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帰りの車の中。
美宇は一言も話さずに寝ていた。時々、辛そうに眉根に皺を寄せては、小さく乾いた唇を動かす。
僕は毛布を掛けてあげるくらいしか、美宇にしてあげられることはなかった。
「――ん」
一時間くらい走った後かな、美宇の睫毛がぷるり揺れて、ぼんやりと目を覚ました。
「起きた? まだ群馬出てないんだけど、そろそろ、」
「せんせ」
僕の言葉を遮って、美宇は微笑んだ。
「星が見たいな」
「あたしの名前ね、『美しい宇宙』って意味なんだって。親からもらった数少ない物の中で、一番気に入ってる物。だからかな、昔から夜空を見上げるのが好きだった」
「わかるよ、僕もだ」
「まんま、『宙』だもんね」
愉快そうに美宇の喉が鳴った。
深い木々に囲まれて僕たちが見上げた星空は、東京のものと比較にならないほど美しかった。いたずら好きの子供がでたらめに配置したみたいに、数え切れないほどの星が濃紺の空に撒かれていた。
「大丈夫?」
もっと気の利いた言葉でも掛けられば良かったんだけど、そこは僕だからね。散々考えた挙句、結局、無難な言葉で問いかけた。
「大丈夫、大丈夫。予想はしてたしさ。むしろ、あーんな誤解の余地が無いくらいに突き放されると、もういっそ、清々しいというか」
気丈に胸を張る美宇だけど、それが虚勢であることは、赤く腫れぼったい瞼が物語っていた。
でも僕はそれには触れなかった。
もう美宇が前を向いているなら、それでいいと思ったんだ。
「先生」
酸素をたっぷり含んだ美宇の声が夜に溶けていく。
「さっきの言葉、本気?」
「……なんのことかな?」
「もーっ、わかってるくせに」
すっとぼけても無駄なことは心得ていたけど、素直に認めるのは、とてもじゃないが恥ずかしくて無理だった。
でも、取り消すつもりもなかった。
「全く先生ったら。あんな大事なこと、ムードも何も関係なく言っちゃうなんて」
「しょうがないじゃん。あの時は無我夢中で、気が付いたら口走ってたんだよ」
ここがビル明かりも街灯もない、暗い森の中で良かった。
そうでなければ、耳まで真っ赤なのが美宇にバレていただろうから。
「でも、ほんとに本気なの? あたしを庇うために言ったんなら」
「僕があんなこと、その場しのぎで言えるほど器用に見える?」
美宇の周りの空気が弛緩したような気がした。そっと僕に身を寄せて、美宇は首を横に振る。
「そうだね。先生はそんなことできないか」
僕はごく自然に、自分が羽織っていた毛布を美宇の肩にも掛けた。僕の右半身は外気に晒されることになったけど、肌を刺すような冷気の中でも僕の右手はじっとり汗ばんでいた。
息を吸い込んで、
溜めて、
吐いて、
また吸って、
肺いっぱいの澄んだ空気を決意に変えた。
「僕と、結婚してください」
木枯らしがざあっと通り過ぎる。
僕も、美宇も、何も口にしない。常緑樹の葉が擦れる音だけがだだっ広い空間に反響していた。
「……先生さぁ」
永遠にも感じられた沈黙は、美宇の若干イライラを含んだ声音で破られた。
「ん?」
「だから! 順番吹っ飛ばし過ぎじゃない!?」
「じゅ、順番?」
左肩にもたれていた美宇の頭がぐるりと回転して、不機嫌そうな表情が露わになる。
「普通さ、告白して、付き合って、それからプロポーズなの! いきなりプロポーズする男がどこにいんのよ!?」
怪獣のように白い湯気を口から吐いて、美宇は僕に人差し指をびしっと突きつける。
言われてみれば、確かにそうだ。
プロポーズも初めてなら、異性に告白するなんてライフイベントも初めての僕は、焦燥で鈍る頭をフル回転させて、相応しい台詞をなんとか絞り出そうとした。
「そうだ、そうだね。えーっと、僕は、可愛くて一生懸命な美宇のことが、その、すー、す……」
「なんでそこでサラッと言えないの!? プロポーズはできるのに」
そんなこと言ったって。恥ずかしくて、恥ずかしくて、舌が発音を拒否するんだから、どうしようもないじゃないか。
「す…………きです。えー、だから」
「はぁ、もういいよ。わかったから」
美宇は呆れた口調で首を振る。僕自身、情けなさが極まって、顔を覆うしかない。
「えっと、返事は?」
聞きたくない気持ち半分で、指の間から外を覗くと、
「……せんせ」
透き通った美宇の声は、僕の目の前にあった。
いや、声だけじゃなくて、大きな丸い瞳も色白な肌も、薄紅の唇も全部、僕の目の前数センチと離れていないところにあった。
驚きで固まる僕の指を、美宇の細いそれが一本ずつ剝がしていく。
「こういうのは、初めて?」
美宇が喋る度、甘いホットココアの香りが鼻先を撫でる。
「あたしはね、初めて」
「え、うそ――」
僕の言葉は音になる前に、美宇の柔らかな唇に呑まれた。
嘘、がつけるほど、美宇も器用じゃないな。
美宇の瞼を走る青白い血管を見つめながら、頭の片隅で独りごちる。そして僕も思考を放棄して、瞳をゆるゆると閉じた。
満天の星空の下、僕たちは長い間、唇を重ねていた。
もちろん僕も、初めてのキスだった。
********************
ぽたっ、ぽたっ。
涙が止まらない。
何年も何年も封印してきた美宇との思い出は、甘美で残酷に胸を抉る。
一つ取り出しては苦しくなって、書いては涙が零れる。
それでも、僕はできるだけ正確に当時のことを書いた。どんなことがあって、その時に僕が何を思っていたのか。きちんと彼女に伝えたかったから。
いや、さすがに美宇とのファーストキスは書かないでおいた。きっと彼女が読んだら、恥ずかしくなって怒り出すだろうから。
それに、あの思い出は、当時の僕たちだけのものにしておきたかったからね。
涙を乱暴に拭って、僕はまた記憶の扉を開く。
重く、硬く、錆びついてしまった扉を。
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