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その日の病院は、朝からソワソワしていた。 「いやぁ、あの宙が、ね」 「ね、宙先生も立派になったのね」  ヒソヒソと言葉を交わす母さんと安藤さん。いや、ヒソヒソとは名ばかりで、声量的には全然、まるっと、聞こえていたんだけど。ちなみに母さんは、父さんと結婚する前から病院で働いている看護師だ。つまりは、安藤さんとも二十数年来の親友と言うか戦友と言うか、コーヒー飲み友達である。  普段は開院前にあれやこれやぶつくさ言っている父さんだって、気味が悪いくらいに口数が少なくて、コーヒーを啜っては僕に意味ありげな視線を送る。  そう、この日は美宇が二回目の診察に訪れる日だった。  いや、わかっているってば! 美宇に対して、ただの医者と患者の関係にしてはやり過ぎなことくらい! そのせいで関係を邪推されることくらい!  浮き足立った空気に、僕はそう叫びたいくらいだった。そんなことする勇気はないんだけど。 「で、その子、可愛いの? 安藤さん」 「そうねー、今時の子って感じよ。ちょっと尖っててねぇ。ああいうのが宙先生は好みだったのね」 「あらぁ、今時の子なんて、私、仲良くできるかしら」 「大丈夫よ、大浦さんなら! うちの息子の彼女なんてね、」  と、当の息子としては、耳を塞ぎたくなるようなかしましい会話が繰り広げられている。  おほんおほんとわざとらしい咳をして、父さんが僕に美宇のカルテを手渡した。 「じゃあ、この患者は宙に任せるが、うちに入院するってことはもう中絶に決めて動くのか?」 「父さん、病室貸してくれてありがとう。いや、今日エコーとか見て決めてもらうよ」 「じゃあまだ、産むかどうかは決まってないのか」 「うーん、どうだろう。僕が知らないだけで彼女の中で答えは出てるかも。どちらにしても、覚悟はできてると思うよ」  父さんの口が何か言いたげに動きかけた。が、結局、発することはせず、頷いただけだった。  父さんのこういう面は、僕は本当に尊敬している。  おそらく、美宇の初診で怒り狂っていたように、父さんは中絶というものには反対なんだろう、何があったとしても。それはそれで、一つの考えだ。  けど、僕が父さんの考えを否定しないように、父さんも僕の考えを否定しない。この当時はまだ研修医の僕だったけど、それでも父さんは僕個人の考えを尊重してくれる。上司としても、父としても、見習うべき点だと今でも思っている。  僕はカルテを握り締め、診察室に向かった。患者としての美宇に、担当医として決断を迫るために。 「おはよう、昨日はよく寝れた?」  診察室で見る美宇は、二週間前の初診の時と打って変わって、スニーカーがよく似合うナチュラルな美少女になっていた。化粧っけの薄い、だけど玉のような光がぷっくりと躍る頬を膨らませて、美宇はキンキン声で訴える。 「寝れるわけないじゃん! 病室なんて辛気臭いし、慣れてないし。疲れてたから最後は寝落ちしたけどさー」 「いや、寝れてるじゃん」  訂正、口の悪さは変わっていなかった。  美宇は、昨夜から住んでいたアパートを引き払い、ひとまず病院の個室に入った。幸い、美宇は大きな家具や家電は購入費用が賄えず、レンタルで調達していたため、越してくると言っても服や靴、貴重品などスーツケース一個と大きな鞄二つで収まるほどの所持品しか持っていなかった。  本当は、社長からもらったり自分で買ったりしたブランド物のバッグもいっぱい保持していたが、引越しにあたってあらかた処分したんだそうだ。 「てゆーか先生、ここのおばさんたち何なの? 注射の時とか、やたら『宙先生はね、いい人よ〜。堅物でつまらないけどね! つまらないけど誠実よ〜』って先生を売り込んできたけど」 「おばさっ……。本人の前で絶対言わないでね」  ていうか、それフォローしているようでフォローになってないよ、安藤さん。  僕は頭痛を覚えつつも、主治医モードになんとか切り替えるために、白衣の襟を正す。 「ええっと、その血液検査や尿検査の結果だけど、大きな異常はなし。じゃ、赤ちゃんの様子見せてもらうから、エコーするよ。そこに横になって、お腹出してくれる?」 「えっ、そんな、恥ずかしい」 「何を今更、初診の時にもやったでしょ?」 「や、その時は初対面だったけど、今はもうさ……。んもー! そんなデリカシーないから、先生モテないんだってば!」  地味に傷つく捨て台詞を吐いて、それでも渋々、美宇は診察台に仰向けになって服をたくしあげた。  僕もジェルを手に取って、美宇のお腹に塗っていく。平常心、平常心、と心の中で念じていたことは、美宇には内緒だったけど。 「これから赤ちゃんがこの画面に映るけど、見るよね?」  初診時には、どうせ無くなる命だからと、美宇はエコーの映像を頑なに見ようともしなかった。  でも、殺すかもしれない命だからこそ、生きている姿を僕も美宇も見ておかなければいけない。僕は、そう思ったんだ。 「うん」 天井に視線を固定したまま、美宇も同意を示す。  その強ばった体に隠した心の裡は、僕にはつゆも推察できなかった。  僕は手にしたプローブを上下左右に動かして、胎児がどこにいるか、どんな向きかを確かめる。  まずは心臓。ちゃんと動いているか、異常はないか。妊娠中は何が起きるか、医者の僕らにもわからない。昨日まで元気だったベビーがなんの前触れもなく亡くなってしまうことだってある。