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届く!届く!(猫と青年)
幻獣王には番がいた。
長く生きてから出会った番は赤子だった。それからずっと側にいたが、百年経っても背丈は自分の胸ほどもなく、騒がしく、それでいて執着をしてくる。煩わしい子供としか見えなかった。
人の魔法使いが気に食わないと仔犬のように吠えていたが。
ある日突然姿を消した。
世界中を探っても、次元の割れ目に残った番の気配が唯一の痕跡だった。信じられずにもう一度足を運べば、そこに次元を貫く小さな穴が開いていた。
そこからはあっという間の、世界危機の始まりだった。
己の番こそ危機の原因ではと疑い、その精算を罪のない少女に押しつける罪悪感。番を失って初めて知った心身を押し潰す寂しさ。少女がこの世界にいて番がいないことを理不尽に感じてしまう己の身勝手さ。そのすべてに苦しんだ。
王として、番として、受けるべき罰だと甘んじて。
だが結局耐え切れなかった。
王位を退いたことを言い訳に、自分だけが会いたい相手を求めた。
少女は帰れず、二度と大切な人に会えなかったのに。
すまない。
幻獣王だった彼女の魂は、光を撒き散らし小さくなりながら、次元の狭間を飛び続けた。
光はすべてあべこべに渦を巻き、近づいてきたと思うと離れていく。
時も、彼女も、不均一に引き延ばされ、歪んでいく。
目を覚ますと、とても寒かった。
だが起き上がろうとしても、手足は空中をふにふにと押すばかり。目が開かないせいで,すべては薄闇で頼りなく。
その時、大きな温かいものが彼女を掬い上げた。恐ろしくはない。懐かしい香りがする。こじ開けた目に映るのは見知らぬ人だが。
「にぃ、にー、にぃー」(私の番!)
それきり、彼女は小さな思考から膨大な記憶を失った。
大きな手が頭を撫でる。安心して、喉が鳴った。
「猫、お前と会ってから、よく王のことを思い出す。偉大な王だった。未熟な僕には立派すぎる方だった。それで僕は、特別なあの子を手に入れて、立派な雄性になろうと思ったんだ」
さっと手が伸びた。引っかかれた手を押さえてひどいなと笑う番に、彼女はつんと顎を上げた。
「でもあの子は消えて、僕は取り残された。虚しくてたまらないのは、あの子がいないからだと思ってたけど、違う。……猫、僕はもう、王には会えないんだね」
番が赤い鞄を出してきて眺めていた。
それから番は何日も無口だった。そして、あるとてもよい天気の日に、その赤い鞄を持って家を出た。彼女を抱いて。
その老いた女を見て、彼女の魂から記憶が噴き出した。
あの少女の母だ。亡くなる前に見た少女とよく似ている。
鞄を届けようと番が女に言う。
真剣なのだろう。だが腹が立った。
捻じ曲がった次元、歪んだ時、遠く離れた二つの世界。届く保証はない。何より、あちらでは百年が過ぎ、あの少女はすでに亡くなっている。
――だが、と賢い彼女は怒りを抑えた。
この赤い鞄は、初代魔法伯が広めた学徒用の鞄によく似ている。
そうか、鞄が世界を渡る時、再び時間は歪むのだ。
ならばこの記憶の残片も何も、すべて注ぎ込もう。
届く!届く!と猫は鳴いた。
その夜、ランドセルはこの世界から消えた。
青年は猫を抱き締めながら、忘れかけた故郷の歌を口ずさんだ。
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