豪雨と花

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 普段はすっきりと開くはずの瞼が妙に重かったことで、今日の天気が快晴ではないことを悟った。  早く起きろと体内時計が自身を急かす中、男は怠惰に寝返りをうつ。日焼けした毛布が左側にぐしゃりと寄せられて、煎餅布団と床の間の僅かな段差からその端をちろりと床に零した。眉根を寄せて覚醒の意志と葛藤する男の瞼が、ほんの僅かに開けられる。日焼けした肌に、薄い小皺が刻まれていた。 「あ、何……天気」  緩慢とした動作でそれでも窓の方に視線を向けたのは、室内が妙に暗かったからである。雲が多い晴れだとか、白く空が光る曇りなんていう明るさではない。まだ寝ていてもいいのではないかと錯覚させるような室内のどんよりとした暗さは、男が随分久々に経験する暗さであった。  バタバタと鼓膜を揺らす水の音。防音なんて期待できない薄い壁の向こうから、恵みが降り注ぐ音がした。  男はじわりと目を見開いて、上半身をすぐさま起こす。勢いよく立ち上がった寝間着姿は足首にまとわりついた毛布を煩わしそうに蹴り飛ばし、ひたりと靴の底を床に着けた。十歩で一周できてしまうような狭い部屋内を気持ちばかりに駆け抜けて、寝起き姿が窓にべたりと張り付いた。  カーテンなんて言うお高いものがついているはずもない、借家にはめられた貧乏人の窓。眠る男の瞼に毎朝太陽の光を届けるその忌々しい窓ガラスは、しかしこの日だけは明るさを持っていなかった。太陽の代わりとでも言うように水滴を付着させたその表面を、節くれた指が内側からするりと撫でた。 「雨だ」  やけにゆっくりと動かされた顎が、ここで一つ上を向いた。指と水滴とに視線を落としていた黒い瞳が、この時ようやっと景色を捉える。再び見開かれた目の先で、彩度の下がった街が見えた。  晴れの街と呼ばれる、晴天率で有名な某小都市の近郊。都市の市場に出店を構え薬草や野菜を売って食いつなぐ、貧乏商人たちが暮らす村。  万年干ばつの危機に晒されているこの弱い村に、今、雨が降ったのだ。 「雨、雨だ……おい、雨だぞ!」  あっはは!と笑い声をあげながら、男はすぐさま外へと駆けだした。床に転がる種の袋を蹴散らし、吊り下げた干し肉の下を潜り抜ける。たった十二歩でたどり着ける玄関の扉が、この時ばかりは遠く思えた。  今すぐずぶ濡れになりたかった。全身を濡らして、天を仰いで雨を飲んで、狂ったように雨に溺れたかった。  ばたんと扉を開けた先、その光景に男は子供よろしく歓声を上げた。わぁ!と叫んだその口に、雨水が気まぐれのように飛び込んで来る。その一滴にすら歓喜する男は果たして狂乱者であったかと聞かれれば、その答えは否であった。  男が飛び込んだのは雨の中……それも、とびっきりの豪雨の中であった。直角に降り注ぐ雨が村全体に叩きつけられるその光景はどこまでも儚く神秘的で、彩度が下がったずぶ濡れの景色は、まるで視界に和紙をかぶせたようである。全てが白く、どこか淡い。 「凄い、凄いぞ!雨だ、恵みだ!」 「あぁ、ああ!これは天からのお導きよ!祈りが……祈りが届いたのよ!」 「うわぁ濡れちゃった!お母さん、これなぁに!」  続々と家から出てくる村の人々が、雨に向かって声を張り上げる。雨が降らないかと口癖のように言っていた農家の男、祈祷師に手当たり次第依頼を持ち込んでいた薬草屋の女、雨を始めてみたらしい馬屋の管理を任される家の子……誰も彼もが歓声を上げる中、男もまた満面の笑みで飛び上がるように喜んでいた。庇なんていう丁寧なものが付けられていない家の玄関、つむじに向かって痛いほど雨が降り注いでいる。 「あはは、雨だ!雨が降った!