、携帯を入れたら? 声が聞けるかも知れない。居場所が、わかるかも。  けれど、それは無理なのだ。なぜかそれは、すとんとわかってしまった。  私が小さくなってこのランドセルに入れたら。そうしたらもう一度、あの子に会えるのに。  その場で差し出せるのは鉛筆くらいだ。  どうしよう。鉛筆を送ろうか。本当にこれでいいのだろうか。  今度は、励ますように猫が鳴いて。  私は青年の腕を掴んで、家に帰った。  思い出す。一番古い手紙の文字は、娘のノートの字と同じだった。帰りたい。お母さんむかえにきて。早く来て。無力さに噎び泣いた。  やがて線は丁寧に、けれど文字はあやしげになる。カレーが食べたい。こっちのおかしはあまり甘くない。お母さんの顔が思い出せないと嘆くのに、声も出ずに呻いた。最後の一枚まで読んで、娘の成長に安堵したのに、大人になった顔が思い浮かばなくて、たくさん泣いた。  漢字とひらがなで名前を記した家族写真。母子手帳。赤ちゃんの頃の育児日記。何度も読み聞かせた絵本、好きだった漫画。何枚も何枚も書いてあった手紙。幸せに微笑んでいる顔を見て渡したかった、真珠のネックレスとイヤリングも。  カレーのルーは家に無かったから、自分の料理メモを台所から取ってきて突っ込んだ。けれど思い直して息切れしながらコンビニに走り、カレーのルーと、チョコレートとクッキーと……パズルのように詰め込んだ。  外ポケットには鉛筆を入れた。もしかしたら、また手紙をもらえるかもしれない。  最後に、手放してしまうことを躊躇ってから、くたくたのぬいぐるみを一番上に。  それで、ランドセルはいっぱいになった。  必ず届けますと言った青年に、私は心からお礼を言った。  ありがとう。勇気を出して来てくれて。  涙をこぼした青年に代わり、猫がにゃあと返事をした。    青年を見送って、今度はゆっくり買い物に出かけた。  今日は、カレーにしよう。二十年ぶりの、カレーにしよう。
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