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春の便り
少年はある病室のベッドの脇に立ち、そこに横たわる人物を見つめる。
初めて会ったとき、僕たちは反対なのにそっくりで、相性抜群だと思った。
君は前向きで、優しくて、いつも僕を支えてくれたね。
だから、今度の試練も必ず一緒に乗り越えられる。
そう信じていた。
そう、信じていたのに……。
病院の中庭で、木枯らしが枯れ葉を遠くへ攫っていった。
桜の花びらが地面に落ち、理不尽に踏まれ、惨めに腐っていく。
まるで、俺の青春と同じだな。
西崎春彦は病室のベッドに横たわり、窓から中庭の桜を見つめた。
退屈は人の精神を毒する。長い入院生活の中で、彼の心はすっかり色を失っていた。
そんなある日のこと、彼に転機が訪れる。
「そういえば春彦君。隣の病室に、春彦君と同じ年くらいの男の子が転院してきたそうよ」
「えっ」
看護師の言葉に、動くことを忘れたはずの春彦の心が跳ねた。
同じ年くらいの男子か。
どんな奴が来たんだろう。
友達になれたりするだろうか?
「春彦君、移動は少し大変よね。隣の子は動けるみたいだから、後で春彦君の病室を訪ねるよう伝えておきましょうか?」
看護師の提案を素直に喜ぶのが何だか照れくさくて、春彦はあえて平静を装って答える。
「どんな奴か、ちょっと興味あるな。看護師さん、お願いしてもいい?」
「ええ、分かったわ。ちょっと待っててね」
そう言って、看護師は春彦の病室を去って行く。
静かな病室に、春彦のどくどく、という鼓動がやけに響いた。春彦は落ち着かなくて、両手を組み、腹の上に乗せる。
ちょっとって、どれくらいなんだ?
五分後? 十分後? それとも、もっとかかるのか?
一人で緊張しながら待つには長い時間が過ぎて、病室のドアがこんこんこん、とノックされる。
春彦の心臓がどきっと飛び上がった。
「ど、どうぞ」
ついでに声も裏返ってしまった。恥ずかしくて、頬をシーツに埋める。
それと同時に、病室のドアがすっと静かに開いた。
複視で物が二重に見える春彦の視界に、小柄で気弱そうな少年の姿が映る。
「あ、え、えっと、僕……」
少年は所在なさげな、不安そうな垂れ目をきょろきょろとさせていた。
何というか、少し頼りない少年だ。
「まあ、こっち来て座りなよ」
春彦はベッドの側に置いてあるパイプ椅子を指さし、少年に助け船を出す。
「う、うん……!」
少年はほっとした顔で、春彦が示した椅子にちょこんと座った。そして、ちらちら、と春彦のベッドのネームプレートを気にする素振りを見せる。
ああ、俺の名前が読めないのかな。
「俺の名前、西崎春彦っていうんだ。習ってない漢字もあるよな」
春彦が言うと、少年は慌てた様子で両手を振る。
「あ、えっと、違うんだ! そ、その……」
少年は照れくさそうに春彦から視線をそらした。
「ぼ、僕の名前……ひ、東友春なんだ……」
少年、友春は名乗ると、今度ははっきりと春彦を見据えてはにかむ。
「僕たち、反対なのにそっくりだね」
春彦の心に、色鮮やかな桜吹雪が舞った。
中庭の桜は散り始めていたが、枝からは生き生きとした若葉が顔を覗かせていた。
複視や足の麻痺で移動が難しい春彦の代わりに、友春は毎日彼の病室を訪れた。
「友春って何歳?」
「僕は十三歳」
「じゃあ、俺の二つ下か。この病院のこと、いろいろ教えてやるよ」
若葉は瞬く間に生い茂り、桜の木を緑に染める。
「俺、脳腫瘍でさ。それでずっと入院してんだ。……友春は、何で転院してきたんだ?」
「僕は小児がんで……ここの病院、癌治療の良い先生がいるって聞いたんだ」
