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 師走に入り、僕と美宇は病院のほど近くにアパートを借りて、二人、いや赤ちゃんと三人で暮らし始めた。  美宇は料理上手だったから、家に帰ってくると毎日美味しそうな匂いが漂ってきて、空きっ腹に染みた。玄関を開けて笑顔の美宇に「おかえり」って迎えられると、心臓の裏側がきゅっと痒くなって、脳が蕩けそうになったよ。  幸せってこんな形をしているんだなって、しみじみ思う日々だった。  妊娠十九週を超えると、美宇のお腹は膨らみがうっすらわかるようになってきて、胎動もよく感じるようになってきた。 「きっと元気な子なんだろうねぇ」  美宇のお腹に手を当てるとポコポコ感じる愛しい刺激に、僕は相好が崩れて仕方なかった。 「ね。このまま元気に育って、何事もなく生まれてくれるといいんだけど」 「今日はそのために来たんじゃないか、戌の日に」  引っ越しや新生活も落ち着いたこの日、僕たちは神社を訪れていた。遅くなったけど、妊娠五ヶ月の戌の日に行う安産祈願をしに来ていた。  神社で祈祷をしてもらって、元気な子が産まれますようにって絵馬を書いて。他のカップルに混ざって二人でこんなことをしていると、壮絶だったこれまでの出来事を忘れて、僕たちも赤ちゃんの誕生を心待ちにする、ごく普通の恋人同士なんじゃないかって思えてくる。  それにしても、赤ちゃんのことを想って準備をするって、なんて楽しいんだろう。  妊婦検診に訪れる人々が、どうしてあんなに幸せそうな顔をしていたのか、真の意味で理解できたよ。 「これ、ちゃんと巻いて、お腹冷やさないようにしないとね。赤ちゃんのために」  神社で祈願してもらった腹帯を取り出してえびす顔になる僕だったが、美宇は答えない。僕と同様、美宇も幸福の絶頂にいると思い込んでいたのに。 「どうしたの?」  僕が尋ねると、美宇はベージュのマフラーに顔を半分埋めてモゴモゴと応えた。 「先生は、赤ちゃんが大事なんだね」 「? 大事だよ。当たり前じゃない」 「そっか」  冬の風が無防備な僕の首をすり抜けて、皮膚に鳥肌を立てた。 「美宇、何かあったの?」  異性と付き合うことも、出かけることすら初めての僕だから、もしかしたら浮かれ過ぎて、何か美宇の気に障ることでもしたんじゃないか。  大体、美宇は僕と一緒に住んでいるけど、それは雰囲気に流されてのことで、僕のことなんか実は、これっぽっちも好きじゃないんじゃないか。  不安に駆られて足を止めると、美宇も立ち止まって曖昧に瞳を揺らした。 「先生、あのさ、この子のために結婚決めたんじゃない……よね?」 「へ?」 「だって先生、検診中もそれ以外の時も、赤ちゃんのことばっか。あたしのことは……」  冬の陽は落ちるのが早い。まだ午後四時過ぎだっていうのに、空はすでに群青色に塗り潰されていて、美宇の表情もよく見えなかった。 「えっと、」  怒られそうだけど、僕はその時の美宇の真意が全くわからなかったんだ。 「赤ちゃんのことばっかなのは、ダメなの、かな?」  恐る恐るお伺いを立てるけど、美宇はただ首を横に振るばかり。 「いいんだよ。職業柄、赤ちゃんが好きなのは知ってる。けどさ、あたしだって……」 「あたしだって?」 「もう! 察してよ! あたしだって、大事に……」  美宇の声は段々か細くなって消えていく。と同時に、その言葉の続きが脳内に点灯して、美宇の思いに気付けなかった羞恥がぶわーっと全身に広がっていった。 「それって、その、僕が美宇のことを大事にしてないから不満だって、そういう」 「だから! 口にしないでってば!」  なんてこった。  僕のことを好きじゃないんじゃないか、なんて。僕はどこまで人の気持ちに鈍感なんだろう。  美宇の握り拳がポカポカと僕の胸を叩く。狼狽した僕は、その冷たい手を咄嗟に掴んでしまった。 「待って」  何を待って欲しかったのかもわからず、僕は口走る。完全にノープランだった。散らばりそうな言葉を掻き集めて、必死に台詞を構築していく。 「えっと、僕、そんなに美宇のこと蔑ろにしてた、かな?」 「…………うん」  美宇はぽつりと呟いた。 「言葉も態度も、先生ってあたしのことほんとに好きなのかなって、怖くなる」  出会って一ヶ月で結婚まで約束した僕らだけど、この時はまだ、お互いのことをよく知らなかった。いや、知ろうとしている過程だった。  攻撃的で虚勢を張っていた美宇は、本当は自分にあんまり自信がない女性だとか、それは両親に愛された実感がないからだとか、そういうことにやっと、僕が気付き始めていた頃だ。  美宇という人間は、人に愛されることに慣れていなくて、それ故、人からの好意にとても飢えている。  そんな風に僕は感じた。口に出したら全力で怒られそうだから、胸に留めたけど。  なら、そんな美宇のことを好きな者として、僕がしなきゃいけないことは――  僕は掴んだままだった美宇の手をギュッと包んだ。  真冬の外気に晒されて冷え切った小さな手は、ピクリと戸惑うように跳ねたが、怖々とその力を抜いていく。  僕もこういうことは初めてだから、心臓が破裂しそうなくらいバクバク言っていた。けど、僕は美宇の夫になるんだからこれくらいスマートにできないとって、必死に平静を取り繕っていたよ。  なるべく自然に見えるように、っていっても多分ぎこちなくカクカクした動きで、僕は指を美宇のそれに絡ませていった。  小指、薬指、中指、そして人差し指。美宇の指は、その一本一本が細くて華奢で、なのにもっちりとした感触が心地良かった。  最後に親指を鍵でも閉めるように巻き付けると、美宇の親指も僕に縋るように張り付いて。まるで親を求める小さい子供のようだった。  愛しさで胸が、呼吸が、詰まったよ。  この子は、なんて可愛い女の子なんだろう。この子のことは、僕が守るんだって。 「好きだよ、美宇」  風の音に消されそうなほど微かな声だったけど、幸い美宇の耳に届いたみたいで、繋いだ手にきゅっと力が込められた。 「あたしも好き」  ちょっと拗ねたような言い方が、美宇の照れ隠しだってことくらい、僕でもわかった。  後から考えたら、美宇が僕のことを好きって言ってくれたのは、これが最初だったんじゃなかったかな。 「帰ろうか。外は冷えるね」  歩き出した僕らだったけど、その手は家に着くまで離れることはなかった。
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