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 星奈はとても愛らしい子だった。  美宇に似て色白で、大きなまん丸お目目で、長い睫毛がふさふさ揺れていて。  黒くて細いサラサラの髪の毛は、お昼寝をすると汗びっしょりになって、必ず寝癖がついていた。でもどんなに汗をかいても、柔らかくてほっとする匂いが星奈の頭からは漂っていて、僕はそれを嗅ぐのが習慣になっていた。  生まれた頃から抱っこが大好きで、どんどん重くなっても両手を広げて抱っこをせがまれると、僕はイチコロだった。後で腰が痛くなって後悔するんだけど、星奈にせがまれると、そんなこと忘れてすぐ抱き上げちゃうんだから、恐ろしいよね。  いつもニコニコして、好奇心旺盛でなんでも口に入れて。ダメって美宇に怒られると、五体投地して不満げに泣き喚く。そんなわがままお姫様な姿すら、可愛くて堪らなかった。  僕は、星奈といる全ての瞬間が嬉しくて仕方なかった。  くさーいオムツを替える時も、イヤイヤされるお着替えの時も、興味津々に乳首をつままれるお風呂の時も。  星奈と過ごす一分一秒がキラキラ輝いていて、星奈の一挙手一投足を少しも見逃したくなくて、瞬きするのすら惜しかった。  でも、お金は稼がなきゃいけなかったから、後ろ髪を引かれながらも病院に出勤して、仕事が終わるや否やアパートに飛んで帰っていた。美宇が止めるのも聞かずに寝室に突入して星奈を起こしてしまって、何度、美宇に叱られただろう。  でもね、睡魔に襲われながらもなんとかもう一度寝かしつけて、隣で眺める星奈の寝顔は、これ以上尊いものなんてこの世にないんじゃないかって思うくらい、可愛くて愛おしくて、いつまでだって見ていられた。  そして、僕は毎回思うんだ。  今日、この瞬間を、いつまでも脳裏に刻み付けておきたい、ってね。  美宇も美宇で、慣れない母親業に奮闘していた。  美宇は元々、負けず嫌いの頑張り屋さんで、それ自体は長所なんだけど、根を詰め過ぎるっていう欠点でもある。  僕が仕事をして稼いでいる分、家事も星奈のお世話も自分だけでやらなきゃって張り切って。でも寝不足になって、最後には、泣き止まない星奈を前に放心していた。 「あたしはやっぱり、母親としても出来損ないなんだ」  虚ろな目で呟く姿に、一人でできると言う美宇に甘えて、任せきりにしてしまっていたことを僕はとてつもなく反省した。  知っていたはずじゃないか。美宇が意地っ張りで、人に甘えるのがとても苦手だってことを。  出来損ない。失敗作。  そんなレッテルをもう貼られないようにと頑張り過ぎて、時に間違ってしまうことを。  そう。これまでの人生で美宇に穿たれた杭は太く、美宇を縛り付けていた。  美宇と育児を共にするというのは、そんな固く喰いこんだ呪いのような自己否定を一つ一つ解していくようなものだった。  わあぁ、と爆発する度に、僕は美宇を強く抱き締めて「大丈夫」と、「なんでも最初から完璧にはできないよ」と言い聞かせた。  根気強く美宇と話して、僕ができることは代わったりもした。星奈の夜泣き対応や掃除、洗濯などなど。星奈が生まれて数多ある良かったことの一つに、僕の家事スキルが上がったことがあげられる。料理は、どんなに場数を踏んでもてんでダメだったけどね。  でも結局のところ、美宇を救ったのはやっぱり星奈だった。  多分、星奈は、どんなに失敗しようと取り乱していようと、自分のためにママが一生懸命なことがわかっていたんだろうね。  新生児の頃は他の赤ちゃん同様、全く笑わなかった星奈。  だけど、生後二ヶ月の頃には、美宇を前にすると薄く笑みを浮かべるようになった。僕には無反応だったけど。  生後四ヶ月の頃には、美宇があやした時だけ笑い声を上げるようになった。僕があやすと号泣だったけど。  父親としては懐かれていないようで悲しかったけど、四六時中一緒にいて娘を一番に考えていた美宇のことを、星奈も自然と大好きになっていったんだろうね。言ってみれば、星奈から美宇への特大にして唯一無二のファンサービスだ。  だから、僕が心配したのも束の間、美宇は星奈からの好意をぐんぐん吸収して、内面からの肯定感と言うのかな、そういうものを身の裡に育めるようになっていった。  たまに、息抜きしてきたら? って僕が星奈を預かることもあった。美宇は喜んで出かけるんだけど、やっぱり星奈が恋しいと夕方前に半泣きになって戻ってきていた。  美宇は育児がしんどいよ、気分転換したいよって言っても、いざ離れてみると、星奈と一緒にいられないことの方がしんどかったみたいだ。それほどに、美宇は星奈に夢中だったんだよ。  