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「また読んでるの?」  背後から掛けられた優しい声。彼女は鏡越しに、その持ち主と目を合わせた。 「文吾(ぶんご)」 「お義父さんからもらったんだっけ」  新郎はいつも通り、穏やかに微笑む。彼の春風に似た優しい人柄と耳に心地良い柔らかい声音は、波立った彼女の心を静かに癒していった。 「そう。……ママの話をね、初めて教えてもらったんだ」 「そっか。星奈、ずっと知りたがってたもんね。良かったね」 「うん。でも、他にも色々思いもしないことがわかって」 「だから昨日の夜いきなり、実家に帰って話してくる、なんて言い出したんだね。パジャマだし、深夜だし、心配しちゃったよ」 「それは、ごめん」 「いいって。星奈は一度言い出したら聞かないから、俺が止めても行ってたでしょ?」  彼女はバツが悪そうに、真っ赤な紅を引いた唇を軽く噛む。彼の言う通りだ。おそらく、止められても彼女は走っていっただろう。  意志が強いのは彼女の長所だが、それは頑固者という短所でもある。 「で、スッキリした? お義父さんと直接話して」  彼女は首を縦に振ろうとして、その動きを止め、「いや」と呟いた。 「言いたいことは言った、つもりだった。でも、一番大事なことをまだ言えてない」 「一番大事なこと?」 「そう。パパ、書いてたの。昔、私が言った『なんでパパじゃなくて、ママが死んじゃったの?』って言葉に『その通りだ』って」  彼女の眉間に深い溝が刻まれる。父と、過去の自分に対する憤りが、そこには現れていた。 「バカだよね。そんな心にもないこと言う中学生の私も、それをずっと真に受けてるパパも。そんなこと、有り得ないのに」  そう言いながら、彼女の美しく化粧が施された顔は、ますます苦しそうに歪む。額の前で組んだ指は力が入るあまり、うっ血しそうなほど赤黒く皮膚が色づいていた。 「ちゃんと、そんなわけないって、否定しなきゃいけなかったのに、私」 「ストップ」  妻の両手を引き剥がして、文吾が目を細める。元々、眠たげにも見えるほど縦幅の狭い瞳は、ほとんど閉じているようになった。 「大丈夫だよ。今の星奈の姿や、これからやろうとしてることを知ってもらえれば、星奈がお義父さんのことが大好きで尊敬してること、すぐわかるはずだから」 「文吾、」 「だから、そんな顔しないで。せっかくの晴れの日なんだから、笑って欲しいな」  夫が何気なく口にしたフレーズに、彼女は目を見開いた。 「その言葉、パパの手紙にもあった」 「そうなの? 偶然だね」  そうだ。ただ一度、顔を合わせただけの二人の言葉が一致したのは、十中八九、偶然に違いない。  でも、選ぶ言葉が似通うのは、きっと偶然じゃない。  彼女は薄々、感じ取っていた。自分のパートナーがどこか父の面影を持っていることに。  見た目は、似ても似つかない。夫は細い垂れ目に丸っこい鼻が犬を思わせる優しい顔立ちだが、父は切れ長の一重まぶたが特徴的で、あっさりとしたいわゆる塩系のどちらかと言えば冷たい印象を与える顔をしている。  けれど、立ち居振る舞いや物事の捉え方やなんかが、二人はそっくりなのだ。  父と似た人を伴侶に選ぶなんて、まるでファザコンのようで恥ずかしいが、これこそ文吾の言う「お義父さんのことが大好きだとわかる、今の星奈の姿」なのだろう。  そして、もう一つ。 「私が、これからやろうとしていること……」  夫の言葉を口内で反芻して、彼女は考え込む。  彼が示しているのは、あのことに違いない。確かに、今日の式を終えて折を見て父に相談すれば、父だって喜んでくれるだろう。いや、むしろ――  コロコロ表情を変える妻がおかしいのか、笑みを深めて文吾は首を傾げた。 「まーた、何か変なこと思いついたでしょ?」 「あのさ、文吾、」  彼女はごにょごにょと、夫の耳元に小声で相談を打ち明ける。二人きりのこのメイク室で不必要な動作に思えるが、大事なのは場の雰囲気だ。つまりこの話が、限られた人にのみ共有される、内密な話だというのが肝要である。 「ってわけで、最後にあの話をしたいんだけど」 「なるほどね。いいんじゃない? 会場も盛り上がりそう」 「……本当にいいの? この話が実現したら、 私はもちろん、文吾の人生だって変わっちゃうんだよ。今より忙しくなって、ただでさえ文吾に家事頼りきりなのに、ますます負担かけちゃうかも。こんな早く決断しなくても」 「全然いいよ。昔から決めてて、そのために今まで頑張ってきたんでしょ? 星奈は。俺はそんな星奈を応援したくて、在宅ワークが基本の今の会社にいるんだし、家事全振りドンと来いだよ」 「え? そんなこと、初めて聞いたんだけど」  文吾とは学生時代からの付き合いにはなるが、よもや自分のために就職先を決めたなんて思いもせず、彼女は狼狽する。 「言ってないからね」 「ごめん、そんなっ、文吾の人生を左右するようなこと」 「だーかーら、全然いいって。俺が星奈を応援したくて勝手にやったことだから」 「でも、」 「あと、このことを実現するタイミングにしても、星奈は一度言い出したら聞かないだろうし、それに、」  文吾は、下手なウインクを彼女にしてみせる。両目を一緒に閉じるもんだから、ただの不器用な瞬きにしかなっていなかった。 「それに、星奈の判断を俺は信じてるから」  夫の潰れたパグみたいな顔が、彼女にはとても可愛く、愛おしく映った。 「ありがとう、文吾」  彼を夫に選んで良かった。彼女はようやく、人生最良の日に相応しい誠の笑顔を浮かべることができた。  夫も背を押してくれた。  そうと決まれば、もう時間はない。  彼女は、父からもらったものとは別の便箋を取り出して、あーうーと悩みながら、最後の文字を書き換えていく。  結婚式は、あと数時間のところまで迫っていた。
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