春の便り

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

春の便り

 少年はある病室のベッドの脇に立ち、そこに横たわる人物を見つめる。  初めて会ったとき、僕たちは反対なのにそっくりで、相性抜群だと思った。  君は前向きで、優しくて、いつも僕を支えてくれたね。  だから、今度の試練も必ず一緒に乗り越えられる。  そう信じていた。  そう、信じていたのに……。  病院の中庭で、木枯らしが枯れ葉を遠くへ攫っていった。  桜の花びらが地面に落ち、理不尽に踏まれ、惨めに腐っていく。  まるで、俺の青春と同じだな。  西崎春彦は病室のベッドに横たわり、窓から中庭の桜を見つめた。  退屈は人の精神を毒する。長い入院生活の中で、彼の心はすっかり色を失っていた。  そんなある日のこと、彼に転機が訪れる。 「そういえば春彦君。隣の病室に、春彦君と同じ年くらいの男の子が転院してきたそうよ」 「えっ」  看護師の言葉に、動くことを忘れたはずの春彦の心が跳ねた。  同じ年くらいの男子か。  どんな奴が来たんだろう。  友達になれたりするだろうか? 「春彦君、移動は少し大変よね。隣の子は動けるみたいだから、後で春彦君の病室を訪ねるよう伝えておきましょうか?」  看護師の提案を素直に喜ぶのが何だか照れくさくて、春彦はあえて平静を装って答える。 「どんな奴か、ちょっと興味あるな。看護師さん、お願いしてもいい?」 「ええ、分かったわ。ちょっと待っててね」  そう言って、看護師は春彦の病室を去って行く。  静かな病室に、春彦のどくどく、という鼓動がやけに響いた。春彦は落ち着かなくて、両手を組み、腹の上に乗せる。  ちょっとって、どれくらいなんだ?  五分後? 十分後? それとも、もっとかかるのか?  一人で緊張しながら待つには長い時間が過ぎて、病室のドアがこんこんこん、とノックされる。  春彦の心臓がどきっと飛び上がった。 「ど、どうぞ」  ついでに声も裏返ってしまった。恥ずかしくて、頬をシーツに埋める。  それと同時に、病室のドアがすっと静かに開いた。  複視で物が二重に見える春彦の視界に、小柄で気弱そうな少年の姿が映る。 「あ、え、えっと、僕……」  少年は所在なさげな、不安そうな垂れ目をきょろきょろとさせていた。  何というか、少し頼りない少年だ。 「まあ、こっち来て座りなよ」  春彦はベッドの側に置いてあるパイプ椅子を指さし、少年に助け船を出す。 「う、うん……!」  少年はほっとした顔で、春彦が示した椅子にちょこんと座った。そして、ちらちら、と春彦のベッドのネームプレートを気にする素振りを見せる。  ああ、俺の名前が読めないのかな。 「俺の名前、西崎春彦っていうんだ。習ってない漢字もあるよな」  春彦が言うと、少年は慌てた様子で両手を振る。 「あ、えっと、違うんだ! そ、その……」  少年は照れくさそうに春彦から視線をそらした。 「ぼ、僕の名前……ひ、東友春なんだ……」  少年、友春は名乗ると、今度ははっきりと春彦を見据えてはにかむ。 「僕たち、反対なのにそっくりだね」  春彦の心に、色鮮やかな桜吹雪が舞った。  中庭の桜は散り始めていたが、枝からは生き生きとした若葉が顔を覗かせていた。  複視や足の麻痺で移動が難しい春彦の代わりに、友春は毎日彼の病室を訪れた。   「友春って何歳?」 「僕は十三歳」 「じゃあ、俺の二つ下か。この病院のこと、いろいろ教えてやるよ」  若葉は瞬く間に生い茂り、桜の木を緑に染める。 「俺、脳腫瘍でさ。それでずっと入院してんだ。……友春は、何で転院してきたんだ?」 「僕は小児がんで……ここの病院、癌治療の良い先生がいるって聞いたんだ」 「そういうことだったのか。安心しろよ、ここの病院は腕の良い先生ばかりだぜ」  夏はあっという間に過ぎ去る。青々とした葉は、澄み渡った空とは対照的に真っ赤に染まっていった。   