11

1/1
前へ
/27ページ
次へ

11

 美宇の検診から六日後。  石のように硬い表情を横目に、僕は車を北へ走らせていた。 「……」 「大丈夫?」  真っ直ぐ前を睨んだまま、美宇は首を横に振る。 「もう、やだ。帰りたい」 「それは無理かな」 「あー、先生、やっぱやめよ? いいことないよ、行ったって」 「そんなことないって。どんなに疎遠でも親なんだし、真心を込めて話せば、きっと上手くいくって」 「そうかな」  憂鬱をため息に変えて頬杖をつく美宇。その長い黒髪は冬の乾いた風に攫われていった。  僕たちの向かう先は、美宇の実家。つまりいよいよ、美宇のご両親に子供を身篭ったこと、そしてその子供を産むことを報告しに行く時が来た。  いや、報告だけじゃない。美宇とお腹の赤ちゃんの当面の生活について、援助をお願いするという、最高難度のミッションだって待ち構えている。  だけど、僕は美宇とは別の意味でドキドキしていた。  それはこの数日前、星野と交わした電話が原因だった。 「は? え、あの妊婦のことが好きになった?」 「うん」 「え、誰が? 誰を?」 「僕が、美宇を」 「宙が? あのブラッディ・メアリーまみれの妊婦を?」 「その言い方だと、美宇が常に血染めの服を着ているみたいじゃない? って、そんなことはどうでも良くて。……助けて、星野ぉぉ」  そう、齢二十七にして初恋を自覚した僕はどうしたらいいのかもわからず、とりあえず僕の数少ない友人の中で恋愛経験がそれなりにある星野にSOSを発したのだ。なんて言っても彼は、その時もう結婚していたからね。僕が学生結婚も珍しくない、と思うのは、同級生と学生時代に結婚していた星野を見ていたからだ。 「まあ、確かにあの妊婦は可愛かったけど。それってその美宇って子やベビーに対する同情心じゃないよな? だとしたら、このまま突き進んだら後で取り返しのつかないことになるぞ」  電話越しに缶ビールを開ける軽快な音が聞こえる。この饒舌さといい、星野はおうちで晩酌中だったんだろう。 「それは僕も考えたよ」 「だったら」 「でも、違う。確かに途中までは、この子は素敵な子だから報われて欲しいとか、ドラマの登場人物に感情移入するようなそんな気持ちだった。けど、産みたいってはっきり宣言した美宇を目の当たりにして『この子の隣で彼女の人生を見守りたい』ってそう思ったんだ」 「宙」 「僕はこれまで生きてきて、そんな気持ちを誰かに抱いたことなんてなかった。これは……これが、好き、って感情なんじゃないの?」  僕の言葉の後、しばらく沈黙が流れた。  そしてようやく聞こえてきたのは、長い長いため息だった。 「ったく、三十近い男がそんなピュアな台詞言うなよ、聞いてるこっちがこっ恥ずかしい」  星野の一見、ぶっきらぼうな口調は、どこか優しい響きにも聞こえた。 「宙らしいっちゃ宙らしいな。助けたつもりが助けられてるというか、気が付いたら好きになってたっていうのが」 「そうかもね」  僕もクスリと笑みを漏らした。 「じゃあ、気持ちは揺るがないとして、だ。いいのか? その宙が好きな女は、宙じゃない男との子供を産んで、育てようとしている。彼女とめでたく成就したとして、これから一緒に居るなら、その子供を宙も育てることになるんだぞ? 複雑じゃないか?」 「うーん、それが、さ、自分でも不思議なんだけど、その子のことを僕ももう好きみたいなんだよね?」 「……へ?」  星野が間の抜けた声を出すのも仕方がない。だって、僕自身もびっくりしていたんだ。美宇のエコーをしながら、僕まで美宇の赤ちゃんに愛情を抱いていることに。  きっと美宇に似た可愛い女の子になるんだろうな。もしかしたら、性格も似ているのかもしれない。どんな子なんだろう。会ってみたいな、抱っこしたいな。  そんな風に、ベビー、いや、赤ちゃんを愛おしく感じて、誕生を楽しみにしてしまったんだ。 「なんだ、それ。ったく宙は。そこまで行くと若干ホラーだぞ」 「え、ええ? そうかな?」 「彼女でも妻でもない女の子供にそこまで思い入れてたら、それは世にも恐ろしい話だよ。