第三章

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第三章

 ***  雨と私は、名前の由来を発表するというありきたりな授業をきっかけにお互いを認識した。  当時の私は挑発や果たし状とは無縁なほど物静かで、小学校に入学してから1年と少しが経過しても学校に馴染めていなかった。 「お母さん、私の名前ってどういう意味があるの?」  夕飯に出た焼き鯖の皮を丁寧に剝ぎながら私がそう聞くと、何故か父が「陽花はなぁ、太陽のように明るく花のように美しく育つようにって願いを込めて付けたんだ! なぁお母さん」と答え、母は「ほんの少しでも皮を食べられたらもう少し詳しく教えてあげるわ。ほら、その焼き目が濃いところとか」と言って食べ終わった食器を片付けにキッチンへ消えていった。    仕方なく、比較的パリパリしていた部分を口に含んでもぐもぐしてから「ごちそうさま。お母さん、教えて」と食器を片付けに行くと、洗い物の為に流していた水をそのままにしながら母は屈みこんで私から食器を受け取った。   「お父さんや義祖母さんは明るく可愛い女の子にって意味だと思ってるけど、私はもう1つちゃんと意味を込めたのよ。陽花は内緒にできる?」    シンクに落ちる水の音で所々聞き取りづらかったものの「内緒にできる?」は聞こえたので神妙に頷くと、母は私の耳元に唇を近付けて言った。 「あなたの名前は、紫陽花の漢字から取ってるの。雨の季節に咲く綺麗な花があるでしょ?」 「藤原さん家のアジサイ通りのアジサイ?」 「そう。実は紫陽花って、あんなに綺麗なのに葉っぱには毒があるの。あ、一応言っておくけど食べちゃダメだからね」 「わかった。食べない。じゃあ意味は?」 「あのね、女の子は、本当の意味で可愛く綺麗に生きるためには毒が絶対に必要なの。陽花の年ではまだわからないかもしれないけどね。なにくそ!って思った時にしれっとやり返せる力というか何というか……」 「お母さん、これって怖いお話……?」 「あぁごめんごめん。怖い話じゃないのよ。ただ、陽花がお父さんたちが想像しているよりもっと綺麗になれるように、お母さんが魔法をかけたのよって話」 「魔法……そうなんだ……」 「あ!この魔法は授業でお話ししちゃったら解ける魔法だからね!内緒だから、学校ではお父さんが言ってた方の意味で書きなさいね」  そう言って母は立ち上がりシンクに向き直った。水が落ちる音のせいか、野球観戦をする父の声はずっとぼやぼやして聞こえていた。  ***   「じゃあ次は、沢崎陽花ちゃん。陽花ちゃんはあれかな?太陽やお花みたいに明るく可愛く、みたいな意味だったりするのかな?」  先に全部を言ってしまった担任のせいで、授業当日の私は言葉を失ってしまった。幼かった私にアドリブ力など皆無で、緊張すると吃音ぎみになることも災いして教室には沈黙が下りる。 「陽花ちゃんって全然明るくないよね。あんまり喋んないし」 「似合ってないよなー」 「こら!誰ですかそんなことを言った人は!手を挙げなさい!」    小さなざわめきから私を置いて徐々に大きくなる喧噪に、私は飲まれてしまった。結局ひと言も発することなく席に着くと、後ろから肩をトントンと叩かれる。  そこに、雨がいた。 「あのね、僕ね。かしこいから知ってるんだけど、陽花ちゃんの名前ってアジサイの漢字と一緒なんだよね」    その言葉を聞いて、私は頭が取れんばかりに大きく何度も頷いた。かしこいからと宣言した生意気な雨をドン引きさせるくらい大きな動きで。  「おぉ……。あ、アジサイってさ、青とか紫色の花も綺麗だけど、葉っぱの独特な光り方とか水がしたたる姿が綺麗だよね。陽花ちゃんはあの葉っぱの色のイメージがあるなぁって思ってたんだ。あのね、アジサイは雨ととっても仲が良いんだよ!」    そう言って綺麗に笑った後、雨は「はいはーい。陽花ちゃんは皆がうるさくしてる間に、僕に名前の由来を話してくれました! だから次は僕の番ね。僕の名前はあやさき雨って言います! いつか水も滴るイイ男になるようにっていう願いでつけられたみたいです! 陽花ちゃんとは今日から仲良しになります! どうぞよろしく!」  これが私に上書きされた厄介な魔法だったことは、まだこの時の私は知る由もなかった。
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