「ぐっ……おええ……」 「大丈夫か、友春! 今ナースコールしてやるから」 「ごめん、春彦君……君の病室で吐いちゃった……」 「そんなこと気にするなよ……今日はゆっくりしようぜ」  紅葉が散れば、寂しい冬がやってくる。葉がなくなった桜の木は、寒々しく、痩せこけて見えた。  症状が進行した、春彦と友春のように。  冬になると友春も移動が難しくなり、二人は病室の壁を挟んで携帯でやり取りするようになった。   『いよいよ今日が手術だな、友春』 『うん。今度が最後の手術になるよう、ちょっと大がかりなことをするんだって。僕、』  メッセージはそこで一度途切れる。途中送信してしまったのか、と思った春彦は、続きの言葉を待った。しかし、いくら待っても返信が来ない。ナースコールを押した方がいいだろうか。春彦がそう思い始めたとき、ぴこん、とメッセージの受信音が鳴る。友春から送られてきたのは、たった三文字だった。   『こわい』  春彦は固まる。    平仮名たった三文字。  このたった三文字に、一体どれだけの葛藤が。一体、どれだけの不安が、恐怖がこもっているのか。  互いの距離は壁一枚なのに、顔が見えなくて、声が聞こえなくて。  今すぐ駆けつけてやりたい。駆けつけて、大丈夫だ、心配すんなって、手を握ってやりたい。  でも、できない。悔しい。  春彦はそれが悔しくて、悔しくてたまらなくて、唇をぎゅっと噛んだ。   『大丈夫だよ、友春』  こんな無機質な言葉に、何の意味がある。 『ここの先生たちは、みんな名医だ』  こんな電子の文字列に、何の温もりがある。 『だから、大丈夫』  今の俺の言葉には、何一つ力なんてない。  だったら。 『なあ、友春。一つ約束しないか?』  返事は来ない。 『俺も近々、手術を控えてるだろ? お互いの手術が終わったら、手紙を交換しよう』 『手紙?』  少しして、返信が来た。  春彦は続ける。 『ああ。何でも良いんだ。互いに書きたいことを書いて、それを手術後に送り合おう』 『でも、いつもメッセージでやり取りしてるよ?』  友春は不思議そうだった。  当然だ。この令和の時代に、手書きの手紙なんて。  だが、春彦は引かない。 『俺が、友春に送りたいんだよ。それに、実を言うと、俺も手術が怖いんだ。頑張る俺にご褒美くれよ、友春』 『何それ』  画面の向こうで、友春がぷっと吹き出した気がした。 『分かった。僕も春彦君からの手紙、楽しみにしてる。約束だよ、絶対だよ』  『ああ。約束だ』  スタンプを送り合うと、会話は途切れた。  春彦は見舞いに来た母親に便せんを用意してもらうと、すぐに友春への手紙を書き始めた。  友春が来てから、入院生活が楽しくなったこと。退院してからも仲良くしたいこと。退院したら二人でたくさん遊んで、たくさん勉強して、青春を取り戻したいこと。  手を動かすのも辛かったが、必死に書いた。死にかけのミミズみたいな文字が、便せんを這う。汗が、涙が、ぽたぽたと紙の上に落ちた。しんどい。辛い。でも、友春はもっと辛い。だから、手を止めたら駄目だ。書いて書いて。文字通り、死に物狂いで書いて。やっと手紙を書き終わると、春彦は意識を手放した。 「……あっ」  次に目に入ったのは、病室の天井。手紙を書いた後、どうやら眠ってしまったらしいと春彦は思った。 「……しまった、友春!」  自分がどれくらい眠っていたのかは分からない。だが、友春の手術はとうに終わっているはずだ。  行かなきゃ。  行かなきゃ、友春の病室に!  春彦はひょろひょろの体を無理矢理動かし、ベッドから床にどさっと落ちた。点滴棒ががしゃんと倒れる。立ち上がれない。それでも行かないといけない。春彦は点滴針を腕から引っこ抜き、床を這いつくばって隣の病室を目指した。 「友春……!」  友春の病室をがらっと開ける。開けてすぐに分かった。  がらんとしたこの感じ。  何もない。