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あの頃の僕は、駆け出しの研修医。 「大浦(おおうら)産婦人科医院の跡取り息子」、「次期院長」なんて言われていても、まだまだ勉強することも多くて、患者さん一人一人と向き合うだけで大変な日々だった。  そんなある日だった、美宇と出会ったのは。 「かーっ! 最近の若者は、なんで、あんなっ」 「院長、落ち着いてください。他の患者さんに聞こえますよ」  その日、午前の診察を終えた僕が控え室に戻ると、父さんが真っ赤な顔で怒り狂っていた。  父さんが感情的になるのは、家でも病院でも珍しくない。けど、ここまで患者さんに怒るなんてのはそうそうない。 「安藤(あんどう)さん、父さんどうしたの?」 ブラックコーヒーが波打つマグカップを片手に、僕は子供の頃から馴染みのベテラン助産師さんに小声で問う。 「あ、宙(そら)先生。それが、」 「宙! いいところに!」  安藤さんの声を遮って、父さんはずかずかと僕に詰め寄る。あまりの剣幕に、僕はつい後ずさりしてしまった。 「な、なに?」 「お前、もう午前の診察は終わったか?」 「終わったけど、お昼ご飯はまだ食べてな、」 「終わったな!?」  有無を言わさぬ大声に、僕はコクコク頷くしかなかった。 「よし! じゃあ、今、診察室2に来てる初診の妊婦、お前が担当してくれ」 「えっ!? でも初診って普通、院長が診るんじゃ」 「俺はもう知らん! 歳が若い者の方がわかることもあるだろ! 飯食ってくる!」  それだけ言い切ると、僕が止める間もなく、父さんは白衣を翻して去っていってしまった。アインシュタインみたいな白髪も相まって、白い台風が猛然と通り過ぎていったような、そんな感じ。 「……えーっと」  呆然とする僕。事情は定かではないが、何かとてつもなく面倒なことに巻き込まれたことだけは確かだった。 「宙先生、ドンマイ」  その直感を裏付けるように、安藤さんが僕の肩をポンっと叩いた。けど、僕は気付いていた。彼女が慰める様子を装って、そのまま僕の背を診察室2に押し込もうとしていることに。 「ちょ、ちょっと、安藤さん! 僕、今日こそは昼休みちゃんと取って『まるぱ』のラーメン食べに行こうと思ってたんですけど」 「あら、それなら私もお供するから、今日の昼は日清のラーメンにしましょうか!」 「〜! それって、カップラーメンコースってことじゃないですか〜!」  必死の抵抗も虚しく、僕のラーメンランチは儚い夢に消えた。  でも、今思えば、あの時「まるぱ」に固執しなくて良かったよ。いや、「まるぱ」のつけ麺は、僕にとって今でもご褒美には違いないんだけど。  だって、あの診察室に行かなければ、美宇に会うことはできなかったんだから。 「お、お待たせしました。院長に代わって担当します大浦です」 「宙先生。院長も大浦よ。大浦から大浦になってるわよ」 「安藤さん、それ指摘しないで。僕もわかってて言ってるから」 「敢えて言うなら、大浦(老)から大浦(若)とか」 「安藤さん、それ父さんにバレたらさすがにキレられますって、僕が」 「あのさぁ」  診察室に入って早々、コントのようなやり取りを繰り広げる僕たちに痺れを切らしたのか、尖った声が飛んできた。 「あたし、もう何分もここで待たされたのに謝りもしないの? ヘラヘラ喋ってるだけ?」 「あ、すみませ」  焦って頭を下げた僕の目にまず飛び込んできたのは、魔女みたいに先っぽがつんと上を向いたハイヒール。 「え?」  ここは、産婦人科医院。即ち、患者さんの大半は妊婦さんで、この患者さんも父さんの前情報によれば妊娠しているらしい。彼女たちは普通、スニーカーやぺたんこな靴ばかりを履いて診察に訪れる。だって転んだら、お腹のベビーの一大事だから。  だから僕はつい、この病院では希少な魔女靴の持ち主を拝もうと顔を上げてしまった。  丸椅子に足を組んで、不機嫌そうに腕を組んでいたのは、大きな丸い瞳と色白の肌が印象的な長い黒髪の女の子。