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「ふぅーっ」  安藤さんが美宇を病室まで送ると申し出てくれたから、僕は診察の合間に一度、控え室に戻ってコーヒーでも飲むことにした。  目線を落とすと、マグカップを満たす褐色の水面が僅かに波打っている。  あんな……あんな美宇を見たのは、初めてだったから。  美宇はいつも何かに怒っていて、憤って、冷めていた。  自分の価値を見い出せず、人生をどこか諦めて、そのくせ評価されたい侮られたくないと、自分を強く飾り立てることに必死だった。  そんな他者の視線ばかり気にする美宇が、あんな人目も憚らずに泣くなんて。そんなの、見せられたら―― 「宙先生、危なかったわね」 「わあっ! あ、安藤さん!?」  前触れもなく安藤さんが背後から話しかけるもんだから、僕は危うくコーヒーマグを落としかける。  安藤さんは、そんな僕の痴態など気にかけず、澄ました顔で自分のマグカップにコーヒーを注ぎ始めた。 「私が入ってくるのが少し遅かったら、宙先生、葛西さんのこと抱き締めてたでしょう?」 「……」  否定できない僕は、間を埋めるようにコーヒーを一口含む。でも、この沈黙と熱を帯びる頬こそ、安藤さんが正しいことの何よりの証拠だった。  幼子みたいに泣きじゃくる美宇を前にしたら、衝動的に腕が伸びていた。あんなの僕も初めてで、まだ動揺が収まっちゃいない。マグカップを持つ手だって震えるほどに。 「だめよぉ。いくら葛西さんのこと好きでも、勤務中にそんなことしたら」 「すっ、好きっ!?」  突拍子もない安藤さんの発言に、僕は口内のコーヒーを噴き出しそうになる。危うく、白衣に大きな染みを作るところだった。 「いや、彼女は僕にとって恩人というか、だから大事というか、」  ワタワタと言葉を並べる僕は、ベテラン助産師さんからしたらさぞ滑稽に映っただろう。安藤さんは目尻の皺を深めて、コーヒーに口を付けた。 「ふーん。恩人、ねぇ?」  そう、恩人。  苦し紛れに聞こえる僕のこの言葉も、決して間違いじゃない。 「その、先週くらいからあの悪夢を見なくなったんです」 「悪夢って、宙先生が救急の研修中に亡くなったっていう、未受診妊婦の」  僕はこっくり頷く。 「三年前からずっと、孤独な妊婦に対して、医者は無力なんじゃないかって思いに苛まれてきました。そうじゃない、できることがある。そう信じたいのに。もうあんな悲劇は、二度とごめんなのに」  夜中にうなされて飛び起きる度、僕は自分の無力感に打ちのめされていた。彼女のような妊婦をどうにか救いたいって思いはあれど、研修医で、しかもただの町医者の僕じゃ何もできやしないって。  今でこそ、区役所の貧困支援の部署と連絡を密に取って、望まない妊娠をしてしまった子に医療的なサポートをいち早く申し出るとか、僕はこの問題に対して、積極的に解決に取り組めている。自分一人では無理でも、それぞれの力は弱くても、できることはあるんだって知っている。  けど、この頃は防ぎたいことは明確なのに、何をしたらいいのか、そもそも自分は何ができるのかが曖昧でわかっちゃいなかった。  そんな時、偶然に……いや、きっと必然的に出会ったのが美宇だった。 「美宇は、最初こそ僕を拒絶してました。僕もやっぱり何もできない、救えないって挫けそうにもなりました。けど、きちんと時間をかけて話を重ねていったら、どんどん言葉に耳を傾けてくれるようになって、こうやって助けを求めるまでになってくれた。美宇が変わっていく姿に、諦めないで良かった。僕にもできることがあったんだって。何か道が開けたような、救われたような気持ちになったんです」  星野は、美宇のことを救えない、と言っていた。  でも僕は、違う、そんなことはない、と証明したかった。きちんと時間をかけて向き合えばできることはあるんだと、自分自身にも示したかった。  美宇と関われば関わるほど、彼女の境遇に絶望もする。けど同時に、彼女自身の根源的なひたむきさに心打たれていた。そのせいなんだろうか、僕は日に日に、悪夢を見なくなっていった。 「宙先生」 「だから僕は、恩人の彼女を担当医師として救いたいって、強く思うんです。美宇は、まっすぐで努力家の素敵な女性です。頑張る方向さえ見定められれば、きっと幸せになれる」  安藤さんは生温い視線を僕に据えていたが、ふう、と息を漏らした。  