寝具も、荷物も、何もかも。   この部屋の主はいない。  友春は、いない。 「は……? 友春……?」  変に明瞭な視界が、どんどんぼやけてくる。目の前がぐちゃぐちゃになっていくのと同時に、現実が頭の中に染みこんでくる。  友春の手術は、失敗した。 「あ、あ……ああああああ!」  春彦の口から、がらがらの慟哭が飛び出した。ふらふらで、天に向かって恨み言を吐くこともできない春彦は、床にへばり付いて泣き叫ぶ。 「ともはる! やくそく、やくそくしただろうがあ! ばかあ!」  怒りに似た悲しみを床に叩きつける。だが、握った拳はあまりにも弱々しくて、ぺちぺち、と情けない音を立てるだけだ。  しかし、虚弱な春彦が出す音ですら病院では騒音だ。騒ぎに気づいて、すぐに担当医が駆けつける。 「春彦君、大丈夫かい!」    担当医は慌てて春彦を抱き起こす。春彦はぐったりしつつも、瞳にありったけの力を込め、担当医を睨みつけた。 「先生……何で、何で友春を助けてくれなかったんですか……」  自分の担当医と、友春の担当医は違う。頭では分かっていても、目の前の、医者という存在に怒りが沸いた。 「落ち着いて、春彦君。よく聞きなさい」 「先生、友春、友春が……」 「春彦君!」  担当医が春彦を一喝する。聞いたことのない、独特の覇気がこもった声。その声色に、春彦はようやく担当医の顔を見る。 「先生……」 「春彦君、落ち着いて、よく聞くんだ。いいね?」    担当医が紡いだ次の言葉に、春彦は唖然とする。 「君は、二年もの間、昏睡状態だったんだ」 「……は?」 「手紙を書いたとき、無理をしたんだろう。あの手紙を書き終わった後、君は急変して、緊急手術が行われた。その手術が終わってから二年間、君は目覚めなかった」 「じゃ、じゃあ、友春の手術は……?」  なおも友春の心配をする春彦に、担当医は微笑む。 「安心しなさい。友春君の手術は成功した。彼は、君が目覚めるより早く退院しただけだ」  怒濤の事実に、春彦は言葉を失った。だが、そこには確かに安心感があった。  担当医は、白衣の内ポケットから封筒を取り出す。 「これは、友春君から預かっていた、君への手紙だ。春彦君がいつ目覚めても良いよう、先生が預かっていたよ」  ほら、と手渡された封筒を、春彦は震える手で受け取る。  早く開けたい気持ちをぐっと押し込め、丁寧に、丁寧に封筒を開けた。    春彦君へ    目が覚めたとき、ぼくがいなくて、きっとおどろいたよね。  先に退院してごめんね。  手術のとき、ぼくをはげましてくれてありがとう。    あのとき、春彦君もきっとこわかったよね。辛かったよね。    けど、弱虫なぼくは、どうしても春彦君にたよりたかった。    そしたら、春彦君はぼくと手紙の交換をしようって約束してくれた。  うれしかった。本当に、うれしかったんだ。  絶対に手術をのりこえてみせる。そう思えたし、ぼくの手術は成功した。  そしたら、今度は春彦君の目が覚めなくて。  でも、ぼくはこわくなかったよ。  だって、春彦君が約束してくれたんだもんね。手紙を交換しようって。  ぼくは先に退院するけど、いつまでも春彦君の手紙を待ってる。  起きたら、二人でいろんなことを話して、いろんなことをしようね。  信じてるからね、待ってるからね!  友春より    最後には、友春の住所が書かれていた。  きっと、ぐちゃぐちゃな文字で、ぐちゃぐちゃな文を書くんだろう。言葉にできない想いもあるだろう。それでも、書きたい。書きたくて、届けたい想いが、今、ここにある。 「……先生」 「なんだい、春彦君」 「鉛筆と、便せんをください」 「友春に、届けたいものがたくさんあるんです」  中庭の桜はまだ咲いていない。だがその枝では、春の便りとなる小さな蕾がふくらんでいた。 春の便り 完
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加