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だけどやっぱり、そんな微かな希望は打ち砕かれてしまった。
「このっ……恥知らずがっ!」
美宇の父親は話を聞き終わるや否や、黒々と豊かな髪を逆立てんばかりに激昂した。
「体を売っていただけじゃなく、妊娠までしてその子供を産むだと!? 許されるわけないだろう、そんなこと!」
鼓膜をビリビリ震わせる怒号に、僕は思わず耳を塞ぎたくなってしまった。
一方、美宇はというと、頭を下げたまま、微動だにしていなかった。きっと、こんな時はただただ黙して耐えて。そうやって美宇は生きてきたんだろうね。
「今すぐ! 子供を堕ろせ!」
父親は怒りに任せてダイニングテーブルを叩く。先週取ってきたばかりの母子手帳が宙を舞うのを、僕は呆然と見ていた。
「お前は出来損ないだと思っていたが……本当に俺を失望させるのが好きだな!? そんなに、俺の顔に泥を塗りたいのか!? そんなに、葛西家を貶めたいのか!? 育てた恩を仇で返すんだな、お前は!」
ここに来るまで、僕は、なんだかんだ言っても血の繋がった親なんだから、真っ先に美宇の体調を心配するんだと思っていたんだ。
怒ったり悲しんだりするかもしれないけど、それだって美宇のことを想ってのことだろうって。だって、それが親ってものだろう?
だから、僕は耳を疑ったよ。
娘の体を心配するどころか、自分の名誉や体裁を貶めたと責め立てるなんて。
「――っそんな言い方って」
あんまりだと思ってつい口を挟むと、血走った眼が僕を捉えた。髪と同色の太い眉のすぐ下でぎょろりと動く大きな瞳は、美宇とそっくりの丸い形をしていた。
「大体、なんで医者がついてくるんだ! あんたは俺の娘の何なんだ?」
「僕は産婦人科医に過ぎませんが、美宇さんの良さを知って、個人的に彼女を支えたいと思っている者でもあります。お父様、美宇さんも苦しんで、悩んで、決めたことですよ? それをそんな風に責めるなんて」
「俺が俺の娘にどう接しようが、俺の勝手だ!」
木の幹のように太い首から威圧するように発される大声に、僕の体は無意識にびくっと反応してしまう。
「もういい、先生。わかってたことだから」
「美宇」
俯いたまま、美宇は僕の袖を引っ張った。
「お父さん、あたしのことは許さなくてもいいです。縁を切られても仕方ないことをしたって、反省しています。けど、お腹の子だけは、この子だけは、見捨てないでください。お父さんの孫なんです」
ゆっくり、美宇は面を上げる。その顔は苦悶に歪んでいた。
「この子が生きるための、お金をあたしにください」
……うん。
この時の美宇の葛藤に思いを馳せると、僕は未だにいたたまれない気持ちになる。
どれだけ悔しかっただろうね。自分を否定して責めるだけの父親に、援助を懇願しなければならないなんて。僕と出会ったばかりの頃の美宇なら、すぐに怒りだして、出て行ってしまっただろう。だけどきっと、子供のことを思えばこそ、ぐっと我慢できたんだろうね。
言い返したい気持ちを抑えている証拠のように、僕の袖を引っ張る細い指は、プルプルと小刻みに震えていた。
美宇の嘆願が届くようにと、僕も歯を食いしばって頭を下げた。
けど、
「お前は救いようのない阿呆だな」
そんな切なる望みすら、やっぱり届くことはなかった。
「誰が産んでいいと言ったんだ? そんな穢れた子供を産む前提で話を進めるな!」
父親が椅子から立ち上がった拍子に、地べたに転がっていた母子手帳が踏みつけられた。表紙に描かれた赤ちゃんの無垢な笑顔が折れ曲がって、泣いているような悲しげな表情になっていた。
「今すぐっ、子供を、堕ろせ!」
父親の発する心無い一言一言が鋭いナイフのように心臓を抉る。僕の袖に掛かる力が激痛に耐えるようにぎゅっと強くなって――
僕の視界が真っ赤に染まった。
「――そろそろ、黙ってくれませんか」
「あ?」
「ぎゃーぎゃー騒ぎ立ててみっともない。そろそろ、暴言しか吐かないその腐った口を閉じろって、言っているんです」
気が付くと、僕はゆらりと立ち上がっていた。燃え滾るような怒りで体の裡から発火してしまったかのようで、熱くて、苦しくて、どうしようもなかった。
