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「ってわけで、星奈はあと半年くらいで保育園行くことになりそうなんです」 「そうなの。それは寂しくなっちゃうわね。はぁ、せーちゃんが病院に来てくれる機会も減っちゃうのねぇ。私の癒しだったのに」  病院の控え室でその話をすると、安藤さんは切なげに手を頬に当てた。 「三人でゆっくりできるうちに、何か思い出でも作りに行った方がいいんじゃない?」 「それなんですけど、実は、美宇と結婚式を挙げようかと思ってるんです。もうドレスとタキシードのフィッティングも予約してて」  僕と美宇は、美宇が妊娠してから結婚しているから、結婚式をする暇もお金もなかった。  でも花嫁姿はやっぱり女性には特別だって言うし、何よりも僕自身が美宇のウェディングドレス姿を見たかった。  厳しい財政状況だけど、美宇が復学する前に、とどうにか予算を捻出した。 「あら、いいじゃない! 美宇ちゃんも喜んだでしょ?」 「うーん、それがあんまり」  僕もてっきり楽しみにしてくれるとばかり思っていた。が、美宇は困ったように眉をひそめて、微笑むだけだった。 「嬉しい。嬉しいんだけどさ、あたし、親も親戚も友達も誰も呼ぶ人いないから、ちょっと悲しくなっちゃうかも」  盲点だった。  確かに結婚「式」となると、セレモニーなんだから、出席者がいてこそとも思える。  僕としては二人きりでフォトウェディングでも良かったんだけど、意外と古風なところがある美宇は、やるならきちんと式をしたい、とそこは譲らなかった。  だから結果的には、僕の両親や大浦産婦人科医院の面々が列席することになるんだけど、それで本当に美宇は満足するんだろうか。自身の孤独を再確認させるような真似を、美宇に強いてないだろうか。  僕が迷いながら相談すると、安藤さんも難しい顔でコーヒーを口に含んだ。 「そう。それだと美宇ちゃんは寂しいかもね。何か別に、喜ぶこともしてあげたいわねぇ」 「喜ぶことって、たとえばどんなことですか?」 「そうねぇ、サプライズでプレゼントをあげるとか?」 「プレゼント?」 「アクセサリーとかはどうかしら? ほら、昔はあんなにブランド物好きだったでしょ?」 「うーん、どうでしょう。今の美宇は『星奈』の優先順位が一番高いですから」  昔のブランド品塗れの美宇からしたら想像がつかないけど、今の美宇は服を買おうにも「星奈に買ってあげたい」と自分のものは最低限しか買わない。ミニスカートにハイヒールを履いて、踵を高く鳴らして歩いていた女子大生は、いまやTシャツにジーンズのステレオタイプなママになって、嬉々として子供服を漁っている。  そんな美宇に喜んでもらえるものって、何があるんだろう。 「あーじゃあ、手紙とかは? ほら、美宇ちゃんに向けて書いてるけど、大人になった星奈ちゃんが読んでもいいような、さ」  口にしてから名案だと思ったのか、安藤さんはパンっと手を叩いた。 「そう、そうよ! 宙先生ってば、大事なことに限って照れて伝えないんだから」 「そ、そんなことないですけど」 「あら、プロポーズの時に好きだって言うのすら時間かかった、って聞いたけど?」 「……よくご存知で」  美宇は意外にも安藤さん始め、助産師さんや看護師さんと仲良しだった。だからこんな調子で、僕と美宇のプライベートが吹聴されているのはしょっちゅうで、僕たちファミリーの日常は、病院内では周知の事実だった。  でも、確かにいいアイディアだと思った。  美宇に対して、星奈に対して、感謝や愛情を日々感じているのに、気恥ずかしくて口には出せない。そうこうしているうちに時は過ぎ、想いというものは風化し色褪せていく。ならば、新鮮なうちに文字に認めておくべきだ。  そして僕は、手紙を書き始めた。  始めてみると、あれもこれもと書いておきたいことが溢れて、手紙の枚数がどんどん増えていって。自分でもびっくりしたんだけど、文章にすると素直な気持ちを言葉にできたんだよ。  僕は案外、物書きというものにも向いているのかもしれない。そう思ったこともあった。  こうして、コツコツと手紙を書き続けて半年。明くる日が結婚式、と押し迫った寒い冬の日だった。  美宇は口では「楽しみだね」と言いつつ、どこか浮かない表情をしていた。結婚式も復学も決めたのはいいものの、美宇の中でまだ躊躇いがあったのかもしれない。星奈を保育園に預けることにも罪悪感があったのかもしれない。  僕はそんな妻の不審な様子に気付いていたけど、敢えて尋ねることもしなかった。僕は口下手だし、この際、手紙で背中を押せば十分だと思ってしまったんだ。  この判断を、僕はその後ずっと後悔し続けることになるなんて、まだ知る由もなかった。  いつも通り星奈の寝かしつけを終えて、リビングに戻った美宇が突如声を上げる。 「あ」 「ん? どうしたの?」 「星奈のオムツ、もうすぐ切れそうだったのに買ってくるの忘れてた」  そんなことは初めてだったから、僕は首を捻りながらもこう提案した。 「あー、じゃあ明日の朝、僕が買ってくるよ。美宇は花嫁だから準備に時間かかるだろうけど、僕なら手が空く時間もあるだろうし」 「ダメ。もう明日の朝の分もないから、今買いに行かないと」 「えっ? 今から?」  僕は携帯電話の時刻を確認する。  午後九時過ぎ。買い物に行くにはちょっと遅い時間だった。 「なら僕が行くよ。夜道は危ないし」 「いいって、いいって。先生、仕事帰りで疲れてるだろうし、一番近いドラッグストアに行くだけだから」 「そう?」  実はこの時、自分から申し出たものの、次の日にサプライズで渡す予定の手紙がまだ書き上がってなくて、時間が惜しいと思ってしまったんだ。 「うん、あたしのミスだから、あたしに挽回させてよ」  だから美宇が断ってくれた時に、大して粘りもしなかった。  まさか、この手紙が美宇に渡す機会も読んでもらう機会もなくなるなんて、誰が想像しただろう。 「ていうか美宇、そろそろ先生って呼ぶの変じゃない? もう美宇は僕の患者じゃないんだよ?」 「えー? じゃあ何て呼ぶの?」 「パパ、とか? ほら、星奈さ、ママは発語したけどパパはまだじゃない? これって、パパって単語を耳にする回数が少ないからじゃないかな?」 「関係あるかなー?」  これはこの頃、密かに悩んでいたことだった。星奈はママっ子で、いつでも「ママママママ」と美宇にまとわりついていたけど、僕には塩対応で「パパ」とさえ呼んでくれなかった。  気にしないつもりだったけど、やっぱり血が繋がっていないから父親として認めてもらえていない気もしてしまって、なんだか焦っていたんだ。 「まー、いっか。じゃあ、行ってきます」 「うん、行ってらっしゃい」 「すぐ戻るからね、パパ」  自分から言い出しておきながら、美宇の呼称になんだか背中をムズムズさせながら、僕は美宇に手を振る。  でも、すぐ慣れるだろう。だって、僕と美宇はもう一年半も「パパ」と「ママ」だったんだし、これからもそうなんだから。僕はそう、自分に言い聞かせた。  美宇は携帯電話と財布だけを持って、そそくさと出かけていった。いつもと変わらないベージュのマフラーを首に巻いて、長い黒髪を凍てつくような朔風にはためかせて。  そして、美宇が戻ることは二度となかった。
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