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「では、今年の神楽舞は、綾子さま本人がなさるのですね」
「おまえはなにを言っているの。これまでだって、舞ってきたのは『綾子』じゃないの」
「それは」
「なによ、なら言って御覧なさいな。おまえは誰。おまえの名はなに」
「私は――」
さや。
タツオミさまがくれた名。
決して誰にも知られてはならない、私が私であるための証。唯一、他者から与えられた私を示すもの。
「おまえはなんだというの」
「綾子、です」
「わかっているでしょうけど、禊なんて面倒なこと、あたしはやらないから。それはおまえの役目よ」
「ですがそれでは不浄を神事に持ち込むことに」
「ばかばかしい。そんな古臭いことを律儀に守る必要などないでしょう」
「綾子さま」
「黙りなさい、影の分際で主人に意見するなんて」
私を平手で打った綾子は踵を返す。廊下の隅に控えていた下男を従え、自分の部屋へ消えた。
数日後、神事の前夜。慣れた夜道を辿って洞窟へ赴く。今宵も雨だ。
秋の収穫を祈願するための神楽は、私がはじめて挑んだ儀式。七つの巫女はじめ。
あれからちょうど十年。その間、タツオミさまの姿は見ていない。あの晩の出来事は、彼岸へ向かいそうになっていた私が見た幻かもしれない。
けれど、その幻にすがって生きてきた。
タツオミさまがどこかで見ておいでになると信じ、あのひとのために舞ってきた。私には、あのひとがすべてであったのだ。
それももう終いである。
十七での舞を以って、綾子は天沢へ嫁ぐ。女学校の卒業を待たずして祝言をあげることが先刻決まったから。
いったい私はどうなるのだろう。綾子ではなくなる私を養ってくれるほど、水上の者は優しくないと、痛いほど知っている。
心の靄を晴らすため、私は舞った。
法具もなく、身を飾る物もない。あるのは水に濡れそぼった長襦袢だけ。
濡れ髪を張りつかせ、冷えた体と白い肌。まるで幽霊のようだと笑えてくる。
そうだ。幼いあのころ、私は己を幽霊だと思っていた。
私が私という人間になったのは、タツオミさまに出会ったからだ。
あのひとが私を生かし、私を作った。
「僕を生かしたのは君のほうだよ、さや」
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