「そういうことだったのか。安心しろよ、ここの病院は腕の良い先生ばかりだぜ」
夏はあっという間に過ぎ去る。青々とした葉は、澄み渡った空とは対照的に真っ赤に染まっていった。
「ぐっ……おええ……」
「大丈夫か、友春! 今ナースコールしてやるから」
「ごめん、春彦君……君の病室で吐いちゃった……」
「そんなこと気にするなよ……今日はゆっくりしようぜ」
紅葉が散れば、寂しい冬がやってくる。葉がなくなった桜の木は、寒々しく、痩せこけて見えた。
症状が進行した、春彦と友春のように。
冬になると友春も移動が難しくなり、二人は病室の壁を挟んで携帯でやり取りするようになった。
『いよいよ今日が手術だな、友春』
『うん。今度が最後の手術になるよう、ちょっと大がかりなことをするんだって。僕、』
メッセージはそこで一度途切れる。途中送信してしまったのか、と思った春彦は、続きの言葉を待った。しかし、いくら待っても返信が来ない。ナースコールを押した方がいいだろうか。春彦がそう思い始めたとき、ぴこん、とメッセージの受信音が鳴る。友春から送られてきたのは、たった三文字だった。
『こわい』
春彦は固まる。
平仮名たった三文字。
このたった三文字に、一体どれだけの葛藤が。一体、どれだけの不安が、恐怖がこもっているのか。
互いの距離は壁一枚なのに、顔が見えなくて、声が聞こえなくて。
今すぐ駆けつけてやりたい。駆けつけて、大丈夫だ、心配すんなって、手を握ってやりたい。
でも、できない。悔しい。
春彦はそれが悔しくて、悔しくてたまらなくて、唇をぎゅっと噛んだ。
『大丈夫だよ、友春』
こんな無機質な言葉に、何の意味がある。
『ここの先生たちは、みんな名医だ』
こんな電子の文字列に、何の温もりがある。
『だから、大丈夫』
今の俺の言葉には、何一つ力なんてない。
だったら。
『なあ、友春。一つ約束しないか?』
返事は来ない。
『俺も近々、手術を控えてるだろ? お互いの手術が終わったら、手紙を交換しよう』
『手紙?』
少しして、返信が来た。
春彦は続ける。
『ああ。何でも良いんだ。互いに書きたいことを書いて、それを手術後に送り合おう』
『でも、いつもメッセージでやり取りしてるよ?』
友春は不思議そうだった。
当然だ。この令和の時代に、手書きの手紙なんて。
だが、春彦は引かない。
『俺が、友春に送りたいんだよ。それに、実を言うと、俺も手術が怖いんだ。頑張る俺にご褒美くれよ、友春』
『何それ』
画面の向こうで、友春がぷっと吹き出した気がした。
『分かった。僕も春彦君からの手紙、楽しみにしてる。約束だよ、絶対だよ』
『ああ。約束だ』
スタンプを送り合うと、会話は途切れた。
春彦は見舞いに来た母親に便せんを用意してもらうと、すぐに友春への手紙を書き始めた。
友春が来てから、入院生活が楽しくなったこと。退院してからも仲良くしたいこと。退院したら二人でたくさん遊んで、たくさん勉強して、青春を取り戻したいこと。
手を動かすのも辛かったが、必死に書いた。死にかけのミミズみたいな文字が、便せんを這う。汗が、涙が、ぽたぽたと紙の上に落ちた。しんどい。辛い。でも、友春はもっと辛い。だから、手を止めたら駄目だ。書いて書いて。文字通り、死に物狂いで書いて。やっと手紙を書き終わると、春彦は意識を手放した。
「……あっ」
次に目に入ったのは、病室の天井。手紙を書いた後、どうやら眠ってしまったらしいと春彦は思った。
「……しまった、友春!」
自分がどれくらい眠っていたのかは分からない。だが、友春の手術はとうに終わっているはずだ。
行かなきゃ。
行かなきゃ、友春の病室に!
