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「そうか、星奈に話したか」  星奈の結婚式当日。新婦側の親族控え室で窓から空を見上げて、父さんが嗄れた声で言った。  御歳九十歳。白い台風と呼ばれた猛烈な勢いは、院長を退き、幾度かの闘病を経て、すっかり影を潜めた。それでも鋭い眼光だけは、いつまでも衰えない。  僕にとっては今でも、人生の良き先輩で、越えられない目標だ。 「うん。でもあっけらかんとしててさ。血の繋がりなんて大したことじゃない、ママのことを知れて良かったって笑ってた」 「そうか。強い子に育ったな、さすが俺の孫だ!」  豪快に笑ったかと思えば咳き込んで、母さんが心配して背中を摩る。 「父さん、せっかくの星奈の晴れ姿を見る前に死ぬつもり? これじゃ、星奈がなんのために結婚早めてくれたのかわかんないじゃない」 「えっ、そうなの?」 「あぁ、宙は聞いてなかったかしらね。星奈、本当は来年あたりに籍入れるつもりだったんだけど、おじいちゃんに式を見せたいからなるべく早めにって、旦那さんと話して決めたみたいなのよ」 「へー。ていうか、母さん、よく知ってるね」  僕は結婚することも、相手も、式の日時も全部事後報告だったんだけどなぁ。  僕の寂しい気持ちを見透かしてか、母さんは「しょうがないわよ」と謎のフォローを始めた。 「星奈にとって、私はママ代わりみたいなところがあるから。女の子には、父親に言いづらい話ってのもあるもんよ」 「そんなもんかな」  まあ実際、疎遠になっていた僕とは違い、星奈は父さんと母さんの家、つまり祖父母宅には頻繁に行っていたみたいだし、情報量が違うのは仕方ないのかもしれない。 「それに、あんまり宙の時間を取っちゃうのも悪いって気持ちもあったみたいよ。なにせ、あなたはもう、大浦産婦人科医院の院長なんだから」 「よっ! 院長!」 「や、やめてよ、母さん、安藤さん」  父さんに癌が見つかり引退を決めた十年前、僕は父さんの跡を継ぎ、ついに院長になった。  当時、星奈は中学三年生。彼女が反抗期真っ盛りだったのに、僕が忙しくなってしまったことは、娘との関係に生じた溝をどうしたって深めた。  母さんが言うように気を遣った側面もあるのかもしれないけど、僕を避けていた本心は、星奈にしかわからない。  でも昨夜、数年ぶりに笑って話すことができたからか、僕の心は軽かった。 「というか安藤さん、なんでここいるんですか? ここ、新婦親族の控え室なんですけど」 「やだ、宙ったら! 星奈と母さんが呼んだのよ。安藤さんは星奈にとって、近所に住む仲良しな叔母さんみたいなものでしょ?」 「そうそう。私もせーちゃんのこと姪っ子みたいに思ってるんだから! 十分、ここにいる権利があるわ!」  そんな感情論だけで来るところじゃ、と、言いかけてやめた。  もとより親子だ、親戚だなんて血の繋がり自体、星奈は気に留めていない。昨日、本人から聞いたばかりじゃないか。  星奈のことを昔から見守っていて、可愛がってくれて。それが一番大事なことだ。 「その通りですね。野暮なこと言ってすみませんでした」 「あら、素直。美宇ちゃんがいるお陰かしらね」  感心する安藤さんが同意を求めるのは、僕の腕の中で微笑む美宇の写真だ。  遺影にも使ったこの写真は、星奈が一歳になった記念に写真館で撮ったものだった。  慣れない畏まった雰囲気に表情を強ばらせてしまった僕とは違い、初めての撮影とは思えない自然な笑顔で星奈を膝に抱く美宇。  美宇の写真はいっぱいあったけど、やっぱり、星奈と一緒にいる時が一番嬉しそうで、可愛くて、愛に溢れた素敵な顔をしていた。 「そうかもしれないですね」  母さんも安藤さんも、ひょっとしたら父さんだって、美宇が亡くなって以来、僕が彼女の写真すら見られなくなってしまったことを察していただろう。  僕が星奈の結婚式に美宇を連れてくることができた。  その意味は、だからきっと、この場にいる全員に伝わっている。  真夏の強い陽射しを窓越しに浴びて、美宇のとびきりの笑顔はキラキラ光を放っていた。  星奈たち夫婦の結婚式は、とても素晴らしいものだった。  星奈と旦那さんの文吾さんは共にしっかりした性格らしく、式も披露宴も一つの綻びも見つからないし、ゲストの雰囲気も温かで、二人が友人や同僚にいかに愛されているかが伝わってきた。  大阪の出身だという文吾さんのご両親は、関西人のテンプレートのような明るく口数も多い、楽しいご夫婦で、ガチガチに緊張する僕を何度もとびっきりのジョークで笑わせてくれた。