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 そこで彼女は手紙を読む手を止めた。  読むのは二回目だし、そもそも、この続きの出来事は彼女の記憶にだってある。  それに、そこから先の文字は書き手の苦しみを示すように乱れていて、読む側も胸を締め付けられるような気になってしまうから。  書き手の想いが胸に奔流のように溢れ、彼女はこれまで自分が彼にしてきたことを想起して、罪悪感に蝕まれた。  過ぎてしまったことはどうしようもない。でも、彼の誤解を解くことは、今からでもできる。  熱い目頭を抑え、彼女は鼻声で呟いた。 「……行かなきゃ」  そしてやおら立ち上がり、懐かしい家へひた走る。手紙の書き手が一人住む、あの家へ。  もう寝間着姿になっていた彼女とすれ違う度、道行く人は不思議そうに振り返る。  けれど彼女は気にかけもせず、脇目も振らずに走った。 「行かなきゃ」  うわ言のように何度も何度も口にして、彼女は夜の街を駆けて行った。 ********************  夢を見ていた。  白いドレスを着て、真新しい積み木で嬉しそうに遊ぶ星奈。そんな可愛い娘の姿に夢中でシャッターを切る僕と美宇。  ――あぁ、これは。  これは、星奈の初めての誕生日、だ。  美宇が気合を入れて、白いドレスを手作りして。この日のためになけなしのお給料を貯めて、プレゼントに積み木を用意して。  卵や生クリームを使わない、一歳児用のケーキなんてのも作っていたなぁ。一口も食べてもらえなくて、星奈はただただ、ちぎっては投げちぎっては投げ。美宇が小言を言っていたっけ。  頭がぼうっと痺れるくらいに幸せで、星奈に「お誕生日おめでとう」って言うだけで鼻の奥がツンとした。  美宇とお互いに「一年間お疲れ様」って労いあって、でも星奈がこれから歩き出したり喋りだしたらもっと大変だね、なんて苦笑いしたり。こんなに一年が早いなら、星奈が大人になるのなんてあっという間なのかな、なんて感傷に浸ってみたり。  眩しくて苦しくなるくらい幸福で、もう失われて、戻らない日々。  星奈、美宇――。 「み、う……」  視界が滲んでいる。何度か瞬きをして、やっと自分が自宅のソファーで寝てしまっていたことに気が付いた。  甘くて苦い夢の余韻で、思考に靄がかかったように感じる。  そう、そうだ。僕はいつものように病院で勤務して、学会に出て遅くなって、家に帰ってきたらそのままソファーに沈んでしまって。  ここ数日は、ずっとそうだった。  理由は明白。彼女に手紙を書くという作業が思っていた以上に、肉体的にも精神的にも負荷を掛けていたからだ。二・三日で終わると想定していたのに、回顧しては筆を止めてを繰り返していたら、書き上げるまでに一週間も要してしまった。  でもその甲斐あって、なんとか昨日投函できた。速達にしたから、今頃はもう彼女の手元に届いているだろう。  彼女がそれを開封して、ちゃんと読んでいるかはわからないけど。 「読んでくれてると、いいな」  仮に読んでくれたとして、その上で、彼女はどうするのだろう。 もう二度と、僕と会わないのか。それとも……。  いずれにしても、答えは明日の結婚式までにはわかるし、彼女の性格を考えれば、それより早くに連絡が来るかもしれない。  手紙を読むのも、その後僕とどう接するかも、全ては、受け手である彼女の気持ち次第だ。  詮無き思索に終止符を打って、僕は身を起こす。ふと、嫌な予感に襲われて、着ていたスーツのジャケットを脱いだ。 「あちゃー」  思った通り、着の身着のまま寝てしまったから、一張羅のスーツにはシワがしっかりついてしまっていた。僕は小さくため息をつく。 「これ、明日も着るのになぁ」  とりあえず今からでもハンガーにかければ、多少はマシになるかもしれない。  重い身体に鞭打ってソファーから立ち上がったその時、ガチャリと鍵が開く音を耳が捉えた。  僕は固まる。  続いて、玄関の扉が開く音、そしてヒタヒタと廊下を歩く音。  もしかして……強盗……いや、  どんどん近付く気配を、僕は固唾を飲んで待ち受ける。しかし、その足音にどこか聞き覚えがあって、不思議と怖さは消えていった。  とうとう、リビングのドアが開く。現れたシルエットを目にして、僕は自分の聴覚と直感が正しかったことを知った。 