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「すみません」と声をかけられたのは、図書館に入ろうとした時だった。立派な建物の前で弓治は足を止めた。
背の高い男性がこっちに近づいてくる。チャコールグレーのジャケット、深い紫色のシャツは、スマートな印象を抱かせた。日本で見たら派手目な格好だが、この世界では珍しくない。
目が離せなくなるほどの端正な顔立ち、綺麗な薄紫色の瞳を見た瞬間、雨の中でたたずむ姿が甦った。
「あ、あの時の」
ずぶ濡れの彼に傘を渡した日から、一ヶ月がたっていた。懐かしさが胸に広がる。
「傘、ありがとうございました。あの時はお礼も言えず、すみません」
濃い青色の傘を差し出す。あの日渡した傘だ。
あげたつもりだったから、そのまま持っていてもらっても良かった。けれど、それを言ったらわざわざ返しに来てくれた彼の気持ちを拒むようで、素直に受け取ることにした。
「こちらこそ、わざわざありがとうございます」
「あとこれ、ほんの感謝の気持ちです。苦手じゃないといいんですが……」
男性がさし出したのは、王室御用達ブランドの名前が入った紙袋だった。焼き菓子専門のお店で、本店がここ王都にあり、新作が出るたびに話題になるため、弓治でも聞いたことがある。
「いやいや、お気持ちだけで充分ですよ。傘を渡しただけなんですし」
つい遠慮すると、男性は困ったように微笑んで、「では、こうしましょう」と言った。
「このお店の焼き菓子が大好きで、『美味しい』って気持ちを誰かと共有したいので、よかったら食べてください」
柔らかな声と、整った外見の深い魅力に圧倒され、気づけば紙袋を受け取っていた。
「ありがとうございます……。一度食べてみたかったので、嬉しいです」
「こちらこそ、あの日はありがとうございました」
お互いに軽く頭を下げる。
てっきり、これで会話が終わるのかと思ったが、男性は近くの喫茶店にちらっと視線を向け、「良かったら、お茶しませんか?」と言った。
「あ、でも、図書館に用があるんですよね」
残念そうな声色に、思わず、「時間あるんで、大丈夫ですよ」と返していた。
普段は、初対面の人とすぐにお茶をしたりはしないが、あの日、悲しみに打ちひしがれていた彼を、また悲しませたくなかった。
「ありがとうございます。そこの喫茶店でいいですか?」
嬉しそうに笑った顔を見た瞬間、全身が痺れるような感覚に襲われた。あまりの格好良さにぼんやりする弓治に、男性が首を傾げる。
「別のところのほうがいいですか?」
「あっ、いえ、あそこの料理好きなので、大丈夫です」
「良かった。では、行きましょうか」
長身の彼の後に続く。
心臓が、なぜか騒がしかった。
◇
図書館の近くのこの喫茶店を、弓治は時々、利用していた。顔馴染みの店員がテラス席へ案内してくれる。まだお昼には早いからか、客は二組しかいなかった。
男性は甘いものが好きなようで、ケーキを二つと、甘い飲み物を頼んだ。弓治はケーキ一つと紅茶を注文し、店員が離れていくと、二人は自然と視線を重ねた。
「遅くなっちゃいましたけど、俺、カノルっていいます」
「弓治です」
男性――カノルは、聞き慣れない言葉を繰り返すように、「弓治さん」と呟いた。
「別の世界から来たので、珍しい名前かもしれません」
こう言うと、少し驚かれることが多い。たいていの場合、興味津々で元いた世界のことを訊かれるが、カノルは「そうなんですね」と納得したように微笑むだけだった。
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