もっとも、文吾さんにはお兄さんがいるらしく、ご両親は新郎両親を既にこなしたことがあったから、その経験値の差からくる余裕もあったのかもしれない。  星奈の父親業となると、僕はいつでもビギナーで、イベントの度に緊張で胃が痛んでしまうんだ。でも、これが最後の大役だからと、バージンロードで星奈の腕を引く時には、精一杯背筋を伸ばして風格を醸し出そうと努力したよ。  そんなこんなで、披露宴でやっと一息つけた時に、星奈たちが自分で作ったという生い立ちのムービーが大スクリーンで流れ始めた。  各テーブルで思い思いに歓談していたゲストも、会場が薄暗くなるにつれ、自然と口を閉じる。  まず流れ出すのは、新郎の文吾さんのムービーだ。  生まれた瞬間らしき、ピンクのタオルに包まれた赤ちゃん。少し犬を彷彿とさせる辺りが、現在の彼の姿と重なるものがある。  優しげなパグに似た赤ちゃんは、やがてくちゃっと笑う男児になり、母親と手を繋ぎながら遊園地に行く。大好物のカレーを頬張る姿を父や母、兄に見守られながら、彼はすくすく成長していく。  すると隣のテーブルで、微かに鼻を啜る音が聞こえた。顔の向きは変えずに黒目だけ向けると、音の発生源はどうやら文吾さんのお母さんらしきことがわかった。  僕はちょっとだけ驚いた。直前まで、あんなに賑やかにご親戚と料理を楽しんで、息子の巣立ちも二回目だから慣れたものだ、という風だったのに。  でも、そういうものではないんだろう。子供の成長を見守って、巣立っていく姿を見送るというのは、たとえ何人経験しても、胸のまんなかがぎゅっとして泣きたくなるものなんだ。 「文吾くんは、いいご両親に育てられたんだな」  右隣に座った父さんが、珍しく小さな声で僕に囁く。僕も目の縁を熱くしながら、黙って頷いた。 「父さん、宙。星奈のムービーが始まるわよ」  ひそひそ話が聞こえていたのか、母さんが窘めるように言う。僕も父さんも、慌ててスクリーンを再度、注視した。  音楽が変わって、画面いっぱいに映し出されたのは、僕の記憶にも馴染み深い世界一可愛い宇宙人、若しくは温泉上がりでホカホカの赤黒いお猿さん。どっちにしても、僕にとっては今までも、そしてこれからも、この世で一番尊くて愛おしい赤ちゃんだ。  次に映ったのは、保育園に入園したての星奈。長く着られるようにと百センチで作った紺の制服はぶかぶかで、それでも得意げに着こなしているから、なんとも愛らしい。でも園の前に着くと大号泣で、彼女を置いていくのに僕は後ろ髪引かれまくりだったな。なのに一ヶ月も経つ頃には、僕の自転車が止まるやいなや、お気に入りの美奈子先生に突撃していくようになっていて、僕は逞しさを感じると共に一抹の寂しさを覚えていた。  その次は、初めてテーマパークに行った時の写真だった。僕と二人きりで行って僕は撮影係に徹していたから、星奈は一人ぼっちでメリーゴーランドに乗っている。その後、ランドセルを背負う星奈も、大好きなオムライスにケチャップをかける星奈も、いつも一人で、笑顔なのにどこか寂しい影がちらついている。中学校の制服を着る星奈に至っては、もう膨れ面になっていた。  画面に出てくる星奈はどれも、僕には懐かしくて、そしてほんのり切なかった。  美宇もその場にいれたら良かったのにね、そうしたら家族での写真もあったのにね。  妻の写真に心の裡で話しかけてしまったけど、当然返事なんかない。  自ら進んで、昏い洞に迷い込んでしまったような、そんな愚かしさと侘しさの入り交じった思いに舌の裏側が苦く染まる。  高校に入ってからの星奈は、僕が知らない表情も垣間見せていた。  友達と高校の文化祭で笑っている姿も、大学の入学式でリクルートスーツを着る……というより着られている姿も、実習で白衣を羽織る姿も。僕が仕事に明け暮れているうちに、星奈がこれだけ成長していたのだと、改めて感嘆するものばかりだった。  もし、僕がもっと早く星奈に美宇の話をできていて、それで星奈と仲が良ければ。この姿を僕は直接見ることができたんだろうか。  いや、美宇が生きていれば、星奈と僕の関係が気まずくなったとしても、やれやれって美宇が間を取り持ってくれたんじゃないか。  実現しなかった平凡な未来と答えのない問いが、頭の中を堂々巡って明滅する。  父さんや母さん、安藤さんがハンカチで目元を拭う中、僕だけが乾いた瞳で映像を見ていた。
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