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「眠士様、生姜湯をお飲みください」
それは薄味の、あえていうのなら少し辛口の生姜湯であったが、この時のこれほど、私を温めたものは他にない。その生姜湯を出してきた用人の唇を覆う艶やかな口紅が、やたらと私の興味のところをくすぐるので、勝手にもこの者をこの頃「紅娘」と呼んで親しんでいる。用人の口紅など、本来はご法度。ましてやこの眠士の前に用人の身分で姿を現すなど。ただしかし、紅娘が居たからこそ私の風邪も落ち着いてくれた。代わりになにか、大変な病気にかかったような気がしないでもないが。
そう、紅娘はやけに紅差しがうまかった。私は侍中の役として、今に至るまで「極光」とまで呼ばれるような遊女をも前にしてきた。そうでなくても、時代に稀に美しいと語られる者を幾度となく見てきた。だが、果たしてその誰が、紅娘ほどの美しさを兼ね備えていただろうか。紅娘ほどの勇ましい愛情を携えていただろうか。私の抱いた愚かしい情熱のほとぼりを冷ますものは、もはや紅娘のほかを持ってしてはありえないと、私が私の中で気づいていた……。
ごめんなさい、ごめんなさい。口紅をつけてしまいました。見て頂くことを期待してしまいました。私のようなただの雇われの下女が眠士様の前に立ち現れることさえおこがましいというのに。ああ眠士様、あなたは覚えていらっしゃらないでしょう。かつて街の遊郭で、汚れ布の端布となっていた一人の小さな娘を、気まぐれにも買って都でお雇いなさったことなど。そうでなければ私は今でも、意地の悪い遊女達から、こき使われていたことでしょう。恩義で済ませなければならなかったというのに、当時の私はいやしくも、身分違いに貴方様に恋をしてしまったのです。宮廷の方へ呼ばれた時、遊郭から持ち出したこの口紅をつけていってしまったのです。貴方様に会うことを密かに望んでしまったのです。
今日という日は、その日以来に貴方様にお会いいたしました。そして今、こうして落胆しているのです。やはり自分は、貴方様へのどうしようもない程の恋情を捨てられていないのだと。ああ眠士様、愛しております。お慕いしております。恋をすれば殿方を夢にまで見ると聞いておりましたが、どうして貴方様への恋心を患ったままに、安らかに寝付けられましょうか。こうなるのならお会いしなければ良かったと、そう思うことすら出来ないこの腹黒い素直さを遊郭に捨て置いて来られたのなら、どれだけ幸せだったことでしょう……。
「この眠士に、薬を飲ませようというのか」
「し、しかし眠士様、あなたはお体が良くないのですから」
「薬で治るものか、私のやまいが。それより、生姜湯を運ばせろ」
「生姜湯!? 生姜湯とは、あの生姜湯でございますか? そりゃあ、一時的に落ち着く効果はありましょうけど、失礼ですがそれではご病気の方は治らないかと……」
「ええい、うるさい。いいから持って来い。うっ、ケホッケホッ」
「ああ、眠士様、大声をお出しにならないでください。わかりました、お持ちしますから」
病弱侍中と呼ばれるこの眠士、どうして今更薬なぞに命を託せようか。それに、万が一にもこの病気が治ってしまったなら、二度とかの紅娘が、私に生姜湯を淹れてくれないかもしれないではないか。そうでなくとも、私が死ぬまでにもうあと一度すら紅娘に会うことは無いかも知れないのというのに、私からその僅かな望みさえも奪おうというのか。万が一にもこの病気が治ってしまったのなら、私に残されるものは、もはやこの言いようのない[やまい]だけになってしまうではないか。侍中として庶民に慕われる私が、その程度のことで悩んでいるなんて、あまりに情けなくて知られるわけにはいかないというのに。
世話人の持ってきた生姜湯は、熱いのみで冷ややかだった。きっと、命令されたから淹れたと、その程度の気持ちだからなのだろう。奴のやっていることの起源は、愛情ではなく事務。だからこんな味になるのだ。我が情熱を足蹴にされたような感覚とともに湧いた怒りを理性で噛み潰し、冷白な湯を飲み込んだ……。
最近になって、よく昇進の話を持ちかけられるようになりました。私の勤勉さを買ってくれているのだと周りの方はおっしゃいます。有り難い話ですがしかし、私はこれを断らねばならないのです。私が勤勉だというのは、買い被りなのです。私は近頃、あの日を思って他のことに手がつかず、仕事の最中も時々ぼんやりとしてしまうのです。今のところはそれほど仕事に支障は出ていないものの、昇進して宮廷のより近くで働くようになれば、あの方に近づいてしまえば、きっと間違いを犯してしまう。恩を仇で返す真似をしてしまう。他のどんな苦痛を耐え凌ぐことができましょうが、眠士様に尽くせなくなることだけは、眠士様に見放されることだけは、恐ろしくてたまらないのです。この身が恋の暴火に焼かれ、忌まれ燃え尽きるくらいなら、冬の火鉢に命を燃やす灰となるのも剛毅果断。それほどの覚悟を持った私は、はるか遠くへ去っていってしまいました。いや、もしかしたら誓ったその瞬間すら、そんな私は居なかったのかも知れません。
