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「いい人たちだったね、お義父さんとお義母さん」  実家を出て、僕たちは区役所へ向かった。  一月一日という日付が変わる前に、父さんと母さんが証人欄に署名をした婚姻届を提出するために。 「うるさいのがたまにキズだけどね」 「確かに。ずーっと喋ってたね」  助手席でクスッと笑う美宇は本当に楽しそうで、僕までポカポカ温かい気持ちになる。父さんと母さんのナイスアシストに、心から感謝したよ。  区役所の駐車場に車を停めて、僕はデジタル時計を確認した。  時刻は午後十一時過ぎ。今日中に入籍するための時間は、まだ十分にある。  僕としては一月二日になっても良かったけど、美宇が「元旦なら縁起もいいし忘れないでしょ」って拘っていたんだ。となると、元日を結婚記念日にすることは至上命令だった。  この幸せいっぱいな空気のまま婚姻届けを出したいところだったけど、最後に、僕は美宇に確認しなきゃいけないことがある。躊躇う気持ちを胃の奥底に押し込んで、僕は口を開いた。 「美宇」  僕の真剣なトーンに、美宇も笑みを消して居直った。 「本当に、中絶はしなくていいの? 本当に、美宇は子供を産んで、僕と共に育ててくれるの?」 「……何で今、そんなこと聞くの?」  エンジンを切った車内は耳が痛くなるくらいに静かで、微かな鼓動の音さえ聞こえてしまいそうな、そんな緊張感が漂っていた。 「あと数日すれば、中絶ができなくなってしまう。その前に、僕は美宇の覚悟を聞いておきたいんだ」  美宇は唇を引き結んで、フロントガラスを見据えていた。  言うべきか迷ったけど、僕は一応、言い添えた。 「それに、ね、結婚する前に聞いておくのも大事だと思ったんだ。たとえ今、君が中絶するって言ったとしても、僕は君の考えを受け入れるし、君と結婚したい気持ちも変わらない。産むのは美宇だから、美宇自身の意見を聞かせて欲しい」  ほんのちょっぴりね、気にしていたんだ。  美宇は、僕が美宇と結婚するのは、赤ちゃんありきだと思い込んでないかって。  赤ちゃんのために結婚するんじゃないって、ちゃんと否定はしたけど、美宇の自己評価の低さを思えば、今でもその疑いを払拭できていない可能性だってあるんじゃないかって。  もし今、これをきちんと確かめずに結婚してしまって、あと数日に迫った中絶できるリミットを迎えてしまったら。僕が結婚という形で外堀を埋めてしまったために、美宇は産みたくないって思っていても言い出せなくなってしまうんじゃないかって。  でも、それは杞憂だった。 「先生」  美宇はフロントガラス越しに穏やかに微笑んで、僕の手を自分のお腹に誘った。 「あたしの気持ちは、産むって決めたあの日から、全く変わってないよ」  ――トクン、トクン。  美宇の子宮を介して、確かな生命の息吹がじんわりと掌に伝わってきた。 「あたしの人生ね、挫折ばっかりで何者にもなれなかったけど、この子が変えてくれた。あたしの人生を意味あるものにしてくれた」  僕は思わず息を飲む。こうして母親の顔をする美宇は、美しくて輝いていて、触れるのを躊躇うくらいに神秘的だった。 「あたしは、あたしのために、この子を産んで育てる。これは絶対、変わらない」  母の決意を後押しするかのように、強い胎動が美宇の皮膚を揺らした。 「美宇……」  僕はなんて素敵な伴侶を迎えられたんだろう。そう感極まっていたら、 「もし先生と結婚しなくても、あたしは産んでたろうから、ご心配なく」  なんて、美宇は澄まし顔で付け加えた。 「ちょ、結婚直前になんでそんなこと言うの!?」 「えー? 先生ったら、あたしが先生と結婚できなくなるのが嫌で子供産むことにしてる、みたいな言い方するから、自信過剰だなーって」  ……いや、思ってたけど。自分でもなかなかに自惚れた考え方だと思ってたけど。もしかしたら、万が一、いや億が一くらいにその可能性もあるかなって! 「違うとはわかってたけどさ、美宇が僕のことそこまでは好きじゃないってわかってたけどさ、そんなこともあるかもしれないって期待しちゃって、だから、」  せーっかく担当医としてシリアスに装っていたのに、すっかり僕は、いじけただけの夫(予定)に成り果ててしまった。  いいさ、いいさ、と膝を抱える僕を突如、ふわりと暖かな感触が包んだ。  それが僕を抱き締める美宇の体温だと気が付いたのは、慈愛に満ちた声がごく近くから響いてからだった。 「先生。あたしって、そんなに先生のこと好きじゃなく見えるの?」 「そんなことはないけど。だけど、僕のどこが好きなのかとか、そういうのはわからないから」 「そうだよね、ごめん。あたしもあんまり口にしてないもんね」  耳元に流れ込む美宇の言葉が、言葉の主の心根のように素直なことに僕は驚く。これまでの美宇は強がりで、しかも物言いだってあまり優しいとは言えなかったのに。 「どうしたの? そんな殊勝になっちゃって。何か心境の変化でもあったの?」 「どうだろう。ただね最近、赤ちゃんのことを想うと心が穏やかになって、人に優しくなれるんだよね。だから先生にもちゃんと伝える。先生、」 「……うん」 「あたし正直ね、今まででも男の人から好きだって言われたことはあったけど、皆あたしの見た目とか上辺が好きだったの。でも、先生は違う。あたしの性格とか、頑張ってきたとことか、そういうとこを知って好きだって言ってくれてるでしょ?」 「うん。そうだね、僕は美宇のそういうところが好きだよ」  美宇の素直さ、真面目さ、努力家なところ。見た目だって好きだけど、僕が好きになったのは美宇の内面だって、それは胸を張って言える。 「だからね、あたしは、そうやってちゃーんと人の中身を見て、評価してくれる先生のことが、好き。先生を好きになって、妻になれるのは、すごく、すごーく幸せなことだよ。ありがとう」  ちょっぴり照れているのか、目の端に映る外耳は赤みを帯びていた。  僕はただただその言葉が嬉しくて、天にも昇りそうで、愛しいその耳にそっと唇を付けた。 「僕も幸せだよ。僕を好きになってくれて、僕と結婚してくれて、本当にありがとう、美宇」  こうして僕と美宇は、年の始まりと同時に、夫婦としての生活もスタートさせた。
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