だから今でも、この心拍の確認は何度経験しても……いや、何度か悲しいことを経験しているからこそ、緊張する作業だ。  目を凝らして豆粒ほどの心臓を見つめる。明らかな奇形はない。問題は、動くかどうか。  ――トクン。  極小サイズの臓器は、一丁前に鼓動を刻んでいた。  ベビーの生存を確信して、僕は長い息を吐いた。 「心臓は、元気に動いてるね。ほら、見える? ドクンドクンって」  美宇は無言だった。食い入るようにモニターを見つめて、その光景を大きな目に焼き付けているようだった。  邪魔するのもはばかられたから、僕は僕で羊水の量、胎盤の位置、胎児の発育など検診で測定すべき項目を手早く記録していく。その間も美宇は何も喋らず、変わりゆく画面を凝視していた。  今だったら、ここが足で、ここが頭で、とかもっと気の利いたことをエコー中に話す余裕もあるんだけど、この頃はまだ診察自体に慣れていなくて、僕も見落としがないようにって、黙ってただ手だけを動かし続けていた。  作業が一段落した後は、美宇に渡す写真を撮るため、胎児がよく見えるような場所を探していた。その最中、 「あ」  つい漏れた僕の声に、美宇は素早く反応した。 「え、赤ちゃんに何かあった?」 「いや、性別、わかって」 「どっち?」  刹那、躊躇った。必要以上にベビーのことを教えてしまえば、美宇のベビーへの愛着を誘導してしまうんじゃないかって。  でも、美宇が何を選ぶにしても、性別はいずれわかることだ。そう自分を納得させて、口を薄く開いた。 「女の子、だよ」  一拍置いて、美宇は噛み締めるように復唱した。 「女の子」  更にプローブを動かすと、胎児の横顔が映った。  つるんと丸みを帯びたおでこに、美宇譲りの高く細い鼻梁。  美宇が鋭く息を飲む。  胎児の顔の横あたりにパタパタと動く、小さな、小さな手。  大人の小指くらい、いや、もっと小さな手は五本の指がしっかり生えていて、ちゃんと人間のパーツになっていた。 「生きてる……」  美宇は喘ぐように、そう呟いた。  ああ。  また僕は、美宇にすごく残酷なことをしている。  中絶することを肯定しながら、絶つ生命を見せつけるような真似をするなんて。  でもね、綺麗事かもしれないけど、あんまりだと思ったんだ。母と子の初めての対面が死んだ姿で、なんて。  そのうち、美宇は顔を両手で覆った。白く細い指の間から、荒い吐息が漏れだす。それはやがて、微かな嗚咽に変わっていった。  僕もやめればいいのに、まだお腹の子を見続けていた。  なんでなのかな、僕も未練があったんだ。  バイバイでもするみたいに手を振って、生えたばかりの足で羊水の中を蹴って、たまにこくっと呼吸の練習をしている、美宇の中で確かに息づく赤ちゃんに。  この子が生きている姿を、一秒でも長く、見ていたかった。  美宇が僕にとって特別な人だったみたいに、この子は僕にとって、この世にただひとりの特別な子なんだって、わかっていたからかもしれないね。  低く、抑えた嗚咽は、やがてしゃくり上げるようになって、終いに美宇は、子供のようにワンワン泣いていた。 「――っこの子に、会いたいっ」  いつもは気丈に弧を描く眉をぎゅっと下げ、鼻の先まで顔を赤くして、美宇は喉から濁音混じりの声を絞り出す。  美宇は出会ってからこれまで、辛い身の上話を僕に何度かしてくれた。けど、一滴たりとも涙を流すことはなかった。乾いた瞳で、淡々と事実を述べるのみだった。  なのにこの時初めて、堰を切ったように大粒の涙をボロボロ零していた。 「産みたい、よぉ」  胸が千切れそうな、美宇の心からの切なる叫びが診察室の空気を裂く。  僕の体のど真ん中に、ずしんと重い衝撃が走った。 「美宇っ……」  顔をクシャクシャにして泣きじゃくる姿が切なくて、見ていられなくて、僕は腕を伸ばして…… 「よく、言ったわね」  瞬きをした次の瞬間、診察室のすぐ脇に控えていた安藤さんが音もなく進み出でて、美宇の肩を抱いていた。 「複雑な事情があるようだけど、大丈夫。産みたい気持ちがあるなら、私たち産院のスタッフ全員でサポートするわ」  突然現れた安藤さんと自分の口から溢れた本音に戸惑って、口を魚みたいにパクパクする美宇。安藤さんに応えるべきか逡巡しながらも、僕に助け舟を求めた。 「で、でもっ、産みたいのは気持ちだけで、お金ないし、住むところも、」  頼ってもらえたことに内心喜びつつ、僕は伸ばしかけた左腕をさりげなくもう一方の腕に添えて、美宇を安心させるようにゆっくりと語りかけた。 「大丈夫。知人に区役所の人がいるから、然るべき支援を受けよう」  本当は、あの星空を見に行った時に、行政支援の話を伝えるべきか思案していた。生活費や学費に窮した時に受けることができる支援があることは、僕も知っていたから。  でも僕も支援の詳細は知らなかったし、何よりあの時は、美宇がまっさらな気持ちでベビーと向き合うことが大事だと感じたから。その話をするタイミングではない、と判断した。 「え? 先生の知人? 友達少ないのに、そんな人いるの?」 「えーっと、母さんの知人」  こんな時まで、美宇は息を吐くように僕への失礼を忘れない。ここまで来ると、一周回って感心すらしてしまう。 「さ、まずはお腹を拭こうね。体を冷やしたら良くないわ」  安藤さんに優しく肩をさすられて、美宇は従順にタオルでお腹のジェルを落としていく。その間も、涙はとめどなく頬を流れ落ちて、留まることを知らなかった。
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