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 七月七日の早朝は、梅雨も明けきっていないのに晴れ間に恵まれ、抜けるような青空になった。  今年の夏は猛暑だと言われているが、確かにこのうだるような暑さ。これでまだ午前九時過ぎだというから、式が開始する正午にはどうなってしまうのだろう。ホテル内で披露宴まで済む会場にしておいて、我ながらグッジョブだ。  そんなことをつらつらと考えながら、彼女――星奈は、鏡の中の自分が刻一刻と花嫁の顔に変わっていくのを見つめていた。  ヘアセットまで終えて、メイクを施してくれた女性が「それでは、少々お待ちください」と席を立ち、彼女はふう、と息を吐く。他人にメイクをしてもらうなんて、人生で数えるくらいしか経験がない。そりゃあ、肩に力だって入ってしまう。  腕をぐるぐると回した後、彼女はおもむろにジーンズのポケットをまさぐって、少し皺がよってしまった父からの手紙を取り出した。  昨日受け取ったばかりなのに、何故そんなにくたびれているのか。  それは、彼女がもう何度目か忘れるほどに、この手紙を読み込んでいるからだった。  父と母の過ごした二年と少しを辿るため。  そして母の死後、父が何を考えて、血も繋がらない自分を愛し、育んでくれたのか。その真意を記憶するために。  結婚式を目前にして、彼女はまた、乱れた文字に視線を落とす。  母が亡くなった日のことは、こう綴られていた。  ――そして、美宇が戻ることは二度となかった。 ********************  そして、美宇が戻ることは二度となかった。  あの日からしばらくは、記憶が飛び飛びだ。  美宇が事故に遭ったと聞いて、病院に駆け付けて、でも一目でわかったんだ。  あぁ、もう手遅れだ、って。  悲しい医者の性だね。雰囲気でわかるんだ。  美宇の周りは整然とし過ぎていて、どうやって僕に話そうかって、そういう顔をした人ばかりだったからさ。  白い布をかけられていた美宇は、出かけた時と変わらない綺麗な顔をしていた。  だからかな。そんなわけないのに、これは壮大なドッキリだって思って「美宇、起きて」って呼びかけてしまったんだ。  だけど当然、答えなんてなくて。そっと触れた美宇の頬は、固くて冷たかった。  僕の腕の中にいた星奈も「ママママ」って言いながら美宇に手を伸ばしたから、その手を掴んで止めてしまった。  星奈が最後に触れた美宇が冷たいなんて嫌だったんだ。  星奈に、美宇の匂いを、温もりを忘れないでいて欲しかったんだよ。  葬儀を終えても、現実味なんてちっとも湧いてこなかった。  え? 僕が泣いたかって?  それがさ、病院や役所の手続き中も葬儀中も、ちっちゃな破壊神こと星奈が暴れ回るから取り抑えるのに必死で、悲嘆に暮れる余裕もなかったんだよ。  だって、あの時の君はまだ一歳半だったから、大好きなママに会えなくて不機嫌にはなるけど、まさかそれが永遠に続くなんて思ってもいなかっただろうからね。ママがいない寂しさの余り、趣味のフィールドワークを一時休止する、なーんてことはしてくれなかったよ。  膨れ面を下げながらも、初めて見るたくさんの献花に興味津々で片っ端から毟ろうとしたり、葬儀場を探検しようと覚えたての二足歩行でとてとて駆け回ったり、僕が落ち込む暇なんて、片時も与えてくれなかったんだ。  その後だって、そうだった。  ご飯にお風呂、保育園の送り迎え、夜泣き、仕事。毎日毎日、星奈と生きることに必死で、悲しいなんて考える暇は僕には全然なかった。  そうだな、それでも一回だけ。一度だけ、美宇の不存在を認識して、取り乱したことがあったよ。  美宇が亡くなってから半年くらい経った時だったかな、星奈が夜更けにいきなり泣き出したことがあって。抱っこしようが、歌おうが、水を飲ませようが「ママママママママ」ってずーっと美宇を恋しがる。僕もプチンときちゃって「ママはもういないんだよ!」って怒鳴っちゃったんだよね。  美宇が恋しいのは僕だって同じだ。子供だからってわがまま言うなよって、さ。  僕の大声に、星奈は一瞬、目を丸くしてピタリと静かになった。でも、次の瞬間には音量四割増で、再び号泣さ。よっぽど怖かったのか、涙もポロポロ流してね。でも、喉が枯れても、星奈は泣き疲れて眠るまで、ずーっと「ママママ」ってガラガラの声で叫び続けていた。  後にも先にも、星奈に怒鳴りつけたのはその時だけだ。あの瞬間の星奈のびっくりした顔は、生涯忘れることはないだろうな。記憶にないかもしれないけど、本当にごめん。  そして、ありがとう。あの辛い時期、少しでも立ち止まったら美宇がいない事実に飲み込まれて、動けなくなりそうだった危うい時期に、無理矢理にでも前を向いて生きていけたのは、星奈がいたからだ。  星奈のお世話をしながら、毎日を過ごすだけでいっぱいいっぱいで、何も考えずに済んだんだよ。  ……ううん、何も考えてない、なんてことはなかったね。  星奈の世界は、毎日新鮮な驚きに溢れていて、僕はそれをいつだって共有してもらっていたんだから。  