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whale
「辞めなよ。少なくとも、今日は」
目の前で、その子はそう言った。さっき出会ったばかりなのに、私の顔を真剣な眼差しで、どこまでもまっすぐに見つめている。
「この夜を超えたら、何か変わるかもしれないよ」
「無理だよ、もう何も変わらない」
「こんなに遠くまで来たの、初めてなんでしょ?だったら大丈夫だよ。やめなよ」
「だけど…!」
喉が締め上げられるように苦しくなり、私が泣き叫ぶような声をあげたその時。
光の雨の中から、一頭の鯨が姿を見せた。
あれほど降っていた大雨はいつの間にか霧雨に変わり、隠れてしまっていた月が雲から顔を出していた。その中に浮かび上がる鯨のシルエットはとても言葉で表せたものではなかった。柔らかな光を浴びて、慈愛のような雨の中を泳ぐ鯨の嫋やかに鳴く声が地平線へと続く。緩やかな残響を残したまま鯨は遥か彼方へ去って行った。
なんてことないはずの、いや。壮大な壮大な風景が私の網膜に焼き付いて消えなかった。
「…死にたくないよ」
閉じた瞼からじんわりと涙が滲む。さっきまでの鯨の唄声が、まだ耳の中に残っている。誰に聞かせるわけでもない言葉が自然と口からこぼれ落ちたことに驚いた。怖いのか、悲しいのか。自分でもまだちゃんとした名前がつけられない。
「うん」
という声がして私は、ゆっくり熱くなった目元から手を離す。
「でも、怖い」
「うん」
彼女が頷く。
「怖いよね」
「帰るのも、生きるのも、怖い」
「うん」
「お金ももうないし、だけど、」
気づいたら言っていた。
「そばにいてくれる?」
普通の友達には言えないようなことが、彼女になら言えた。朝の光に溶けるように、目の前から消えてしまうのを想像する。だけどーー。
「朝まで、そばにいてくれる?」
彼女が頷いた。その頬が緩む。
「うん、いいよ。そばにいてあげる」
その嫋やかな声を聞きながら、私は暗闇へと意識を誘われそのまま瞼をおろした。
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