星奈は大浦産婦人科医院でもアイドルだった。  父さんや母さんは星奈を見る度、溶けそうなくらいデレデレの笑顔で「せーちゃーん」って気味が悪い高い声で呼んでいた。安藤さんもすぐに星奈を抱っこしたがって、またその「安藤スペシャル抱っこ」が星奈もお気に入りで、控え室で二人して寝こけているのを何度か見たことがあったよ。  その一方、美宇のご両親とは完全に連絡が絶たれていた。 「産まれたら、報告だけはしようかと思ってたんだ。けど、」  星奈の細い髪を梳きながら、美宇はぎゅっと苦しそうに眉を寄せていた。 「あたし、やっぱり許せない。あの人たちのこと」 「……美宇」 「自分が親になれば『人の親になるってこんなに大変だったんだ』って親のこと見直せるかなって、そう思ってたけど逆だった。こんなに可愛くて、こんなに愛おしい星奈に、あたしはあんなひどい言葉掛けられないし、暴力なんて振るえない。体売って生活費稼ぐような真似、絶対させないし、そうならないように星奈にお金は惜しまない」  ぎゅっと握られた美宇の拳は、掌に爪が食い込んで白い跡がくっきりと付いていた。 「そんな仕打ちした人たちがあたしのこと大事な娘だなんて。反吐が出る。育てた恩を仇で返す? そうさせたのは、あんたら自身なのに!」 「うん、本当にその通りだ」  わなわなと震える美宇の拳を僕はすっぽり包んで、固く握られた指を一つずつ外していく。もうこれ以上、美宇には傷付いて欲しくなかった。  でも、美宇が両親へ憤っているのを目にして、喜ぶ心も僕にはあった。  美宇は美宇自身がそうやって貶められていることに怒っている。実の親であろうと、いや、親だからこそ、そうやって扱われるのはおかしいって思うことができるようになったんだ。  それは、美宇が自分を愛せるようになった証のように、僕には感じられた。 「こんなことってあるんだね。自分が親になったからこそ、親のひどさがわかるなんてね」  僕も頷く。よくある美談では真逆だもんね。親になれば、親の苦労がわかるっていう。  星奈のパパになって僕は、父さんと母さんの偉大さを実感する日々だった。でもそれは、父さんと母さんが人間として尊敬できる、という前提があるからだ。  親だから皆が皆、偉いわけじゃないし、親に感謝するかどうかは子供が決めること。  大人になって尚、関係を維持したいかどうかだって、お互いが決めることだ。だって、親子だろうとなんだろうと、所詮人と人の関係には変わりないんだから。  それは、星奈に対しても、僕は一貫して思っている。  子供だからって星奈を侮ってはいけない。彼女も、僕と同じ、尊厳を持った一人の人間で自分の人生を決める権利があるって。僕のことをどう思って、大人になった時に僕とどういう関係でいたいか、それを決めるのは星奈自身だって。  そんな慌ただしくも幸せな日々が続いて一年あまり。星奈が卒乳したことを機に、美宇はある決意をした。 「あたし、また大学に行こうと思う」  正直、僕は戸惑った。  だって星奈は、まだまだ手がかかるけど可愛い盛りで、そんな時期に学校に通うとなると保育園に預けなきゃいけない。そこまでして大学に行くのかって、そう思ってしまったから。  素直にそう言ったら、美宇は寂しげに笑った。 「そりゃ、あたしだって、星奈とはこれからもずっと一緒にいたいよ。大好きだし、星奈の成長を間近で見ていたい。けど、そう言ってどんどん歳を取って大学に復学するチャンスを逃したら、いつかあたしはそれを星奈のせいにしちゃう。そんなの嫌だよ。星奈に誇れる自分でいるために、大学は卒業したいの」  星奈に誇れる自分。その単語は、僕の胸にずっしりと響いた。  他人の目を気にして上辺を取り繕っていた美宇が、何が一番大事かって考えて、未来を見据えて動こうとしている。  それは全て、星奈がいるから。星奈のためだから。 「そっか。卒業後はどうするの?」 「司法書士とか、法律系の資格を取りたいな。ほら、今は先生の収入に頼りっぱなしでしょ? あたし、自分の力で稼いでみたいんだ。だから、ちゃんとした資格が欲しい。星奈を育てながら働き続けるんなら、資格職がいいかなって」  そうやって自分自身の未来を語る美宇の瞳は、希望に満ちていた。  あの日、中絶するしかないと絶望に暮れていた美宇に教えたい。  美宇、諦めないで。  未来の君は中絶もせず、子供を産んで育てて、再び大学にだって行こうとしている。  何一つ失くしちゃいない。むしろ、多くのものを手に入れたよ。  大切な娘の存在によって、自分に自信を持ってキラキラと輝いているよ、って。
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