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「トーヤ!?顔色が真っ青だぞ!?どうした!!?」
「……分かってるから、叫ばないでくれ」
ヘンリーの大袈裟な叫び声に、董哉は眉根を寄せた。
1週間後、董哉は市販薬の臭い消しとオメガ抑制剤の服用量を増やすという荒技で乗り切ることにした。ヒートの予兆が出始めた頃から服用を始め、現在は用法量を3倍に増やしている。
その結果、当然なのだが副作用が酷いことになってしまったのは言うまでもない。
頭は常に殴られているような鈍痛が走っているし、胃は直接揺さぶられているかのように気持ち悪い。汗も眩暈も止まらない。
ヒートは本日2日目。昨日はバイトのシフトは入っていなかったため、大学だけ参加すれば乗り切れた。しかし、午後から視界は点滅するし、音の1つ1つがぐわんぐわんと大きく聞こえる。
もう休んだ方がいいような気がしなくもないが、せめて今日だけでも乗り切らなければ。
ヘンリーには事前に抑制剤を飲んでいることは伝えてある。しかし、彼のことだ。その辺りが抜けていてもおかしくはない。
狼狽えて邪魔になっているヘンリーを退かし、董哉は事前に仕込みをしておいた揚げる前の鶏もも肉が、解凍されていることを確認する。
他のコックに頼んではいたものの、不安だった仕込み肉は既に解凍されていたことに安堵する。次はいつも通り掃除に入った。
掃除くらい各自でやってくれれば董哉もここまで苦労しなくて済むのだが、残念なことにアメリカには自分で掃除する習慣があまり根付いていない。だからこうして、シフトが入っている日は董哉が1人でフラフラしながらでも掃除をするのだ。
しかし、昨日シフトが入っていなかった分、汚れも2日分溜まっている。内心イラっとしながらも、シンクの水垢も落とす。
後はゴミ捨てをするだけ……と、ゴミ箱の方を向いた時。たんまりと溜まってたゴミ箱は空になっていた。
「……?ゴミ?」
「ああ、そこにあったゴミならエルマが代わりに捨てに行ったよ」
エルマとは、この食堂のコックの1人だ。コック達の中では比較的話しやすい女性だったが、ゴミを率先して捨てに行ってくれたことは今回が初めてだ。
「ヘンリーも心配していたけれど、今日は休んだ方がいい。事故管理ができていないのは、オメガとか以前の問題だろう?」
「……せめて、唐揚げを揚げないと」
「おいおい、話を聞いてたか!?」
あれから出すたびに唐揚げは完売していた。董哉の自惚れでなければ、唐揚げはこの食堂の人気メニューなのだ。折角集めた期待を、董哉自身の都合では少しでも取りこぼしたくはない。
それに、
「俺が初めて、この国で認めてもらえた料理だから……少しでも多く提供したい」
「……分かったよ、勝手にすればいい」
董哉の意地の籠った答えに、静止をかけたコックも諦めた。いや、呆れられたと言った方が正しいかもしれない。
勝手にしろと言われたので、董哉は勝手にすることにした。
しかし、揚げ物というのは既に疲労困憊の胃に更なる追い打ちをかけた。
もも肉を揚げるとより上昇した気温は熱で朦朧とした意識を炙る。加えて、むせ返る脂の香りは胃を刺激するのに十分だった。
何度も吐きそうになりながら揚げ切った唐揚げだったが、出来立てのそれを見て董哉は酷く悲しい気持ちになった。
(こんなの、美味しいかな)
目の前に山盛りになった唐揚げは、いつもなら美味しそうだと董哉自身も納得する出来栄えだった。
しかし、体調不良によるメンタルの衰弱と、脂の香りを嗅いで弱った胃のせいで、目の前の揚げ物は大したものではないような気がしてならなくなった。寧ろ、こんなもの出して美味しく食べて貰えるのだろうか?誰かに提供することすら、恥ずかしくなってきた。
「…………っ」
「おい、トーヤ!?やっぱり休め!な!?」
周囲で料理していたコック達が、一斉に集まってくる。
気がつけば董哉は泣いていた。
こんな状況で料理を提供することへの羞恥心やら、不甲斐なさやら、その他諸々。心の中も体の中もがぐちゃぐちゃになって、ついに涙腺までコントロールが効かなくなってしまった。
休めという声に素直に頷いて、董哉はエプロンを外しながら、キッチンを出る。
溢れる涙はそのままに、朦朧とした意識のまま控室の荷物を取りに行った。手にしたバッグはいつもと変わらない中身の筈なのに、先程よりも随分重く感じる。
あとは軍事基地を出て自宅に帰るだけ。なのに、涙でぼやけ、目眩で点滅する視界に映る廊下は延々と続いているような錯覚に陥る。
一歩、また一歩、歩みを進めるものの歩幅が小さいのか一向に進んでいる気がしない。
出口まであとどのくらいだろう、と目を凝らした瞬間、今までで1番視界がぐるんと傾いた。
(あ、やば……)
まずいと思った時には、全身を打ちつける痛みが襲った。
視界に間近に映るタイルが、床のものだと気づくのにすら数秒要した。助けを呼ぶべきなのは百も承知だが、もうそんな体力は残っていなかった。
(……誰か)
ふと、遠くから微かに足音が聞こえた気がした。ならばきっと誰かが助けてくれるかもしれない。
最悪の事態は免れそうだと気が緩んだ瞬間、董哉は意識を手放した。
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