だから、さっさと気持ち伝えて結婚して、ちゃんと子供の正式な父親になれ。そしたら胸を張って、その子を愛してるって言えるんだから」 「……!! ええっ!? け、結婚っ!?」  急に飛躍する星野の言葉に、僕の喉から素っ頓狂な声が飛び出す。 「そう、結婚」 「な、え?」 「だって子供生まれるんだぞ? そこは覚悟を持って丸ごと養うって誠意を見せないと」 「ちょっ、えっ、だって美宇が僕のことどう思ってるかもまだ、」 「だから、ちゃんと気持ちを伝えるんだって。だって、ここまで俺が聞いても、宙は彼女のこともそのベビーのことも、迷いなく好きだって言ってるんだぞ。なら、もうさっさと行動するに限るって」 「いや、でも、心の準備ってものが」 「そんな準備が整うの待ってたら、ベビーが生まれるぞ? 正直、この後実家も一緒に行くくらいの仲なんだから、そりゃ彼女だって宙のことを憎からず思ってるだろうよ。でも、聞いてみないとわかんないし、そうやって渋ってる時間が無駄だ! 既婚者からの意見は以上!」 「そ、そんな雑な、」 期待外れな答えに僕はがっくり肩を落としかけたが、「あ、でもな」と星野は続ける。 「これは俺の嫁の話だけどな、辛い時に支えてくれたっていうのが俺を好きになった理由らしいぞ」 「……恋愛経験ゼロの僕に、妻帯者ののろけ話、聞かせて楽しい?」 「違う、違う。つまり、宙も彼女が辛い時を支えてるだろ。で、これからも力になるってのをきちんと示せば、想いは伝わるんじゃないかって、俺は思うって話。大丈夫だよ、宙の良さはきっと彼女だってわかってる。後は、宙の気持ちをしっかり言葉にするだけだ」 「星野ぉぉぉ」  なんて、その時はちょっといい話風に終わったが、冷静になって考えてみれば、気持ちをしっかり言葉にして伝えるっていうのは、なかなかにハードルが高い。  結局、何をどうやって伝えるのか具体的なプランも持たず、僕はただ車を運転していた。 そもそも、このお葬式のような雰囲気の中、僕が美宇に告白するっていうのは、さすがに難しいんじゃないか? まずは、美宇と美宇のご両親の話し合いに全力を注がないといけないんじゃないか? 星野から植え付けられた雑念を振り払ってアクセルを踏み込むと、風に踊る髪を抑えながら、美宇がぽつりと呟いた。 「来てくれてありがとう、先生。あたし一人だったら多分、行く勇気すら出なかった」 「急にどうしたの。今日は素直だね」 「だって、知り合って三週間しか経ってない患者の実家に行くなんて、普通ないじゃん。付いてきて欲しいなんて言って、図々しかったかなって」  言ったそばから、言葉尻が自信なげに消えていく。実家が近づくにつれ、美宇はこんな、自分の存在自体が申し訳ないような様子を見せることが増えていった。  きっと、東京ではブランド品と高級コスメで覆っていた劣等感が、地元の匂いによって顔を出して、美宇を蝕んでいたんだろうね。  だから僕は、キャラじゃないってわかっていたけど、できる限り元気な声で言った。 「全然! 美宇の力になれるなんて光栄だね!」  効果があったのかはわからないけど、美宇は相変わらず車窓に視線を飛ばしながらも、ふっと頬を緩めた。 「先生は、ほんとにお人好しなんだから」 「そうかもね」 「そんなだと、うちの親に会ったらびっくりしちゃうよ? あたしのことなんて、これっぽっちも考えてくれないし、妊娠のこと話してもなんて言われるか」  これは想像でしかないけど、美宇は口ではそうやって最悪の想定を言いながらも、本当は両親に心配してもらえるんじゃないか、地元に帰ってきて一緒に子供を育てようって言ってもらえるんじゃないかって、僅かな希望を抱いていたような気がするんだ。  だって、僕に色々言ってはいたけど、美宇は一度だって、親を嫌いだとか憎んでいるだとか、そんな憎悪の言葉を吐くことはなかったから。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

137人が本棚に入れています
本棚に追加