あんな熱弁を奮ったのに、なんでため息つかれたんだろうって不服だったけど、もう少しだけ大人になった今の僕なら、あの瞬間の安藤さんの気持ちが理解できるような気がする。 「恩人ね。まあ、今はそういうことでいいんじゃない? それにしても、問題はこれからね」 「え? というと?」 「産むとなると、さすがに親御さんに報告なしは無理があるわよ。さっき言った行政の支援だって、受ける前に真っ先に親御さんが支援できないか確認されるんだから」  それは僕も初耳だった。  美宇の前に広がる現実は、どこまで行っても険しく、残酷だった。 「そう、なんですか」 「宙先生、支えてあげてね」  安藤さんが僕に向ける視線は、今度は本当に慈愛に溢れた、温かいものだった。 「葛西さんの頼れる人は、宙先生しかいないんだから」  勤務明け、僕は美宇の病室を訪ねた。 「どうぞ」  夜の帳に包まれた病室は暗くて、開け放した窓から覗くビル明かりだけがやけに存在を主張していた。宵闇にぽっかり浮かぶ後頭部から、柔らかな声がひっそりと落ちる。 「今日は星、よく見えないね」 「こんな街中じゃ明るすぎて、夜空は綺麗に見えないよ」 「そっか。残念」  頬にかかる髪を優美な仕草で耳にかけて、美宇はゆっくり僕に振り向く。乾いた涙の筋が残る顔に浮かぶ表情は穏やかで、僕は美宇の気持ちが固まったことを察した。 「産むことに、決めたんだね」  美宇は、泣き腫らした瞼を閉じて、そっと首肯した。 「先生さ、あたしに自分のことをもっと愛して欲しいって、そう言ってたよね」 「言ったね」 「あたしね、今までの人生って全部、周りの人を見返したいとか、そんな気持ちで生きてきた。自分で選んだつもりで、自分自身で決めたことなんて多分なかった。先生が言ってた通りだよ。だけどね、」  美宇の右手が自身のお腹を愛おしげに撫でる。  僕は瞬間、あぁ、と感嘆の息を漏らしてしまった。  だって、美宇がお腹に、赤ちゃんに触れたのは、この時が初めてだったから。 「今日、エコーでこの子を見て直感したの。あぁ、あたしの人生ってこの子を産むためにあったんだって。人生で初めて、自分がしなきゃいけないこと、したいことを誰に言われるともなく見つけたって、思えた」  歌うように言葉を紡いで微笑む美宇の背に、夜景から差し込むクリームイエローの光の鱗片が降り注ぐ。僕は美術には詳しくないけど、それはまるで中世ヨーロッパで描かれた聖母像のような、そんな神々しさすら感じさせる光景だった。 「これが母性ってやつかな?」 「お母さんって、そういうものだよ。皆、赤ちゃんのことを生まれる前から愛しく思って、自分の人生だって捧げられるって、そう言うんだ」 「……元の生活、いや、大学には今だって戻りたいよ。あんなに頑張って受験して、合格して、これまで勉強してきたんだもん。でも思ったの。大学はいつでも通える。二年間だったら休学だってできる。だけど、この子を産むのは今しかできない」  湖面のように凪いだ美宇の瞳に、揺らぐことのない意志が瞬いた。 「あたしは、この子を産んで、育てたい。どんなに貧しくても苦しくても構わない。この子の母になったあたしの方が、今の自分より、あたしはあたし自身を誇りに思える」  病室に満ちる冷たく冴えた空気に、凛とした響きが木霊した。 「っ――!」  強く研ぎ澄まされた決意は、息もつかせないほどに僕の胸を激しく貫く。  後光を浴びて輝くこの女性に湧き上がった激情の名を、僕はまだこの時、認識できていなかった。  訳もわからず、乱された呼吸を整えて、僕は深く頷く。 「そうだね」  これは美宇に限った話じゃないんだけど、母になると決めた女性は、とても美しく強くなる、いつだって。  命を背負う、という凄絶な覚悟が彼女たちを内面から奮い立たせるのだと、僕は思うんだ。 「派手なメイクを施すよりも、ブランド品で身を固めるよりも、質素な姿でもお腹の子と共に笑っている美宇が一番素敵だと、僕も思うよ」  そんな美宇を、僕も隣で見ていたいな。  何気なく口にしそうになって、僕は驚愕した。  でも同時に、やっと腑に落ちた。  美宇に幸せになって欲しい。そう思っているだけだったのに。そのつもりだったのに、僕ときたらいつの間にか、それを見続けたいだなんて大それた願いを抱くようになっていたんだ。  美宇に新たな気持ちが芽生えたこの日。僕も、生まれて初めての気持ちを自覚した。  多分、それを世界は、恋と呼ぶんだ。
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