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 寒い冬を過ぎると美宇のお腹はいよいよ風船のように膨らんできて、妊娠後期に突入した。この段階になるといつ生まれてもおかしくない。美宇は日常生活を送るにも、転ばないように、無理をしないように、ストレスをためないように、と細心の注意を払うようになった。  それまで断続的に続けていた居酒屋のバイトも辞めて、ついに大学にも休学届を提出した。 「学校もなくて、バイトもなくて。こうなると、あたしってただの専業主婦なんだね。なんか時間がいっぱいあって変な感じ」  桜の絨毯を空色のスニーカーで踏みしめながら、美宇はそう言って僕に腕を絡ませた。  暖を取るため、転びそうなときに支えてもらうため。僕と散歩に行くと、美宇は何かにつけ僕と密着してきた。警戒心の強かった猫が懐いた途端すり寄るような、その仕草が僕は嬉しくて、その身をぎゅっと引き寄せて、痺れるような幸福を存分に味わっていた。 「今までが忙しすぎたんだよ。昼間は勉強して、家事して、夜にバイトに行ってなんて、よく回してたよね。それでちゃんと三年生に進級できてるんだからさすがだよ」 「まー、それほどでもあるかな」 「これからはゆっくりしよう。赤ちゃんが生まれたら、そんなこと言ってられなくなるんだから」 「そうだよね。あと三ヶ月くらいで生まれてくるなんて、まだ実感湧かないなー」 「僕もだよ」  僕が人の親になるなんて。理解して美宇と結婚して、赤ちゃんを迎える準備も着々と進めているというのに、時々、不安と期待とがないまぜになって、居ても立っても居られないような気持ちになっていた。 「あたし、ちゃんと立派なお母さんになれるかな? 自分の親みたいにはなりたくないな」  美宇の言い方は軽いものを装っていたが、その瞳は厳しく彼方を見つめていた。 「あたしは、この子を幸せにしたい。けど、本当にそんなことできるのかな。それが間違ってるってわかってるけど、あたしは、暴力と恐怖で抑圧する親子関係しか見てこなかったから」  そう言って、爆弾でも抱えているみたいに心臓のあたりをきゅっと覆った。 「美宇、そう思ってるなら大丈夫だよ」  だから僕は、勇気づけるように小さな手を握る。 「刷り込まれた考えを正すのは簡単じゃない。けど、自覚して、向き合っていれば。きっと、美宇が体験してきたものとは全く違う関係がこの子とは築けるよ」 「そうかな?」 「うん。だって美宇は努力家だもの。それに僕がいる。二人で一緒に、一歩一歩、立派な親になれるように頑張ろう」 「ふふ、先生がいるもんね。そうだよね」  美宇が僕の手を握り返す。そして桜吹雪に黒い髪を翻して、それはそれは、綺麗な笑みを咲かせた。 「二人一緒なら、大丈夫だよね」  この時、僕は確かに、美宇とずっと一緒に居られるって、二人でお腹の子を育て上げるんだって、そう信じていたんだ。  脆く儚く散りゆく花の下で、なんの確証もないのに、そう、信じて疑わなかったんだ。    こうして穏やかに季節は過ぎ、春になり梅雨になり、七夕の夜。六時間の陣痛の末に、美宇は元気な女の子を出産した。  担当医を父さんに譲り、夫として立ち会った僕だったけど、幸いにも安産だったお陰で、美宇の腰にテニスボールを押しつけるくらいしかできることはなかった。  それよりも、痛みのあまり叫びながら新たな生命を産み落とした美宇の姿に噎び泣きが止まらず、顔中涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、僕は美宇の手を握った。 「美宇ぅ、頑張ったねぇぇ」 「宙先生、ちょっと邪魔! 今、点滴刺してるんだから!」  安藤さんに怒鳴られたって、ちっとも気にならなかった。それくらい感激してしまったんだ。  仕事で何度も出産に立ち会ったけど、自分の子供の誕生っていうのは、やっぱり全然違ったよ。  もちろん、どんな出産だって、本心から頑張れって妊婦さんとベビーを応援していたし、時には会陰切開したり帝王切開したりと、医師として必要な処置を行なって助力していた。  ベビーが誕生した瞬間には「おめでとうございます」って、頑張ったお母さんとベビーを祝福しながら、僕自身も嬉しくてマスクの下でニコニコしていたくらいだ。  けど、いざ妻の出産となると、そんな冷静じゃいられない。  陣痛の波が来る度に、赤ちゃんが産まれるって期待と、こんなに苦しそうだから、もしかしたら美宇も赤ちゃんも急に容態が悪くなるかもしれない、なんて不安がせめぎ合って。時間が経つほどに、心配で押し潰されそうになりかけて。「頑張れ頑張れ」って呪文みたいに口走って、祈るような気持ちで美宇の手とテニスボールを握るだけだった。 「ちゃんと呼吸して!」って安藤さんと母さんは非情にも言うけど「無理ぃぃ!」って金切り声を上げて、美宇は脂汗を浮かべていた。  辛そうな美宇を見ていられなくて「やめて! 美宇と赤ちゃんに無理させないで! 楽にしてあげて!」って懇願せずにはいられなくて、二人に何度、気が散るからやめてくれって怒られたことか。  こんなことなら美宇を説得して、無痛分娩にしておけば良かった。そんな後悔もした。見ている方がこんなにしんどいなんて、出産が始まるまでは想像もしていなかったんだ。  