春彦はひょろひょろの体を無理矢理動かし、ベッドから床にどさっと落ちた。点滴棒ががしゃんと倒れる。立ち上がれない。それでも行かないといけない。春彦は点滴針を腕から引っこ抜き、床を這いつくばって隣の病室を目指した。
「友春……!」
友春の病室をがらっと開ける。開けてすぐに分かった。
がらんとしたこの感じ。
何もない。寝具も、荷物も、何もかも。
この部屋の主はいない。
友春は、いない。
「は……? 友春……?」
変に明瞭な視界が、どんどんぼやけてくる。目の前がぐちゃぐちゃになっていくのと同時に、現実が頭の中に染みこんでくる。
友春の手術は、失敗した。
「あ、あ……ああああああ!」
春彦の口から、がらがらの慟哭が飛び出した。ふらふらで、天に向かって恨み言を吐くこともできない春彦は、床にへばり付いて泣き叫ぶ。
「ともはる! やくそく、やくそくしただろうがあ! ばかあ!」
怒りに似た悲しみを床に叩きつける。だが、握った拳はあまりにも弱々しくて、ぺちぺち、と情けない音を立てるだけだ。
しかし、虚弱な春彦が出す音ですら病院では騒音だ。騒ぎに気づいて、すぐに担当医が駆けつける。
「春彦君、大丈夫かい!」
担当医は慌てて春彦を抱き起こす。春彦はぐったりしつつも、瞳にありったけの力を込め、担当医を睨みつけた。
「先生……何で、何で友春を助けてくれなかったんですか……」
自分の担当医と、友春の担当医は違う。頭では分かっていても、目の前の、医者という存在に怒りが沸いた。
「落ち着いて、春彦君。よく聞きなさい」
「先生、友春、友春が……」
「春彦君!」
担当医が春彦を一喝する。聞いたことのない、独特の覇気がこもった声。その声色に、春彦はようやく担当医の顔を見る。
「先生……」
「春彦君、落ち着いて、よく聞くんだ。いいね?」
担当医が紡いだ次の言葉に、春彦は唖然とする。
「君は、二年もの間、昏睡状態だったんだ」
「……は?」
「手紙を書いたとき、無理をしたんだろう。あの手紙を書き終わった後、君は急変して、緊急手術が行われた。その手術が終わってから二年間、君は目覚めなかった」
「じゃ、じゃあ、友春の手術は……?」
なおも友春の心配をする春彦に、担当医は微笑む。
「安心しなさい。友春君の手術は成功した。彼は、君が目覚めるより早く退院しただけだ」
怒濤の事実に、春彦は言葉を失った。だが、そこには確かに安心感があった。
担当医は、白衣の内ポケットから封筒を取り出す。
「これは、友春君から預かっていた、君への手紙だ。春彦君がいつ目覚めても良いよう、先生が預かっていたよ」
ほら、と手渡された封筒を、春彦は震える手で受け取る。
早く開けたい気持ちをぐっと押し込め、丁寧に、丁寧に封筒を開けた。
春彦君へ
目が覚めたとき、ぼくがいなくて、きっとおどろいたよね。
先に退院してごめんね。
手術のとき、ぼくをはげましてくれてありがとう。
あのとき、春彦君もきっとこわかったよね。辛かったよね。
けど、弱虫なぼくは、どうしても春彦君にたよりたかった。
そしたら、春彦君はぼくと手紙の交換をしようって約束してくれた。
うれしかった。本当に、うれしかったんだ。
絶対に手術をのりこえてみせる。そう思えたし、ぼくの手術は成功した。
そしたら、今度は春彦君の目が覚めなくて。
でも、ぼくはこわくなかったよ。
だって、春彦君が約束してくれたんだもんね。手紙を交換しようって。
ぼくは先に退院するけど、いつまでも春彦君の手紙を待ってる。
起きたら、二人でいろんなことを話して、いろんなことをしようね。
信じてるからね、待ってるからね!
友春より
最後には、友春の住所が書かれていた。
きっと、ぐちゃぐちゃな文字で、ぐちゃぐちゃな文を書くんだろう。言葉にできない想いもあるだろう。それでも、書きたい。書きたくて、届けたい想いが、今、ここにある。
「……先生」
「なんだい、春彦君」
「鉛筆と、便せんをください」
「友春に、届けたいものがたくさんあるんです」
中庭の桜はまだ咲いていない。だがその枝では、春の便りとなる小さな蕾がふくらんでいた。
春の便り 完
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