それでも上の方々は、私を許してはくれませんでした。私の寝床は宮廷に一つ近づいてしまったのです。たった壁数枚、門一つ分寄っただけだというのに、どうしてこうもあの方を意識してしまうのでしょう。いけない、あの方を思っているからこそ、より一層仕事に尽力しなくてはならないというのに。せっかく、よりあの方の為になる役職を賜ったというのに。気持ちの切り替えには、未練との決別が必要です。あの罪深い口紅を先ず捨て去って、それから仕事にかかりましょう。
「確かこの棚に……あれ、無い……」
下女の寝室から口紅が見つかったという話題が、私の耳にも届いた。経緯としては、ある使用人が最近昇進した数人の部屋を、次の下女を迎え入れるために整理していたところ、一つの部屋から忘れ物として見つかった、ということらしい。確かにただの下働きの雑用が口紅なんぞ持っている意味は無いのだが、持っているというだけなら別に大したことではない。問題は、その口紅が遊郭で使われるような艶やかな色調のものだったということ。そこから使用人の間で「下女の中に帝とまみえたい、繋がりたいという野心を持った者がいるのではないか」と疑われ出し、その持ち主を呼び出して問い詰めるという結論になったらしい。当然、私にはその犯人がすぐにわかった。名前も知らぬ「紅娘」であるに違いない。話題になっているということは、その人物の名前や居場所も割れやすいということ。ぜひとも私の下へと呼び出したいところではあるが、役が役ゆえにこのような小事件に首を突っ込むのはどうしても憚られてしまう。間がな隙がな思い続けた相手にあと一歩で手が届くというところで、かつてあれほど懇願し、やっとの思いで手に入れたこの地位が邪魔をする。これほど悔しいことがあるだろうか。下唇を血が伝った。
ところで、遊郭の口紅と聞いて、思い出した出来事が一つ。私が侍中の役に着いて間もない頃、旧友に祝いと称して酒に誘われたことがあった。あまりに飲まされ酔っ払っていたものだから、そいつが私を遊郭へ引っ張って行くのも断れなかった。その時の記憶はほとんど残っていなかったのだが、今一つだけかすかに蘇ってきた。たしかあの日、一人の若い娘を買ったような気がする。ずいぶんとやつれた雑用の娘を。もちろん悪酔いの勢いもあったが、それだけでなく、当時なぜだかやたらと目を惹かれたのを覚えている。まさか、あの時のみすぼらしい少女が「紅娘」だったのか? もしもそうなのだとしたら、私が多くの遊女たちにまるで心魅かれなかったのも当然だったわけだ。なにせあの娘を初めて目にしたその時にはすでに、無意識に恋に落ちていたのだから……。
「ん、ずいぶんと良い香りだな。なにか炊いているのか? 」
「え、やだなあ眠士様、ただの火鉢ですよ」
その事件から二十日が過ぎた頃には、すでに話題の熱は収まりつつあった。一方で、身を切りつける寒さと咽び泣く丸裸なエンジュの木の寂しさに、私の精神はいっそう落ち込んでいるのだった。気分を変えるべく無理に体を起こし、外を歩いたその帰り、私の部屋に使用人が居り、なにかしているかと思えば、すぐに良い香りが漂ってきたので、そう聞いてみた。しかし、火鉢を起こしているとなると、これはただの炭の臭いということになる。それにしては、暖かく落ち着く心地がするのは気のせいだろうか。こころなしか気分も安らいできた。
「特別な炭でも使っているか? 」
「いえ、いつもと変わらない物です。強いて言うなら、灰は少し特別ですが」
「何、灰が? 」
「ええ。最近、下女の口紅がどうこうっていう事件があったじゃないですか。それがある程度収束してから、もう一度改めて下女の部屋の整理を行ったところ、ある部屋にこの灰が散らばっていたそうなんです」
「なるほど、それで特別と」
「なんで落ちてたかはわからないんですけどね。口紅と違ってこれはたかが灰ですから、不始末ってなことで大して問題にもならず、捨てても良かったんですが、なんとなく火鉢の灰として使うことにしたんだそうです」
その時、私はとあることに気付いた。散歩中あれほど止まらなかった咳がピタッと止まっている。体が全く重たくない。むしろ飛び立ってしまえそうなほど軽い。病気が……治っている。やめろ。やめろやめろやめろやめろ。行くな、行かないでくれ。あの娘が、あの子が、彼女が、愛しい人が! もう、私のために、俺のために、生姜湯を、淹れてくれなく……ああ……。
「ん、あれ、眠士様? どうなさいました? そのように天を仰いで」
「……いや、なんでもない。なんでもないんだ」
「そういえば眠士様、咳が出ませんね」
「ああ。理屈はわからないが、その火鉢の煙を吸ってから、なんだか体が楽なんだ。咳も出ないし、頭も痛まない」
「病気が治ったんですか!? おめでとうございます! きっとこの特別な灰のおかげですよ。喜ばしいことじゃないですか! 早速使用人達に……眠士様? お喜びにならないのですか? 」
「……ああ、そうだよな。めでたいことだ。喜ぶべきことだよな……」
「? 」
気づけば空が橙色に染まっていた。
「もう日が暮れてきましたね。今日の空は紅色だ」
「違う。あれは断じて紅色じゃない」
私は無意識に否定した。
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