僕があんまりにも狼狽えて、うるさくて邪魔だからって、父さんにつまみ出されそうにもなったっけ。  理解しているつもりだった。けど、自分の最愛の女性が出産する姿を目の当たりにして、僕は心の底から思ったよ。  まさに出産は命懸けで、あんな壮絶な闘いの果てに愛しい我が子を誕生させてくれた美宇には、もう一生、頭が上がらないなぁって。  そんな僕の感慨を知ってか知らずか、美宇は酸素マスクを付けて弱々しく笑っている。  その剥き出しの胸には、たった今、産まれたての赤黒い新生児がスヤスヤと眠っていた。  初めて地上に出てきて、不慣れな呼吸をパクパクしている口。美宇の人差し指にペタンと巻き付く極小サイズの手。全てが愛おしくて堪らなかった。 「せ、んせ」  掠れた声で美宇が僕を呼ぶ。 「あたしが、名前、付けていい、かな?」  自分でも驚いたんだけど、実はこの瞬間まで、僕ときたら赤ちゃんの名付けのことをすっかり失念していたんだ。  なんでだろう。あんなにオムツやチャイルドシートを買って、肌着を洗濯して、受け入れる準備は万全だったのに。肝心の名前を考えることを忘れていたなんて。  きっと、僕にはその権利はないって、無自覚に悟っていたからなのかな。 「あ、あぁ! もちろん!」  カタカタ震えが止まらない美宇の手を強く握って、僕は何度も首を縦に振った。 「美宇が命を削って産んだ、美宇の子供なんだから!」  そう。僕は赤ちゃんの父親だけど、生みの親じゃない。一番の功労者であり、最も名付けの権利を持つのは美宇だって、そう思っていたんだろうね。  美宇は目を細めて、濡れた睫毛を揺らした。 「美しい、宇宙の間に生まれた子。だから、星奈(せな)。ずっと、光る星って意味」 「美しい宇宙……」  それは、つまり、「美宇」と「宙」のことに相違なかった。  この時の僕の感激は、どんなに言葉を尽くしたって表現し切れないだろう。  美宇は、美宇が産んだ子供を、僕との子だってそう示してくれたんだ。これ以上ないほど、最高の形で。  目頭が熱くなって、もう散々流し尽くしたはずの涙がまた溢れ出すのも、仕方ないよね。 「星奈。せ・な」  舌に乗せて転がすと、その響きはすっと空気に馴染んでいった。 「いい名前だね」 「でしょ?」  ふふっと笑みを零して、美宇は潤んだ目で我が子を見下ろした。 「星奈」  美宇の瞳からポロリ落ちた透明な涙は、ダイヤモンドみたいに燦燦と輝いていた。 「星奈、……星奈」  息も絶え絶えなのに、美宇の口は娘の名前を何度も発音する。そうせずにはいられないかのように。 「星奈、世界で一番、大好き」  生まれた瞬間に新婚の夫をダッシュで抜き去って美宇の最愛を攫うなんて、大した娘だね、僕たちの娘は。  愛妻家の夫としては寂しいけど、この圧倒的な可愛さと愛おしさの前ではどうしようもなかった。 「星奈。パパも、星奈が大好きだよ」  だって僕も頬が緩み切ってしまって、しばらくの間戻りそうもないんだから。 「宙! そろそろ美宇さんから離れろ! 処置がし辛いったらないだろ!」  そんな家族水入らずの幸せに浸る僕に、父さんから叱責が飛ぶ。  でも、かく言う父さんだってマスクの下はデレデレで、初孫の可愛すぎる姿を何度も何度も確認しては、処置をする手を止めて目元を拭っていたことを僕は知っている。  こんなに幸せで、感動して、涙が止まらないことがあるなんて。  ふにゃあ、と緊張感のない欠伸を繰り返す星奈をカメラに収めながら、僕はまたぼやける視界を拭っていた。 ********************  この手紙を書くまで、美宇との日々はなるべく思い出さないようにしてきた。  いや、思い出せなかった。  辛いことも苦しいこともあったけど、それを乗り越えて、確かにお互いに想い合っていたあの幸福な日々は、息ができなくなるくらいに甘くて切なくて、思い出してしまったら、もうそこから一歩も動けなくなってしまいそうだったから。  だから僕は、美宇の動画も写真も何一つ、見ることも聞くこともできなかった。自分に禁じていた、と言ってもいいだろう。  唯一、星奈が生まれた日の物を除いて。  ボールペンを一度置いて、僕は古びた写真を取り出す。  生まれたばかりの星奈の写真。  記憶の中では世界一可愛い宇宙人なんだけど、ちゃんと写真で見ると、温泉上がりでホカホカの赤黒いお猿さんのようにも見えて、それでも愛しさが湧いてくるから、星奈はすごいね。  幾度となく見過ぎて手垢まみれのその写真の裏には、あの日、夢見心地のまま書き殴った、乱雑な僕の文字が踊っている。  美宇、ありがとう。頑張ってお腹で命を育んで、星奈を産んでくれて。  星奈、ありがとう。僕と美宇の元に来てくれて。  僕をパパにしてくれて、二人とも本当にありがとう。  照れ臭くて、彼女たちに直接言ったことはないはずだ。  でも、きちんと伝えるべき言葉だったと、今ならわかる。後悔なんてしても遅すぎるのに。  だから僕は、自分ではもう暗記するくらいに見つめたこの言葉を、今一度、手紙に記した。  口では素直に言えなくて、文字なら言えるなんて。  僕は本当に難儀な男だね。
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