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俺、篠田蒼が暮らす仁礼島は急激な過疎化が進んでいる。漁業が盛んだがこれといった観光資源はなく、IターンやUターンも多くは望めない。そのため高齢化率が高い。
普段は静かな島だが、二週間ほど前から賑わいを見せている。
商店街には野球部を応援するポスターが貼られ、公民館には『めざせ甲子園! 津久実高校野球部!』という垂れ幕が下がっている。
学校からの帰り道、俺は自転車を漕ぎながら、なんともいえない気持ちでその垂れ幕を眺めた。「めざせ」の時点で垂れ幕なんて気が早すぎる。プレッシャーを感じるのだが、娯楽が少ない島なので仕方がないと諦めの気持ちが勝る。
こんな事態になったのは、三回戦でゴリゴリの強豪校に勝ったせいだ。全国優勝の経験もある私学だった。部員9人の弱小高校(我がチームだ)相手にエースを温存させた結果、足元をすくわれた強豪私学の選手たちは試合後、呆然としていた。
相手チームのエースは割と有名な奴で、彼を目当てに集まっていた記者たちから俺は取材を受けることになった。人生初の取材だった。緊張し過ぎて何を聞かれたかよく覚えていないのだが、翌日の新聞のスポーツ欄に『部員九人の夏!エース孤軍奮闘!』という小さな記事が載った。
それを見た伝令係はひどく憤慨していた。「臨時とはいえ今は部員なのに」と普段は青白い顔を真っ赤にしながら、十人目の部員である彼は眼鏡を押し上げていた。『エース孤軍奮闘』に部員たちからの異論はなかった。当然だ。スコアは1-0だったし、決勝点は俺のヒットだった。何より、野手陣はいつものようにエラー三昧だったので、文句などあるはずがない。
家に帰ると、親父がビールを飲みながら俺を出迎えた。
「おぉ!! 小さな大エース様が帰ってきた!」
かなり出来上がっているらしい。机の上には、昨日の準決勝の試合結果を伝える新聞が何紙もあった。買い占めたのだろう。にこにこと破顔する親父に辟易する。と同時に、自分が相当プレッシャーを感じていることを改めて知る。
「……大エース様は明日試合だからもう寝るよ」
俺はぶっきらぼうにそう言って、自分の部屋に向かった。
まさか、本当に決勝まで進めるとは思わなかった。今さらだが、甲子園に行きたいと思う気持ちが揺らぎ始めている。準決勝が終わった後、球場の通路で肩を落とす相手チームの選手たちが目に入った。試合中も感じていたことだが、自分たちとは体の厚みが違っていた。
大きな体を丸めて「なんであんなチームに負けるんだよ」と言いながら泣き崩れるのを見たとき、妙な気持ちになった。勝ってしまったという申し訳なさを感じた。「あんなチーム」と言われたことに対する怒りは湧いてこなかった。
確かにその通りだと思った。一塁手はメタボまっしぐらだし、遊撃手は長髪を靡かせながら、球場に来ている女の子の声援に手を振っていた。試合中にもかかわらず、だ。それに俺だって人のことは言えない。最後は熱さとスタミナ切れでフラフラだった。強豪校に比べると、練習が足りていないのは明らかだ。
泣き崩れる選手が『あいつ』に重なって見えた。『あいつ』も強豪私学だ。学校の宣伝のために呼び寄せられた傭兵のような選手。野球漬けの毎日だったはずだ。死ぬほど練習してきただろう。明らかに練習不足の、「あんなチームに」と思う相手には負けて欲しくない。
「揺らぐなぁ」
俺はベッドに寝ころびながら唸った。明日の決勝戦のために気持ちを高めたいのに、うまく行かない。
「……清野宗篤」
俺は『あいつ』の名前を口にした。
何と呼べば良いか分からない。以前は、清野という名字ではなかった。記憶が曖昧なところはあるが、昔の俺は彼を「宗さん」と呼んでいたから、宗篤という名前はそのままなのだろう。
半年前、俺は練習中に意識を失った。
コントロールが悪い外野手の投げた球が後頭部に直撃したせいだった。すぐに意識が回復したが、目を覚ました瞬間、おびただしいほどの情報が頭の中に流れ込んできた。