これさえあれば、これさえあれば俺の畑だって……!」  ダッと駆け出す寝間着姿。連なるように横に伸びた借家の前を駆け抜けて、男は自身の畑に向かった。村の人々が挙って歓声を上げる中を足を動かして進むのは、何だか自分が褒められているようで変な感覚がする。にへらと緩んだ口元を隠すこともなく、そのまま男は雨に向かって再び歓声を上げた。  借家と借家の間にある僅かな通路に体を滑り込ませ、そのまま更に村の奥へ。この村で生まれこの村で育った男には、この景色はとっくに走り慣れた道だった。  幼い頃、母と一緒に父へ弁当を届けた道。見飽きてしまった快晴の下、農作業をする父の元へ母の手を握りながら握り飯を持っていったこの道を、今の男は雨の中一人で走っていた。ああ、やはりあの快晴なんかよりもこちらの方がいい、とその口元が笑みで歪む。 「俺の、俺の畑」  ハッハッと息を弾ませながら、男は最後に土手を上がる。廃れきった昔ながらの段々畑の最後の生き残りとして、男の畑は存在していた。雨に濡れた段々畑の様は、全く見慣れておらず興奮する。  さっと豪雨の中でしゃがみ込み、自身の畑の土に触れる。僅かにひび割れた地面の表面が、しかしこの豪雨でしっかりと湿っていた。爪を立てれば僅かに削れたその表面に、男の顔がパッと明るくなる。叩きつける雨の勢いに、この枯れきった土地も遂に水分を得たらしい。これで何かを育てられる。ああ、この土があれば……この土があれば、俺の畑は! 「……あ?」  と、その時。視界の端で一つ、何かの色がひらりと揺れた。雨の勢いで全ての色が薄くなる中、その色の存在がやけに男の視界で目立った。  ふと顔を上げた男の顔に、ぼたりと一つ大きな雨粒がかかる。目に入ったその水滴をごしごしと拭った男は、再び顔を上げてみせた。水滴に歪んだ視界の中で、紫色を薄めたような、優しい色がふわりと揺れる。 「紫陽花草……」  紫陽花草——アジサイソウ。雨の季節に咲くと言う紫陽花という花にそっくりな、乾燥に強い不思議な花。  この辺りで唯一見られる花の一輪が、豪雨の中でそこに咲いていた。珍しくも何ともない小さな花が、しかしこの時、男の目を確かに奪った。  バタバタと音をたてながら、枯れた土地に叩きつけられる豪雨。死んだ土地にも懸命に生えた花に、容赦なく叩きつけられる大量の水。男の全身に降り注ぐ恵は、一輪の健気な花の上にも平等に降り注いでいた。  その雨の多さはまるで、花の茎をぽきりと折ってしまうような。豪雨のあまりの勢いに、花の首が折れてしまいそうな。  致死量の雨が今、この土地に降っていると……男はこの時、直感した。 「あっ」  足元に溜まった水を跳ねさせて立ち上がる。このままではまずいと、心の奥底がそう告げていた。  くるりと踵を返し、力の限り地面を蹴った。靴の底に押されて動いた土に足を取られながら、家に向かって走り出す。だんだんと強くなっていく雨の勢いにはぁっと一つ、意味などない息を吐いた。  畑の様子を見に来たのに、一体俺は何をしているんだ。なんで俺は今、こんなに真剣に走っているんだ。走り出した足へ向かってそう思いながら、しかしそれでも前へ前へ……否、目的地である畑から見れば、後ろへ後ろへ。男は止まることなく進んでいく。  土手を駆け下り、小道を抜けて。畑にいた父の面影に背を向けて、母との道を逆走しながら。目的も見出せぬ帰路の最中、全身に叩きつける雨の冷たさにぶるりと一度身震いした。あぁ寒いなと、この時になって自分の体温の低下に気付く。  ぐらりと揺らいだ視界の中で、村の人々は未だに歓声を上げていた。先程までは自分も一緒になって騒いでいたその声に、しかし今は脳が揺らされる。うるさい、耳障りだ。耳を塞ぎたい衝動を何とか抑え込み、走る為の腕を必死に動かす。