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「夜が明ける頃に、私は消えるから」
涼子は笑顔のまま、明るい口調で言った。夜明け前のビルの屋上で、俺と涼子は向かい合って立っていた。薄明の中で、風の音だけが寂しく響いている。
「なんで」
掠れた声が口から漏れた。
「なんで涼子がここに」
「なんでって、ここにいたらいけないの?」
彼女がこっちを見たまま、首を右に傾ける。
返す言葉が思いつかなかった。頭は混乱し、何を聞けば良いのか、どう話しかければ良いのか分からない。
彼女の姿を見るのは一年ぶりのことだった。いや、正確に言えば、動いている彼女の姿と言った方が良いかもしれない。彼女は一年前、交通事故で亡くなったのだ。彼女は、生きてるはずがないのだ。
「なんで涼子がここに」
俺はまた同じ言葉を繰り返す。
「なぜかって? 私がここにいる理由は、優くんが一番分かってるんじゃない」
彼女は俺の足元を指差す。足元にはきっちり揃えられたナイキのシューズ、そして、その横には俺が書いた遺書がある。
「優くんがこっちの世界に来ようとするから、私は止めに来たの」
彼女はさっきと違って真剣な表情でこちらを見ている。俺は目を合わせられず、顔を下に向ける。
「だって、涼子がいない世界なんて生きている意味がない。死んだ方がましだ」
「そんなわけないでしょ。死んだ方がましなんて簡単に言っちゃだめ。私は死んだから分かるけど、生きてるのがどれだけすごいことか。もらった命をちゃんと生きなさい」
俺は顔を上げる。彼女は腰に手を当てて、ふんと大きく鼻から息を吐く。まるで母親が子供を叱るような姿だ。
「俺はこの一年、地獄だったんだ」
さっきまでの彼女の強気な表情がずうっと消えていく。
「涼子のいない家で食事をして、涼子のいない休日を過ごして、涼子のいないベッドで寝て、涼子のいない朝を迎えるんだ。涼子を失って、寂しさと悲しさと空しさで、生きてる心地なんてしなかったんだ」
「何を女々しいことを言ってるの。男のくせに、恋人がいなくなったくらいで、死にたい死にたいってバカみたい」
「なんだと」
俺はそこではっとした。周りが先ほどより明るくなってきていた。夜が明ける頃には消えるから。さっきの彼女の言葉が頭をよぎる。
「私からお願いしたいのは一つだけ」
彼女が右手の人差し指をピンと立てる。彼女がお願いする時のいつものポーズだ。
「生きて」
彼女の顔がさっきとは一転し、懇願するような表情になる。
「何があっても生きてほしい」
「無理だよ。涼子がいないと生きていけない」
「ううん。だめ。絶対に生きないとダメ。私のことは忘れて、前を向いて生きてよ。強く生きなきゃだめ」
「俺はそんなに強くないよ」
彼女がぶるぶると首を振る。そして、じっとこちらを見つめる。その瞳はうっすらと潤んでいた。
「そんなこと言われたら悲しいよ。私は優くんに生きてほしい。生きて幸せになってほしい。優くんの幸せが私の幸せだから」
彼女の顔はくしゃくしゃになり、今にも瞼から涙が溢れそうだった。
「もうあと一分もないよ」
彼女がそう言って、遠くに見える山に視線を向ける。山際は黄金色に光り、今にも朝日が出てきそうだった。
「涼子、消えないでくれよ」
「ううん。無理だよ。私はこっちの世界にはいられない」
「じゃあ最後に」
彼女の顔がこちらを向く。
「抱きしめさせて」
彼女はニコリと笑い、大きくうなずく。
俺は彼女に近づく。そして、ゆっくりと腕を彼女の腰に回して抱き寄せる。彼女の体から温もりが伝わる。彼女の心臓の鼓動も呼吸も感じることができる。胸の奥から感情が溢れ出した。
「涼子、なんで死んだんだよ」
彼女をギュッと強く抱きしめた。瞼からこぼれてくる涙を止めることはできなかった。
「ごめんね、優くん。辛い想いさせて。本当に本当にごめん」
「涼子。俺にはお前が必要だよ」
ふと、彼女の体が薄くなっているのが気づいた。
次第に彼女の向こう側の景色が見えるようになってきた。俺は彼女が消えないようにさらに強く抱きしめる
「涼子、消えないでくれよ」
「優くん、お願い」
「涼子、嫌だよ」
「生きて」
彼女の体が完全に見えなくなった。その瞬間、目の前が真っ白になり、意識が遠のいていった。
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