俺は、ぼろぼろの着物を着ていた。早朝から畑仕事をして、家に帰ると幼い弟妹たちの面倒を見る世話焼き長女だった。釜で米を炊いたり、針仕事に精を出したりもしていた。俺の両腕は、まるで棒切れのように細く頼りなかった。
そして、そのやせ細った腕が掴む着物があった。自分が着ているものより質の良い、男の着物だった。
何なんだこれは。いつの時代の話だよ。
混乱しながらも、これは間違いなく自分のことだと理解できる。理解できるなんておかしな表現かもしれないが、俺はあの掴んだ着物の手触りを知っている。男から汗と土の匂いがするのは、彼がいつも畑仕事をしているからで、俺はその匂いを嗅ぐ度にドキドキしていた。
男と会うのはいつも河原だった。
「私、家を出ることになったんです」
か細い声で俺が言う。
「……お前は、それでいいのか。平気なのか」
怒りを滲ませた男の声が、そのときの俺には嬉しかった。
家が貧しかった俺には、以前から金持ちの好色男に囲われる話が持ち上がっていた。あとは俺が決心するだけだった。そうすれば相手から家にかなりの金銭が支払われる。弟妹たちが腹を空かせて泣くこともなくなるのだ。
「平気ですよ。生きていくためには、仕方のないことですから」
米を研いだり、針に糸を通すのと同じようなものだ。気持ちがなければ、ただの作業でしかない。そう思うことにしよう、と一晩考えて俺は心を決めた。
「お前……!」
ゆらゆらと、男の目に怒りと憎しみが宿った。
汗と土の匂いがする。そう思ったときには、俺は男に引き倒されて首を絞められていた。そうされてやっと、自分が望んでいたことが分かった。俺はこうされたかった。
ごめんなさい、と心の中で家族に詫びる。一度は決心したが、やはり恋心には勝てなかった。
ただの作業だと思わなければ心が壊れてしまうくらい、俺は目の前の男が好きだった。
男の大きな手に自分の手を重ねる。男は俺が抵抗すると思ったのだろう。「許してくれ」と言いながら力を強めた。
「い……しょ……に、宗……さん……も……い、っしょ」
男は、はっとしたように目を見張った。それから、「ああ、一緒だ。俺もすぐにいく」と頷いていくれた。
嬉しい。自分が望んだ通りになって嬉しい。でも、家族には申し訳ないことをした。何より、男に手を汚させてしまったことをすまないと思う。
仰向けに倒れ込んだ俺に、馬乗りになった男。その男の向こうに、夏の夜空が見えた。星がきれいだった。
もし、こんな二人じゃなかったら、違う二人だったら、生きて幸せになれたんだろうか。事切れる寸前、俺はそんなことを思った。
まごうことなき心中。
俺は前世で女だった。そして心中していたのだ。試合中、ベンチにいる監督から「心中」といわれる度に変な汗をかいているのはこのせいだった。
青空の下で健全に高校野球をしている現在の自分と、「売られそうになって男と情死」した前世の自分との乖離がヤバい。
ちなみに、清野宗篤というのはプロ入りが確実視されている超高校級の強打者だ。ほぼ190センチの身長と、鍛え上げられた肉体、冷たい美貌で試合の度にSNSでも話題になっている。
前世の記憶がよみがえる前から、もちろん清野のことは知っていた。高校野球関連の雑誌の表紙は一年前からほぼ清野が独占している。俺からすれば、いけ好かない野郎だなというのが正直なところだった。
ただの僻みだと思われるかもしれないが、高身長だし、腹筋なんてバキバキに割れてるし。インタビューされていても常に無表情で、にこりともしない。そのくせ女子人気が凄まじい。
まぁ正直、坊主頭でここまで綺麗な男はいないんじゃないかと思うくらいのイケメンではある。同じ丸刈りでも、俺は味噌で有名な某企業のキャラクター「ナルコメ君」に近い容貌なのだ。多少は僻んでも許されるのではないかと思う。
その美貌の男が、泣きながら俺の首を絞めていた心中相手と同じ顔をしていると気づいたときには腰を抜かしそうになった。
本人なのだろうか。彼に前世の記憶はあるのか。今の俺は男だけど、判別できるのだろうか。俺は甲子園へ行って、直接会ってそれを確かめたかった。
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