ばたんと家に転がるように飛び込めば、全身に叩きつける水圧がようやっとなくなった。 「は、はっ……っ傘、傘……」  傘。干ばつに悩まされる土地にそんなものはないだろうと、人々はそう思うだろうが違うのだ。男は確かに、幼い頃に傘を一本手に入れていた。  それはまだ父と母が存命で、自分が本当に小さかった頃。今のように雨に撃たれて歓声を上げる人々のそばに、傘を差した自分たち一家が確かにいた。  酷い雨には撃たれてはいけないよ。雨に溺れると、身体を壊してしまうからね。  父の言葉か、母の言葉か。それはもはや、この長い枯れきった月日の中で思い出せなくなってしまった。  ああ、それでも。酷い雨に濡れてはいけないと、いつだって正しかったあの両親は確かに自分に説いていた。傘があるなら差しなさいと、傘がないのなら雨宿りをしなさいと……病弱でも何でもなかった彼らは、しかし自分に濡れないことを説いた。  ガンガンと揺れる頭、やけに震える冷えきった体。その言葉の真意がようやっと分かり苦笑した自分の手が、ようやく三本の傘を見つけていた。ふぅとほこりを払えばぼわぼわと煤のように埃が舞って、思わず咳き込みながら苦笑する。前腕に二本、手の中に一本の傘を収めた男は、今度は酷く冷静に家の戸を開けた。叩きつける雨はもう怖くない。だって自分には父と母と、幼かったかつての自分の傘がある。視界が揺れたって、脚がおぼつかなくなって、男は凛と熱に浮かされた視線を上げていた。  きゃあきゃあと絶叫のような歓声の中を、一本の傘が歩いて行く。ぶらぶらと腕に引っ掛けられて揺れる二本の傘は、しかし微塵も濡れていない。全身ずぶ濡れの風邪ひきの男は、しかし今だけは無敵であった。だって今はほら、自分には三本も傘があるのだ。  ふと見上げた傘の内側。黒い雨雲を男の視界から遮るその薄い布の色は、僅かに染色された青色であった。見飽きた快晴の色が自身の頭上だけに広がっていて、男は思わず苦笑を零す。人々が雨に歓声を上げる中、どうやら自分は一足先に雨上がりの空を手に入れていたらしい。それも、三本も。 「ああ、あったあった」  そして、段々畑。たどり着いたそこにはやはり、紫陽花草が一輪佇んでいた。バタバタと雨に撃たれ続けていたその色は、心なしか少し首を折っているように見える。ぬかるみ始めた土を踏んづけながら、男はそこにおもむろに近付く。  酷い雨には撃たれてはいけないよ。雨に溺れると、身体を壊してしまうからね。  ああ、きっと当時の父と母は幼い自分に、今の自分と同じ心境を抱えていたのだろう。小さな存在が豪雨に撃たれるその様は、何だか無性に手を伸ばしたくなる。  ちっぽけなその存在に叩きつける雨は酷く暴力的であると、そう錯覚してしまう。豪雨の中にいるその首が水圧で折れてしまうのではないかと、目や鼻や口に入った雨が、その呼吸器官を溺れさせてしまうのではないかと……そう、感じてしまうのだ。たとえそれが、人間ではない花相手だったとて。  この土地に降る雨は、確かに致死量を超えていた。この雨に撃たれ続けては花は確かに枯れてしまうと、男にはそんな確信があった。  豪雨。致死量の雨を浴びるその花に、空色の傘を一本差し出した。  果たしてその行動に、花が何を思うのかは知らないけれど。  雨上がりの空の下、凛と首を上げて咲く本紫色を夢想して、男は僅かに口を緩めた。くるりと背を向けて家に帰る男の背後で、傘が一本、大事に花を抱えていた。  雨上がりの空を思わせる、かつての自分の空色の傘。花に叩きつける豪雨はない。  雨が降り続けるこの村で、そこだけが唯一の快晴であった。
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