小指を君の小さな手に握られてお散歩すれば、道端の石ころも、工事現場の三角コーンの欠片も、秋の落ち葉も、なんだって宝物になった。  君はわがままだけど優しい子だったから、宝物を見つけると「あい」って言って、僕に授けてくれたんだ。だから星奈の宝物は、ぜーんぶ二人の記念品にもなったんだよ。  お喋りを覚えた君は、持ち前の好奇心に拍車をかけて、なになにどうしてマシーンと化していたね。オオイヌノフグリ(道端で見かける青い小さな花だね。星奈に聞かれて、僕も初めて名前を知ったんだ)を摘み取っては、「これはなぁに?」。電線を指しては、「どうしてお空に線が引いてあるの?」って具合にね。聞かれる度に、そんな角度から質問が来るのかって驚いたなぁ。僕が当たり前に見過ごしていることが、星奈の手にかかるとクイズの宝庫だったんだ。  星奈と二人でいると、悲しみが入る隙間がないくらいに、日常は宝物と発見で埋まっていったんだよ。  こうやって今、僕が生きていられるのは、文字通り、星奈がいてくれたからなんだ。  ありがとう、パパを一人にしないでくれて。  ありがとう、パパに新しい世界を見せてくれて。  星奈は成長しても、好奇心旺盛で何事も一生懸命で、負けん気が強くてちょっと怒りっぽい、美宇そっくりの可愛い女の子になった。  僕は僕で、大浦産婦人科医院の院長を継いで忙しい日々を送ってしまって、きっと星奈に寂しい思いをさせたことも多かったと思う。  星奈が中学生くらいから家にあまり帰らなくなった時も、僕はきちんと叱ることができなかったね。  本当の父親じゃない僕に、星奈を叱る資格があるのか。悩んでいたんだ。  多分それくらいの時期から、星奈との心の距離がどこかできてしまった気がする。  いつだったかな、星奈に言われたことがあったね。 「なんでパパじゃなくて、ママが死んじゃったの?」  その言葉を投げかけられた時、僕も本気でそう思ったよ。  血の繋がった美宇じゃなくて、なんで血の繋がらない僕が親として残ってしまったんだろうって。そうしたら、星奈もこんな寂しい思いをしなかったんじゃないかって。  あの日、買い物に行くと言った美宇を強く引き止めて、僕が行っていれば。  僕が事故に遭っていれば。  そうすれば、星奈は本物の母親を失わずに済んだのにって。  美宇にも申し訳なかった。  あんなに命懸けで星奈を産んで、一年半もの間必死に守ってくれていたのに。僕が買い物を代わらなかったせいで、その先の星奈の成長を見ることができなくなってしまったなんて。  僕が享受してしまった星奈の全ては、本当は美宇の経験すべきものだった。  星奈を抱っこして頬擦りして、手を繋いで歩いて、お遊戯会を録画したり、図書館に一緒に行ったり、寝る前にお話したり、授業参観に出て、家庭訪問に対応して、遠足のお弁当を作って、卒業式で涙する権利は、  本当は全て美宇のものだ。  僕のものじゃない。  家でほとんど会話もしないまま、星奈は高校生になって、大学生になって家から出て行ってしまった。  驚いたことに、群馬の大学だったね。美宇が呼んだのかなって思ったよ。星奈に故郷の星空を見せたかったのかなって。  その頃から……いや、もっと前から、星奈に本当のことを話すべきか迷っていた。  星奈が誕生した経緯、僕と血が繋がらないこと、どうして母方の親戚と絶縁しているのか。  でも話せなかった。単純な言葉にするのが難しくて、ちょっと言い方を間違えたら、星奈を深く傷付けてしまいそうで。  いや、違うな。  本当は、星奈が僕から離れていってしまうのが怖かったんだ。  だから、あと少し、あと少し大人になってからにしよう。そう思っているうちに、星奈は高校生になって、大学生になって、社会人になって――明日、結婚式を迎える。  けど、ここに来て、星奈から「ママの話をして欲しい」と言われた。  僕は思った。きっと、これはラストチャンスなんだって。  君は言ったね。 「ちゃんと自分のルーツを知って、結婚したい」と。  その通りだ。  星奈、君には君の出生を知る権利がある。  僕のエゴでそれを隠すことはあってはならない。そんなことはずっと前からわかっていたんだ。  だから、できる限り正確に書き記した。  僕と美宇が星奈をきっかけに出会って、星奈のお陰で美宇は強くなれたこと。星奈の誕生がどれだけ周囲に幸せを与えてくれたか。そして、美宇がどれだけ星奈を愛していて、どんなにかその成長を見たかっただろうということを。  星奈、今まで本当にありがとう。  何度でも言う。星奈がいてくれたから、僕は生きてこられた。星奈のお陰で、僕の人生は発見と喜びに満ち溢れていた。  星奈は、僕がパパで不満だったかもしれない。寂しい思いもさせたかもしれない。  でも僕は、星奈のパパになれて、本当に幸せだった。  全てを知って、それでも僕のことをまだパパと呼んでくれるのなら、僕も改めて星奈に言いたい。  これからもよろしくね、って。
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