女の子、と形容したくなるほど見た目は若そうなのに、派手な化粧と派手な服装、高そうなブランド物のバッグが必死にその幼さを隠していた。  その時、僕は思ってしまったよ。  勿体ないなぁって。  ナチュラルにしてれば、すごく優しげで可愛い子なんだろうにって。 「なに?」  しまった、と思った時には遅かった。  案の定、視線に気が付いた美宇は、不快そうに眉根を寄せて僕を睨んでいた。  その頃から僕は美宇のイライラ顔が苦手だったから、すぐに「なんでもないです!」って謝って、さっさと本題に入ることにした。余計なことは言わない方が吉だってね。 「えーっと、葛西(かさい)美宇さん。おそらく妊娠しているが、これまでに検診は受けてない、と。今日、うちに来院した理由は妊婦検診ですかね?」 「検診? なにそれ。さっきもジジイに言ったけど、あたしは子供堕ろしたいだけだから!」 「……え? は?」  何から何まで衝撃的な美宇の言葉に、僕はぴたっと固まってしまう。  だって「ジジイ」なんて、地味に控え目に勉学だけに勤しんできた僕のボキャブラリーにはなかったから。それに、その後に続いた言葉だって、なかなかに破壊力抜群だった。 「だーかーらー、子供できたけど産みたくないから堕ろす、って言ってんの!」  そんな僕に、美宇はお決まりのキンキン声で容赦なく鞭を打ってくる。脳に直接釘を打つような、そんな物言いだった。まだ、その美宇特有の喋り方に免疫がない頃だったから、怯んで何も言えなくなってしまうのも仕方ないことだろう。 「ったく、さっきのジジイと言い、耳でも遠いの?」  艶やかな黒髪を指に巻き付けながら美宇はそうボヤいていたけど、僕も父さんも決してよく聞こえなかったわけじゃない。本人にわざわざ指摘するような愚行はしなかったけどね。 「それは、つまり、中絶希望ってことですよね?」 「そうに決まってるじゃん。ちゃっちゃとやってくれない? 今日やっちゃってよ」  ここに来てようやく、父さんが僕にバトンタッチした理由を察した。  ベビーのことを何より大事にして、時に厳しく妊婦さんを指導してきた父さん。彼のような産婦人科医にとって、美宇のように軽々しく中絶を望む態度は到底許せるものじゃない。  きっと怒り心頭で、話もろくにせず出てきちゃったんだろうな。  ただね、僕は違う。  ベビーのことは大事だ。大事だけど、僕には僕の、産婦人科医としての信念がある。 「葛西さん、結婚はされてますか?」 「は? してないけど。だってあたし、まだ学生だよ?」  問診表を見ると、確かに職業欄には「大学生」とあった。医学部出身の僕からすると学生結婚はそんなに珍しくはないけど、当時の美宇はまだ二十歳。年齢も踏まえたら、確かに結婚している方が少数派だ。  気を取り直して、僕は質問を続けた。だって、美宇の問診表は基本的なステータス以外、空欄ばっかりだったから。 「そうですか。では、赤ちゃんのお父様に当たる方には、妊娠のことや中絶について相談しましたか?」 「……」  黙り込む美宇に僕は更に畳みかける。 「ご両親など信頼できる方には、相談しましたか?」 「…………」  今思えば、尋問のようでちょっと怖い聞き方だったかもしれない。でも、僕も必死だった。  なるべく優しく、親身に聞こえるよう尋ねたつもりだったけど、心臓はバクバクいって、油断したら声だって裏返りそうだった。  診察室に、しばらく無言の時間が流れた。 「それ、中絶するのに関係あんの?」  ようやく口を開いた美宇は、明確な拒絶を僕に示す。答えたくないって意思を全身から醸し出していた。  これは危険だなって、頭の中の警告ランプが点滅する。鼓動が一段と早くなって、額を汗が伝っていった。 「形式上は聞く必要ありません。ただ、人工中絶というのは、女性の心身共に多大な負荷をかける手術です。その手術を受ける判断は、安易に下して欲しくないという僕の思いから伺っています」  しっかりと、言葉を選んで伝えたつもりだった。僕は貴女の身を案じていますよ。だから、僕に貴女のことを教えてください、と。  