「せっ、先生?」
美宇が唖然とした表情で見つめていたけど、気にかけてなどいられない。
「子供を産むかどうかは、美宇が決めることです。あなたに決定権なんてないんです、これっぽっちも」
喉から流れ出す低い声は、冷淡な口調なのに、自分でも怖くなるくらいに憤怒に染められていた。
それほどに、僕は激怒していた。
美宇の気持ちを蔑ろにした父親に。
美宇の子供を貶した父親に。
父親の足元から母子手帳を掬い上げて、丁寧に皺を伸ばす。多少不格好にはなってしまったけど、赤ちゃんは再び、温かく微笑んでくれた。
こめかみの血管を神経質にピクピク膨らませ、父親が殺気立って僕を睨めつける。
「なんだと!? 俺は父親だぞ!? たかが医者風情が家族の問題に口を出すな! 他人が首を突っ込むな!」
「他人じゃない!」
頭に血が上って、言葉が条件反射で飛び出していた。それはまるで、僕自身が認識する前に、感情が己の意思で突進していくみたいだった。
僕は、僕の激情の操り人形になっていて、大きく息を吸った次の瞬間、こう叫んでいたんだ。
「美宇はっ……僕の妻になる女性だ!」
だから、今となっては恥ずかしいこの言葉だって、この瞬間の僕は叫んだ自覚すらなかった。
僕が僕の放った言葉の意味を理解した時には、その場にいた全員が奇妙な形相で固まっていて、絶叫の余韻だけが所在なげに身を縮めていた。
顔から血が引いていく、っていうのはまさにこのことだと思ったよ。さぁぁぁって頭から熱が落ちていくのを文字通り感じたよ。
まさか、まさか僕が。こんな大それたことしてしまうなんて。変な入れ知恵をした星野を恨んだよ、この短期間に二度目だね。
青ざめる僕と反対に、美宇の色白の頬はどんどんと紅く染められていって、熟れすぎた林檎のようになってしまった。
「っ、ククッ」
膠着状態を破ったのは、いつの間にかまた椅子にふんぞり返っていた父親が、意地悪く鳴らした喉の音だった。
「つまりあんたは、自分の子でもない赤ん坊ごと、そのろくでもない娘を嫁にすると。そう言いたいわけか?」
父親は、美宇に太い人差し指を向けながら問いかける。娘の指とは似ても似つかない、短くて不格好な指だった。
言い回しは気に入らないけど、僕が宣言したのは結局、そういうことだった。
「え、えぇ」
「正気か? まだ若いだろうに、そんな失敗作を引き取ろうだなんて。こちらとしても厄介払いできて願ったりだがな」
この段になって僕はやっと、大きな勘違いをしていたことを思い知った。
僕は、親というものは怒っても叱っても、たとえ暴力を振るったとしても、子供のことを愛しているのだと思っていた。間違ったやり方でも、子供を傷付けても、彼らなりに子供を想っているのだと。
美宇の父親だって、自分の名誉や体裁を貶めたと怒鳴りつけてはいても、それは感情的になって口が過ぎてしまっただけで、最後には美宇のことを想っている素振りをどこかで見せるんじゃないかって。
でも、そうじゃなかった。
ふん、と僕を鼻で嘲る男は、娘のことなんてこれっぽっちも愛してなどいない。ただただ、子供を自分の所有物かのように扱い、いらなくなれば捨てる。
もはや、美宇の父親とすら呼びたくはなかった。
「失敗作?」
自分の思い通りにならない子供は、出来損ないだと、失敗だと烙印を押して見限る。そんな真似をするこの男に、親としての愛情なんてあるはずなかった。
「あなたは、子供を自分の作品か何かだって誤解していませんか? そんなわけないでしょう。美宇は、意志を持った一人の立派な人間です」
「先生……!」
「美宇は、素直で真面目で努力家で、僕のことを救ってくれた、素晴らしい女性です。そのことに気付けもせず、彼女を見下すあなたは父親だと名乗る資格すらない。あなたのような人に、援助を願い出たこと自体が間違いでした。彼女と彼女の子供は、僕が支えます」
そこまで一息で言い切ると、勢いそのままに僕は美宇の手を引いた。
「行こう、美宇。もう話すことなんかない」
「えっ、えぇっ?」
まだ顔を赤らめたままの美宇は、それでも自分の肉親を名残惜しげに一瞥した。このまま席を立ってしまえば、もしかしたら今生の別れになるかもしれないと予感したのかもしれない。