「おかえり」  荒い息を吐いて汗で張り付く髪をかきあげる彼女に、僕は微笑む。 「おかえり、じゃない、わよ。あんな手紙、送り付けておいて」  やっぱり。  こういう時、君はすぐさま飛んでくるんだね。 「こんな、気持ちじゃ、明日の式に障りがある、から来ちゃったじゃない! どうしてくれるの!? ――パパ!」  腰に手を当てて仁王立ちで僕に詰め寄る娘――星奈は、久しぶりに対面しても、話しぶりも性格すらちっとも変わっていなかった。 「とりあえず座ろうか、星奈」  見た目はますます、美宇に似てきたけどね。  始まりは、十日前に星奈からかかってきた電話だった。 「どうしたの? 僕に電話なんて珍しいね」  一人娘の星奈とこうして会話らしい会話をしたのは、いつぶりだっただろう。  星奈は中学生になった頃から反抗期を迎え、高校になると家で顔を合わす時間すら、ほとんどなくなった。地方の大学に進学して家を離れてからは、お正月に僕の実家で挨拶をするくらいで、そのまま結婚まで決まってしまった。  数ヶ月前に両家顔合わせに出席した時が星奈を見た最後で、あの時だって僕らはろくに話しもせず、入籍は事後報告。僕の知らぬ間に結婚式の日取りだって決まっていた。  娘が嫁いでしまうという実感も薄い中、結婚式の日だけが迫ってきていた、そんな時だった。 「……パパに、お願いがあるの」  沈黙の末、電話口から聞こえてきた星奈の声は、色濃く躊躇いを含んでいた。 「私に、ママの話をして」  僕は瞬間、息を止めてしまった。 「どうして、急に」 「さっきね、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行ってきてね。そこで、おばあちゃんがぽろっと言ったの。『やっと、結婚式が見られるのね。宙と美宇さんのは、前日にあんなことがあったから』って」 「……」 「私、知らなかった。ママがまさか、結婚式の前の日に亡くなってたなんて。ママができなかったことを私がするんだって思ったら、ずっと蓋をしていた『ママのことを知りたい』って気持ちが、どんどん蘇ってきて、それで、」  僕と美宇の結婚式前日、美宇はこの世を去った。  オムツを買いに出て、飲酒運転の車に跳ねられて即死だったらしい。  二十五年経った今でも、僕はこの事実を受け止めきれずにいて、遺影だって直視できないでいた。  遺影だけじゃない。  美宇との写真も思い出も何もかも、それが乾ききらない生傷みたいに、僕は触れられずにいた。 「私さ、中学生の時くらいまでは、頻繁にパパに聞いてたでしょ? ママがどんな人だったか、どんな風に知り合って、どうやって結婚したかとか」 「聞いてたね」 「結局、パパは一度も答えてくれなかった。ちょうど反抗期もあったし、そもそもパパが院長になって忙しくなってあんまり話さなくなったのもあって、うやむやにしちゃってたけど、でもやっぱり、私は知りたい。ちゃんと自分のルーツを知って、結婚したい」  僕はぎゅっと携帯電話を握りしめた。  星奈に美宇のことを話すことができなかったのは、ひとえに僕の弱さ故だ。  美宇のことを――愛しい妻のことを、笑顔で語ることすらできない僕の心のせいだ。  でも、もう一つ理由がある。  僕は、星奈に何一つ伝えていない。美宇と出会った経緯も、僕が星奈と実の父娘でないことも。  星奈に美宇の話をするのなら、そちらについても考えなきゃいけない。  どこまで話そうか。なんで黙っていたのかって、詰問されるかもしれない。それに対してはどう返そう。  答えなんてすぐに出なかった。だから、僕はとりあえず、こう言って電話を切った。 「わかった、話すよ。でも少し、時間をくれないかな?」 「うん、ありがとう。待ってる」  少し残念そうな星奈の声音に、僕は自分の罪深さを思って慄いた。  星奈はずっと、母親のことを知りたがっていた。なのに僕は、その切なる気持ちを見て見ぬ振りをしてきたんだって。ならば……  こうして僕は、二十五年間、ひた隠しにしてきた事実を全て、星奈に教えることにした。あの日々を思い出すことが、身を切るように辛いとしても。伝えたことで、星奈に二度と会ってもらえなくなるかもしれなくても。  それが現実と向き合うことから逃げてきた僕への、当然の罰だと思ったから。
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