けど、あの時の美宇には、残念ながらちっともわかってもらえなかった。  警戒の色を少しも薄めず、美宇は目を三角にしたまま、僕の言葉を一刀両断する。 「なにそれ、意味わかんないんだけど。で、今日堕ろせるの?」 「今日は初回なので診察のみです。診察をして何も問題がなければ、葛西さんに手術に必要な書類をお渡しします。中絶手術の日を決めるのは、この書類が提出されてからです」 「めんどくさっ。さっさと堕ろしてくれないかな。今さー、つわりのせいで大学通うのもバイトもしんどい時あるの。これもさ、取っちゃえばなくなるんでしょ?」 「……」  さすがにこの発言には、僕も言葉を失くしてしまった。  この日、診察中も美宇は終始こんな調子だった。  ベビーのことを「煩わしい荷物」扱いして、中絶のことだって虫歯の治療でもするみたいに軽く考えている。そんな風に感じてしまったのも、一度や二度ではない。  採血やエコーの補助で同席していた安藤さんが、今にも説教を始めそうになっていたから、僕は必死に止めていたけど、彼女の気持ちは痛いほどわかった。  せめて、エコーの画像を一瞬でもいいから見て欲しいって、その時の僕は思っていた。母に目も合わせてもらえないのに、健気に脈打つベビーが不憫でならなかった。  だから検査を終えた後、僕は諭すようにこう言ったんだ。 「赤ちゃんを堕ろすということは、本当に重い決断です。特に妊娠十四週の葛西さんは、既に中期中絶になってしまうので、入院をしていただいて分娩をする形になり、身体には相当ダメージを与えますし、取り出した胎児を見るのも精神的に堪えます。今一度、ご自分の気持ちと向き合って、じっくり答えを出してください」  もしも、美宇が妊娠十一週までに来ていれば、仮に中絶を選んでも日帰りもできるし、それ以降に比べれば痛みや出血も少なかった。でも、妊娠十二週を超えてしまうと、選べる中絶の手段は、強制的に陣痛を起こして流産させる方法になってしまう。体には負担がかかるし、何より「死産」扱いになってしまうことが精神的にきつい。  それでも、遅い時期の中絶になってしまった場合でも、それがたとえば配偶者との話し合いに時間を要した、ということなら、身体的負担は重くとも精神的負担は軽くなるかもしれない。一人で追い詰められて下した決断より、二人で考えに考えた決断の方が、中絶後も納得して前に進める可能性が高いからだ。  しかし、美宇はそのどちらでもなかった。  おそらく親や友人、そしてベビーの父親にも何か事情があって相談もせず、若しくは相談すらしていないのだろう。自分ただ一人で思い詰めた結果、やっぱり育てられない、と遅い時期の中絶になってしまったんじゃないか。そう予測した。  つまり、中絶を選ぶ状況としては、あまり適切とは言い難い。  少なくとも中絶というのは、その行為について相応の知識もなく、一人きりで考えて選んでいい選択肢じゃない。  このまま、美宇に押し切られて、中絶前提で話を進めてはいけないって、僕はその時に思っちゃったんだ。  そんな僕に、美宇は氷のように凍てついた声音でこう返した。 「産むなんて無理」  その無機質な瞳の中に、僕は確かに絶望の片鱗を見てしまった。  この時の僕は、詳しい事情も話さず中絶だけを望む美宇をどうにかしなきゃって思っていたんだ。せめて事情を聞いて、彼女の力にならなきゃって密かに思っていた。  けど、昏く沈む眼を見てしまったら、そんな思いがお腹の中で萎縮していくのを止められなかった。  たかが産婦人科医、しかも研修医の僕なんかに、一人きりで中絶を選ぶような状況にある女性を救えやしないって。  ねぇ、美宇。あの時の君は、どれほどの絶望を抱えていたのかな。  今、この結末を知っているからこそ、僕はあの時の美宇に会いに行って、少しでも未来を教えてあげたい。  この世にもしもはないからね、そんなことはできないんだけどね。
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