でも、父親は美宇と目も合わさず無感情に言い棄てた。
「金輪際、この家の敷居を跨ぐな」
ああ、やっぱり。
「帰ろう、美宇」
大きな瞳を失意で揺らす美宇を、僕は半ば引きずるようにして外まで連れていった。
美宇自身、親との関係が決定的に壊れるかもしれないとは重々承知していたはずだ。だからこそ、行きの車中であんなにも不安がって、怯えていたんだろう。
でも、こうして面と向かって拒絶されるのは、さすがにきつかったんだと思う。
放心したように浅く呼吸する美宇は、儚くて今にも消えてしまいそうで、僕は一生懸命に薄い肩を抱いた。
大丈夫、僕がいるから、って。
「美宇っ!」
動くこともままならない美宇を抱えて車までなんとか辿り着いた時、その人は初めて声を上げた。
「おかあ、さん……」
「どうしてっ!? どうして、こんなことになるのっ!?」
美宇がお腹の子のことを話している時も、父親が激昂している時も、そして僕が言い返して立ち去った時でさえ、亡霊のように父親の側に控えて、一言も発しなかった美宇の母親。
その人はシミだらけの顔を歪めて、美宇に掴みかかった。
「なんで、あんたはいつもそうやって、私たちを失望させるのっ!?」
力任せに美宇を揺さぶって、わあわあと泣き散らかす姿はなんとも醜かった。
「お前の育て方が悪いって言われるお母さんの気持ちも考えてよ!? あんたは昔からそう。私、何度も言ったじゃない! お父さんには逆らわないでって!」
「ごめんなさい、お母さん」
グラグラとなすがままに揺れる美宇から、魂の消えた謝罪が零れ落ちる。
僕は悲しくなった。
この人もまた、美宇のことなんか想っちゃいない。可愛いのは自分だけだ。
「どうして、親の言うことを聞けないのっ!?」
母親の皺だらけの手が、美宇の頬に一直線に向かう。僕は咄嗟に、その手をバチンッと払った。
「――っ!」
鋭い殴打音が乾いた空気を裂く。
やってしまった。僕がそう思った瞬間、涙と鼻水でぐじゅぐじゅに崩れた顔がみるみるうちに憎悪に染まっていった。
「痛い! 暴力男! お前なんかに大事な娘をやるもんか! 帰れ!」
母親の金切り声がキンキンと耳に刺さる。その怒り方が美宇によく似ていることに思い至って、僕は苦虫を噛み潰したような気持ちになった。
こんな真似をしていても、この人は確かに、美宇の血の繋がった母親なんだって。
「大事な娘、しかも、妊婦に手を上げるんですか?」
父親の時の爆発的なものとはまた違う、静かに燃え燻るような怒りが足元から僕を焼いていた。
「そんなの関係ない! お前さえいなければ、こんなことには、」
「違います。美宇さんが産むことをあなたたちが認めないから、美宇さんはあなたたちと縁を切るしかないんです。僕に責任転嫁しないでください」
「そもそも妊娠なんてっ、体を売るなんてっ!」
「お母様、あなた、気付いてましたよね? 美宇さんが昔からそういうことをしていたのを」
僕の言葉に母親は動きを止める。長年の苦労が偲ばれる白と黒のまだら髪は、パサパサに干からびて、もはや哀れだとも思えた。
「お父様ならともかく、女性のあなたなら、まだ学生の美宇さんが学費も生活費も全て自分で工面するなんて、水商売以外方法がないことはわかりますよね?」
「…………」
母親は黄色く濁った目を見開いたまま、身動ぎもしない。その様が僕の推測が当たりであることを、言葉よりも雄弁に語っていた。
しんしんに冷え切った大気の中で、僕たちは白い息をただ吐いて、数刻が過ぎる。
静止したままの僕を促したのは、意外にも美宇だった。
「先生、帰ろう。もう、ここには用はないから」
その声の冷たさに、僕は背筋が凍るような思いがした。
肩を掴む母親の手を振り払って、美宇は背を向けた。
霜をぱきりと踏みしめて、美宇は振り返らずに歩きだす。漆を塗ったような黒髪が、重力なんかないみたいにふわりと宙に舞い上がった。
「お母さん、今までありがとう。そして、さようなら」
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